第九話 可能性の代償
「──全てのスキルを、繋ぐのです」
目が覚める前に、暖かい声がした。
この声は前に聞いたことがあった。
声の主と共に、俺は真っ白な空間にいた。
そう、それはこの世界に転移してきたときの──。
*
強烈な金属臭に鼻腔を貫かれ、俺は目を覚ました。
視界はまだ霞み、世界は布を一枚かぶせたみたいに遠い。
強い苦味が舌に残っている。
「ハルト、しっかりして。意識は戻った? 指は何本に見える?」
「……三本」
「今の水薬は緊急措置だから許してちょうだい。」
イザベラの声だ。枕元で彼女が指を三本立てていたのが辛うじて見える。
手のひらが俺の額に当たり、暖かさが伝わる。
彼女の顔にはいつもの実験にのめり込む興奮はなく、至って真剣だった。
「夢を見たんだ。なんだか、女の人の声が……」
喉が乾いて、言葉は擦れた。
頭の芯にまだ夢の残像が残っていた。
白い顔、微笑む目。
そして、どこか懐かしい響きをした声。
何を言われたかはぼんやりしているが、確かにスキルの話をしていた。
その状況には、どこか既視感があったが思考が乱れて思い出せない。
イザベラが手のひらに魔力による薄い光を走らせた。
触診のように、身体を慎重に探っていく。
光は皮膚を透過し、内部を照らしているように見える。イザベラの額に汗がにじむ。
「脳神経の微細な損傷が散らばってる。でも、思ってたよりも範囲が広いわね」
イザベラの言葉は短い。だがその断言には重さがあった。
「上位スキルを酷使した時に同じ症状が出ることがあるわ。でも半日発動し続けるとか、そのレベルの話よ」
「相互作用の副作用か? スキル四つまでのルールは守ってたけど……」
「四つルールは短時間の安定運用という意味では安全域と言えるわ。でも、短期検証では分からない蓄積型の副作用が進行していて、今回はそれが限界を越えた──つまり、初日の検証時点では知り得なかった事態ね」
彼女は指を俺のこめかみに当て、低く独り言のように続ける。
「脳とスキルに相関があるのは立証されてるの。相互作用はまだ未知の領域よ。脳に想像以上の負荷がかかっていても不思議じゃないわ」
イザベラは脳の読み取りをしながら、空間に投影して見せた。
彼女が指を動かす度に、無数の光の線が空中に浮かぶ。
切れた線、瘢痕のような黒い斑点は不完全な地図そのものだ。
俺はそれを見て、自分が思っていたより危うい橋を渡っていたのだと分かった。
「すぐ処置する。緊急性が高いの。後でちゃんと説明するから」
イザベラの声はいつもの研究者のものではなく、医療者のそれだった。
彼女は普段、薬の投与は本人の同意を重視している。
俺も何度か同意を求められて断ったことがある。
返事をする前に、彼女は既に小瓶を取り出していた。
薄い緑の液体。いつもの回復薬とは違う水薬だ。
濃厚な青臭さがあり、喉を通るときに舌が痺れる。
「文句は後で聞くから。今は飲んで」
イザベラの手が、俺の口を開かせる。二本目の水薬が注ぎ込まれた。
舌の痺れが、俺を現実に手繰り寄せる。
夢の残り香の──あの声が遠ざかる感覚がした。
視界がはっきりしてくる。耳鳴りが止まり、色が戻る。
イザベラは薬壺を片付けながら、小声で続けた。
「今のは応急的な神経補修。根本的な治療じゃないわ。相互作用を酷使すれば、同じか、それ以上に悪化する──多分ね。処置を急いだのは、放っておいたらもっと酷くなるから」
イザベラはまくっていた古い薬剤の染みのある白衣の袖口を戻す。
彼女は笑いもしない。
水薬絡みで自分の世界に入りがちな普段とは違う、命を預かる者の顔だ。
部屋の扉が開き、シャーロットが静かに入ってきた。表情は硬い。
「イザベラ、ハルトさんの様子は?」
「微細な神経損傷がたくさん。神経補修の水薬を投与済み。経過の観察は必要ね。今後は神経系を保護する医療用の水薬が必須になるかも」
シャーロットは眉を寄せる。
「素材の在庫は十分にありますか?」
「少しはね。でも十分とは言えないわ。悪いけど」
イザベラの返答を受け、シャーロットは視線を床に落とし、ぽつりと言った。
「相互作用を使う上で、神経保護は必須のルールにします。例外は認めません。ギルド長命令として徹底します」
「でも、俺のせいで余計な金が──」
この問題はギルドの経営に直結する。
水薬も医療用のものとなれば、資材確保にはルートも資金も必要だ。
俺のせいでギルドの財政が揺れる。胸の中が重くなった。
「ハルトさん。あなたがリーダーとしてパーティを守るつもりなら、あなたの身体はわたしが守ります。そのために必要なものはわたしがどうとでもします」
彼女の決断は素早かった。
口ぶりには冷静さと監督者としての責任が混じっている。
俺は笑おうとして、頬が動かなかった。
ありがとう、という気持ちと、申し訳ないという気持ちがない交ぜになる。
シャーロットは平静を装っているが、その動揺は彼女の目が何よりも物語っていた。
治療が落ち着いた静寂の中で、不意に廊下からリーベの声が聞こえた。
彼女の声はわざと明るく振る舞っているように聞こえた。
「やあ。取り込み中悪いけど、例の肖像画が変なことを言ってたんだ。名前を何度も──『アズール』って」
シャーロットの瞳が一瞬、固まった。
俺も顔を向ける。
リーベの表情は、何かが引っかかっている様子だ。
「アズールって、あの『蒼翠の剣』の?」
「まあ、普通そう思うよね。それ以外で聞く名前でもないし……というか、ハルトはもう話して大丈夫なの?」
ヒルダとの手合わせ前、確かにリーベは黒塗りの肖像画と話している様子だった。
しかしまさか事故物件の霊の口から、A級パーティの中心人物であり、冒険者ギルド役員の名前が出てくるとは。
「アズール? どうしてこの屋敷で……?」
シャーロットがその名を口にした。
冒険者ギルドの受付嬢として働いていた彼女だからこそ気付く“何か”があるのかもしれない。
「知り合いなのかな。それ以上は答えてくれないから、なんとも」
リーベは軽く付け足したが、深く踏み込むことはしなかった。
彼女には死霊術師として霊を見る力がある。
だが肖像画が言うこと以上の、その文脈を読み解くほどのことはできない。リーベの報告はあくまで観測にすぎない。
シャーロットは一瞬だけ黙り込み、やがて低く「書類を見てきます」と言った。
俺の見舞いを終えた彼女は、資料部屋の方へ向かった。
イザベラがそっと俺の肩に手を乗せる。
心が沈む俺を年長者として、パーティの一員として、励ますように。
「水薬の効能評価のために医療魔術をある程度修めておいてよかったわ。案外寄り道に思えるものでも、後から見れば必ずしも悪いものばかりではないの。今日、私があなたを治療できたみたいにね。その副作用だってもしかしたらそうなのかも。都合の良すぎる話かしら?」
「そうであることを祈りたいな。みんなのためにも」
「あの水薬は調整しないと次第に効かなくなるわ。あなたには専用の調整薬が必要。でも調整次第で副作用を完全に潰せる可能性もある。つまりあなたの今後は、まだ未知数とでも言うべきね。希望を持てとまでは言わないけど、ただ、前を向きなさい」
続けてイザベラは自嘲気味に言った。
「改良には研究と資材、時間も必要ね。何度も試作品を飲む必要があるけど、一々味に文句は言わないでちょうだい」
「わかってるよ。『良薬は口に苦し』ってやつだ」
「へえ。初耳だけど、いい言葉ね」
どうやら、こっちの世界にはない言葉のようだ。
俺が目覚めてから、ようやくイザベラが笑った気がした。
まあ、本当は薬の味そのものについての言葉ではないみたいだが。
夜が深い。室内のランプの光が、床に長い影を落としている。
あの女の声は夢だったのか。
それとも誰かが俺に語り掛けてきたのか。
わからないことだらけだったが、一つだけ確かなことがあった。
相互作用は「可能性」であり、同時に「力の前借り」だ。
しばらくしてリーベがまたやって来て言うには、廊下で肖像画がまた一度、「アズール」とつぶやいたらしい。
彼女は小さく笑ってみせたが、もやもやした気持ちが晴れないようだ。
リーベは今夜、一晩中肖像画の前にいるつもりらしい。
小さな穴が、大きな何かへ通じている気配。
きっと行き着く先には、金と名誉と、評判で固められた壁がある。
その向こうに──「蒼翠の剣」。
アズール。その名前がそう感じさせた。
俺はベッドの中で目を閉じる。
頭の中では、女の声とアズールの名が交互に浮かび上がってくる。
夢と現実の狭間で、これから自分が選ぶべき道について考える。
大それた話じゃない。まずはみんなに心配をかけたことを謝って、元気になったところを見せよう。
そこまで考えて、俺は眠りに落ちた。
副作用が一時だけ遠のいた、穏やかな眠りへ。




