第三話 竜種危険区域
俺が「タイマー」として拠点にしていた小都市ゴストリンを出発し、西の丘陵に入ると、まず気づいたのは静けさだった。
草むらのざわめきも、小さな魔物の気配も希薄で、風だけが稜線をなでていく。
リーベがひょいと肩の小鳥を撫でて、「ここ、いい素材が眠ってそうだね」と呟いた。
きっと骨のことだろう。彼女のことをヒルダが特に警戒している様子なので、あえて触れない。
「これってドラゴンの影響だよなあ。巣が近いと周辺の魔物は食われるか逃げるかだし」
俺がそう言うと、リーベは軽く頷いた。
竜の縄張りは恐ろしいが、検証の仕事はやりやすいというのは利点だった。
魔物が跋扈する他のエリアを突き抜けて、これほどの距離を移動することなど考えたくない。
俺からしたらゴストリンは見るべきものもない小都市だったが、周辺で魔物同士の勢力争いがしょっちゅうある。
だから日雇いの「タイマー」がとにかく多い。
ヒルダは黙って周囲を睨み、イザベラは背負った袋をがさごそと探っている。
どうもイザベラの顔色が良くない。歩き回るフィールドワークが不慣れなのだろう。
汗ばんだ額を手で拭って、イザベラが薄く笑った。
「心配かしら。こんなこともあろうかと疲労回復薬。一人分しかないから、悪いけど私が飲むわ」
「歩いてるだけだろ。いらねーよ、モヤシ」
ヒルダがぶっきらぼうに返すと、「あらそう」とイザベラは小瓶の中身を流し込む。
そしてふいに顔をしかめて口に手を当てた。血の気が引いたように見える。
「気分悪いの?」
「大丈夫よ。吐き気止めもあるから」
リーベが訊ねると、イザベラは小さな瓶から丸薬を一粒取り出し、口に放り込む。
途端に彼女の顔がさらに歪むのを見て俺も身構えた。
彼女は飲み込むよりも先に丸薬を吐き出した。想像より不味かったらしい。
「味ね……考えたこともなかったわ」
「何やってんだよ。緊張感ねえなあ」
「野外作業に耐性つけた方がいいよ」
ヒルダとリーベにそれぞれ苦言と助言を得て、イザベラが言う。
「そうね。味の良い体力増強薬でも作ろうかしら」
ヒルダは前方を警戒し、イザベラは不調なので俺はリーベと話すことになる。
「へえ。ハルトってパーティ組むの初めてなんだ」
「どこにも採用されなくってな」
くすくすと笑うリーベ。
死霊術師であることを除けば、ただの年相応の少女に見えた。
「シャーロットからもう聞いてると思うけど、君以外の三人はみんなパーティを追放されてるんだ。聞くかい? 僕の追放理由」
リーベの追放理由は何となく想像がついたが、俺は頷いた。
だが彼女の口から語られる話は想像以上に生々しく、そして悲しかった。
「前のパーティではね。大事な友達を亡くしたんだ。僕は悲しかったし、その子の恋人も泣いてた。だから使役して“蘇らせた”んだよ」
リーベの声は淡々としている。だがその瞳は確かな哀しみを物語っていた。
「使役……仲間を?」
俺が訊くと、彼女は小鳥の頭を指でつついた。小さな青い羽根がそこに飾られている。
「生前の契約で許可はあったからね。元通りじゃないけど、雰囲気は取り戻せた。でも恋人はもっと悲しんだし、パーティも追放されちゃった。頭が無事だったら人格再現だってできるのに。みんな、そういうの嫌いだよね。ねえ、フォーゲル」
ぼやくように言って、リーベは骨の小鳥に呼びかける。小鳥は首を傾げた。
骨の小鳥──フォーゲルに結ばれた青い羽根を指先で確かめる所作は、道具扱いを越えた何かを物語っていた。
彼女は死霊術師として価値観がずれているだけで、死体をただ利用する存在ではない。
そのことを、俺は彼女の手つきから理解した。
やがて丘陵の奥から低い咆哮が響いた。俺たちは自然と足を止める。
丘を登りきる直前の斜面。左右に大きな遮蔽物はない。
低空を飛ぶ小型竜の群れが視界を横切り、こちらを視認したようだ。
赤や青に虹色の鱗が瞬く小竜たち。彼らはまだ未成熟で、威嚇程度の鳴き声しかしない個体もいる。
「おい。あたしが行くぞ」
ヒルダが剣を構え、前へ踏み出す。俺たちは分かれ、簡単な包囲を作った。
小竜は必ずしもブレスを吐くわけではない。ある個体は牙と爪での突進を行い、ある個体は鋭い尾を突き出す。
ブレスを吐かない個体は、ヒルダの剣により滑らかに切り裂かれる。
その動きに無駄はなく、斬撃が肉を切る音だけが残る。俺は鮮やかに小竜を切り捨てていくヒルダの動きに思わず見とれてしまう。
だが一頭、雰囲気の違う個体がいて、鱗が炎のように赤く光る。
鼻先に熱風を漂わせ、筋肉をこわばらせている。いわゆる“ブレス個体”だ。
俺が前に出て、三人は距離を取った。
リーベは万一に備えて骸骨の戦士を召喚し、イザベラは赤い鉱石のようなものを手にしている。攻撃手段なのだろうか。
そしてヒルダは後退した。
胸が高鳴り、呼吸が浅くなる。
小竜がブレスを吐く瞬間、極限の集中から時間が薄く伸びる感覚があった。
音が引き伸ばされ、世界が硫黄の香りに染まる。
炎が、一直線に、俺の胸に向かって来る。
熱が皮膚を焼く前に、俺の脳内で何かが弾けた。
自動発動のスキルが起動する瞬間。任意発動スキルを合わせて起動。
前回は本能的に起こした連鎖反応を、今回は意図して引き起こした。
起点は「頑強」。一時的に防御力を増加させるスキル。
「頑強」に「火耐性」「衝撃耐性」「耐魔力」が噛み合い、層を重ねた硬さが肌に乗る。
言葉にならない感覚。
“あの時”と同じ不可視の鎧が体を包み、衝撃と熱を受け止めた。
これはただのスキルの連鎖じゃない。
それぞれのスキルが限界を超えるように高め合う「相互作用」だと実感する。
一瞬だけ、思考に強くノイズが走る感覚。
前回は意識していなかったが、これは「副作用」かもしれない。
だが俺はブレスの直撃を受けて、無傷で立っていた。
そして、皆が顔を見合わせる。
リーベの小鳥、フォーゲルが首を傾げ、ヒルダは無言で俺を見た。
シャーロットの言っていたことが頭をよぎる。
彼女の予想通り「連鎖による相互作用」は再現可能だ。
「なるほどね」
シャーロットがそばにいるわけではなかったが、俺は勝手に彼女の顔を想像してにやりとする。
仮説が証明された瞬間、気が付くと俺はガッツポーズをしていた。
けれど、歓喜は長く続かなかった。
遠くから、もっと大きな咆哮が響く。地鳴りのように何かが迫ってくる。
ブレス個体の背後。谷の影から、さらに大きな影が立ち上がり、小竜の群れを率いてこちらへ向かってきた。
縄張りを荒らされたドラゴンが目覚めたのだ。
「退くぞ!」
ヒルダが叫び、散開して丘陵の斜面を降る。
ブレス無効化のコツを掴んだ俺は、まず三人が先に逃げるのを確認した。
最後尾のイザベラが十歩ほど走ったところで二度目の咆哮が響く。潮時だと察して、俺も走り出した。
パーティの核として、一秒でも時間を稼いで仲間を守るためだ。
小竜が群れをなして追いすがってくる。
俺がイザベラに追いつくと、彼女は慌てて新しい小瓶を取り出し俺に差し出した。
「これ、足が速くなる水薬。試作品よ。効果は短いけど……」
イザベラの顔は真剣だった。もはや味のことなど言っていられないらしい。
俺は咄嗟に瓶を受け取り、蓋を開けて中身を喉に流し込む。
液体は冷たく、わずかに苦味が舌を刺した。
足が速くなる水薬によって「俊敏」スキルが増強される。
素早さを司る「俊敏」スキルによって「反射」スキルが連鎖的に強化され、反射神経すら加速する。
直後、再び世界が引き延ばされる感覚──だが今回は違う。周囲の時間が遅くなったのではなく、俺の思考の速度が飛躍的に上がったのだ。
飛来する小竜のブレスがどこに着弾するか、どう走ればブレスに巻き込まず、仲間を安全圏に入れられるかが見えた。
そして俺は新たな相互作用の可能性に気付く。
新たに起動したのは「加速」スキルだ。
これまでの「加速」スキルは一直線にしか動けず、応募用紙にも書かずに封印していた代物。
だが、今や脳の処理を超えたこの「加速」スキルすらコントロールできている。
今は筋肉と思考がぴたりと噛み合い、曲線を描いて走ることも可能だった。
この「加速」スキルが使いこなせれば、ただの「高級弾除け」ではなく攻撃を誘導することだってできる。
小竜の放ったブレスが木の枝を粉砕する。
跳び込んでくる枝を避け、俺は反射で身を捻りながらイザベラを抱えた。
無数のブレスの嵐を走り抜ける。反射と思考が同期したからこそなせる技だ。
「効いてる?」
運ばれながらイザベラは飽くまで水薬の効果が知りたい様子。
俺は首を縦に振った。足先が地面の起伏を鋭敏に感じる。
俺は効果の薄れ始めた水薬の代わりに「俊敏」スキルを強く意識して、再度「加速」を起動。速度を一段上げた。
新たな相互作用──きっかけとなったのはイザベラの水薬だ。
そしてわずかに平衡感覚の乱れる感覚。
「反射」によって瞬時に持ち直すが、一度目の「副作用」よりは軽い。
(……副作用の強弱の差は、スキルの数の影響か?)
ブレス防御は四つのスキルによる相互作用だった。
今走るのに使っているスキルは三つだ。
深く考える暇はない。ただ駆け抜けることに専念する。
ヒルダが駆けながら小竜を切り捨て、リーベが骸骨を呼び寄せ盾にする。
俺たちは丘を駆け下り、追い立てる群れを振り切るために全力を尽くした。
危機の中で、自分のスキルの新たな組み合わせを発見し、胸が熱くなった。
勝利ではない、しかし確かな手応えだった。




