第七話 力なき者
坑道を出たとき、空にはまだ夕焼けの名残があった。
馬車の荷台には討伐の証拠としての「深淵の牙」の素材の一部。
血と鉱石と汗の匂いが風に流されていく。
「北方商会」の支部に着くと、ゴードンが即座に応接室へ現れた。
報告は端的に、証拠は簡潔に。
俺とシャーロットが要点を並べれば、ゴードンは重ねての確認はせず「即日支払い」を指示した。
机にずしりと大袋が置かれ、金貨がジャラジャラと音を立てた。
彼は同時に、坑道へ人員を派遣して「深淵の牙」本体の査定にもすぐさま取り掛かると保証した。
俺たちにとっては働いた分の対価が即時に示された、ということ。
ゴストリンに帰還したころには空は完全に漆黒に飲まれ、街の灯がささやかに闇を照らす。
「今日はあの酒場ではありません。こっちです」
彼女は迷いなく歩き、ゴストリンの中心街へと俺たちを導いた。
通りの幅が広がる。夜店の灯が等間隔に連なり、衛兵の詰所も見えた。
ここは俺が日雇いのころ、飯代を浮かすために遠回りして避けていた、あの「一等地」だ。
「ここです」
シャーロットが止まった先には黒鉄の門扉。
手入れの行き届いた生垣が塀の内側を縁取り、奥には三階建ての屋敷。
少し古いが、暗がりから見ても豪商やら上流階級が住むような立派な作りに思える。
「え? ここ、誰かの屋敷だろ?」
「今日からわたしたちの本拠地になります。受付を設けるために一部は改装中。正面のホールを窓口に、二階と三階は居住スペースと資料部屋。地下は倉庫に。五人では今の食堂は広すぎるので、とりあえず会議室にする予定です」
「マジか。運転資金ってそんなにあったのか」
驚きながらも俺は思わず笑ってしまった。
裏路地の酒場のテーブルと、ガタついた椅子。
それが俺たちの“会議室”だったのは、昨日の話だ。
「運転資金は運転資金ですよ。これは『ワケあり物件』を買い叩けただけです」
俺が眉を上げるより早く、リーベが門柱に指先を触れた。感触を確かめるようにゆっくりと指を滑らせる。
「死者の痕跡が残ってるね。薄いけど、古くないな。あんまり……よくない残り方だね」
「『ワケあり』って、つまり事故物件のことか」
つい口から漏れる。
俺の世界の言い回しが、こっちでも同じ意味を持つのが可笑しく感じる。
「頭金は既に支払い済みです。残額は『深淵の牙』の討伐報酬から支払います」
「いや、それって依頼に失敗してたらどうするつもりだったんだ」
「みなさんが失敗しない限り、わたしも失敗することはありませんから」
シャーロットは平坦な声のままさらりと言う。
彼女の淡々とした決め台詞を聞いて、俺は心の中で「女傑だ」と呟く。
鉄の匂いのする門を開け、俺たちは二階へ上がった。
廊下は長く、壁には古い肖像画が並んでいる。だが、どれも顔だけが黒く塗りつぶされていた。
リーベが興味を持っている時点で、曰くつきなのは確定したようなものだ。
不気味なのでこういうのは外しておいてもらえないだろうか。
「各自の部屋に荷物を運んでおくように手配しました。盗難防止の結界は張り直し済みです」
俺は割り当てられた部屋に入った。
安宿のきしむベッドと、隙間風。
そこから、一歩抜け出した実感が全身をじわりと満たしていく。
胸が高鳴る。浮かれた気分のまま、窓際に歩み寄ろうとして、足が止まった。
床板の隙間、窓の桟。茶色い汚れが残っている。
丁寧に拭いたあとがあるのに、隠し切れていない。
これ、血痕じゃないか。
「現場はここと、もう一つの部屋だね。階段にも少し気配があるよ」
外からリーベの声がする。ドアを開けると彼女は目を閉じて立っていた。
死霊術師として死の残滓を読み取っているらしい。
「念のため封印の手順を踏んでおくよ。厄介な縁が残ってると、うなされて寝不足になるからね」
「……お願いします」
俺は息を吐き、窓を開けた。
冷たい空気が頬を撫でる。
薄気味の悪い部屋だが、おかげで俺は落ち着きを取り戻した。
各自が倉庫に備蓄された食糧で夕食を済ませ、早く床についた。
遠出に強敵の討伐、疲れて当然だ。
俺だけはベッドの上で壁に背を預けて起きていた。
ここへ来て、生活にようやく余裕が生まれたのか、俺はふと元の世界を思った。
両親は早くに亡くなり、残されたのは二つ下の妹だけだ。
あいつは学費免除で大学を出て、大企業で働き始めたらしい。
たまに「元気か」というメッセージをくれるが、返信が面倒で、俺はいつしか距離を取るようになった。
安定した生活を送るあいつに自分の情けなさを見せたくない、自分を恥じる気持ちがどこかにあったからだ。
(ちょっとは心配されてるだろうけど、今さら戻ったところでな)
苦笑する。
数日前、元の世界への帰り道を探すつもりでシャーロットの誘いに乗ったはずだった。
でも戻ったところで、俺は何者で、何をする?
こっちの世界では、スキルの相互作用で命を張る。
だが今日みたいな日が、明日も明後日も続くとは限らない。
(この世界で命を張り続けるのが、正解なのか?)
答えは出ないまま、夜が深くなった。
*
翌朝、玄関ホールに設置された仮設テーブルでパンと薄いスープ、リンゴの簡素な朝食をとる。
そしてそのまま会議室代わりの食堂に案内された。
洋風の屋敷にぴったりな長いテーブルがある。
「まずはギルド名から決めます」
シャーロットが手短に進行を告げる。
確かに名前はギルドの看板として重要だ。
特に「北方商会」のような大きい組織と商売をしていくつもりなら、なおさらだ。
「じゃあ『特別リスク専門対策チーム』はどうかな? そのまんま」
まずリーベが案を挙げ、イザベラが「ギルドの名前って言ってるでしょ」とこぼす。
ヒルダは「長い」と一刀両断。
俺は面白いと思ったが、ちょっと行政の部署っぽい。
いくつか案が出たが、シャーロットは既に掲げている方針『高リスク専門ギルド』を看板化する方向で収めた。
言葉を整えて提示されたのは『特級リスク対策社』という名称だ。
端的かつスマートになった気がする。
反対意見もなく、会議は円滑に進む。
空気がざわついたのは、次だった。
「パーティのリーダー決めに移ります。率直に言って、誰がいいと思いますか」
誰もすぐには口を開かなかった。俺はシャーロットを見る。
彼女は微笑のまま、静かに首を横に振った。
戦闘要員ではないシャーロットが表に立ち続けるわけにはいかない。
分かっていても、頼りたい気持ちが喉に引っかかる。
突然ヒルダが椅子を跳ね飛ばすように立ち上がった。
彼女は腕を組み、部屋を見回す。
「悪いけど、あたしより弱いやつには従えない」
ヒルダの冷たく突き放すような言い方に驚く。
まだ出会って三日目だが、彼女がこういう物言いをするのは初めてだ。
「弱っちいリーダーには従いたくない。間抜けの判断ミスで死ぬのなんてまっぴらごめんだ。パーティを何回追い出されようが、変わらないし、変えるつもりもないね」
ヒルダのパーティ追放の理由が、あっさり口にされた。
リーベが目を細め、イザベラは手の中で小瓶を転がす。
シャーロットは表情を変えない。
俺は黙っていた。
彼女の性格的に、ありえない話ではないと感じたからだ。
ただ、過剰にも思える荒っぽい口ぶりが気になった。
「でもシャーロットは別だ」
ヒルダは続けた。
「強い弱いは殴り合いだけじゃないだろ。シャーロットはギルドの中から、ギルドの外に手を伸ばした。そういうやつをあたしは強いって思う。だからあたしはシャーロットになら従う」
シャーロットは微かに目を伏せた。
だが、彼女は前線に立てない。立たせるべきでもない。
「ヒルダはどうしてそこまで“強い”“弱い”にこだわるんだ?」
俺は問いを投げた。
彼女が何を思ってそう言うのか、理解する必要があると思ったからだ。
「聞いても面白くねえよ」
「それでも、聞かせてほしい」
ヒルダは立ったまましばし沈黙し、拳を握った。
爪が手のひらに刺さってしまうような強い力が込められている。
「……スラムのガキが妹を守れなかったってだけの話だ」
いつもよりも低い声で、彼女はぽつぽつと言葉を紡いでいく。
「親父が事故で死んで、クソババアは逃げた。残されたのは十二のあたしと妹のミアだけ。誰も味方なんかいなかった。だから盗んでミアを食わせた。でも、結局盗みに入った先で待ち伏せされて豚箱送りだ。十人中七人はぶちのめしたけどな」
ヒルダに乾いた笑いが浮かび、一瞬で消えた。
代わりに怒りで顔を歪ませる。
「出てきたらミアが死んでた。病気だった。つまりさ、ミアの味方は最後まであたししかいなかったんだ。弱いやつらは、もっと弱いやつを締め出して自分を守る。だからあたしは弱いやつらを軽蔑するし、服従しない」
怒りと哀しみの混ざった最後の言葉は、わずかに震えていた。
ヒルダの怒りは過去の自分自身にも向いているように見えた。
部屋の空気が重く沈む。
イザベラは唇を噛み、リーベは視線を天井に逃した。シャーロットは静かに手帳を閉じる。
会議は、もはや会議の形を保てなかった。
シャーロットが短く息を吸い、「今日はここまでにしましょう」とだけ言った。
解散の声に従って椅子が引かれる音が、遠くで鳴っているみたいだった。
俺は座ったまま椅子のひじ置きに両手を置いて、テーブルの木目を見つめる。
妹か。
俺の世界にいる妹。俺は守ったか?
いや、守るも何もない。俺の方から遠ざかったんだから。
ヒルダの語った「弱いやつら」の中に俺は含まれるのかもしれない。
新しい居場所と新しい拠点、新しい名前は得た。
後は誰がリーダーとして旗を持ち、誰がその影で支えるのかだ。
昨日、シャーロットは言った。
『みなさんが失敗しない限り、わたしも失敗することはありませんから』
じゃあ、俺は失敗しない側に立てるのか。立たせられるのか。
答えはまだ出ない。だから考え続ける。
土壇場でスキルを選ぶように、慎重でありながら大胆に。
この屋敷には、可能性という名の火がもう点いている。
その灯はヒルダの妹にも、俺の妹にも、届くわけじゃないけれど。
火を消さないために、ヒルダともう一度言葉を交わす必要がある。
俺は立ち上がり、椅子を引いた。
今からヒルダを追いかけて、嫌がられても話をしよう——そう決めた。




