無限の時間と、研究の果てに
そこは、誰にも邪魔されることのない聖域だった。あるいは、世界で最も孤独な実験室。
「よし、まずは片っ端から読むか」
今のアルドの胸にあるのは、純粋な知的好奇心と、抑えきれない高揚感だけだった。
王城に木霊する喧騒を逆走し、向かうのは王立魔術学院の禁書庫。平時であれば、宮廷魔術師といえど許可申請に一週間は要し、閲覧にも監視がつく最重要エリアだ。だが、今のアルドにとって、ここは無限の知の宝庫だった。
「これだけの資料があれば、あるいは……」
アルドは書庫の端の方にある古びた書棚の中央付近まで進むと、背表紙の擦り切れた古文書を抜き取った。『古代ルーンと魔力干渉の相関』。かつてチラリと目録で見かけ、喉から手が出るほど読みたかった一冊だ。
「分厚いな……記憶するまでに何日、いや何度巡り戻ればいいのやら」
ページをめくる指が震える。恐怖ではない。未知の知識に触れる歓喜に震えているのだ。
数ページは緊張もあったが、そこからは一心不乱に読み進めた。そして……
……ゴォォン……。
四時間が経過し、深夜零時の鐘が鳴る。世界が白く染まり、意識が引き剥がされる感覚。かつてはあれほど忌々しかったその感覚さえ、今は授業の狭間を告げる学院のチャイムのようにしか感じられなかった。
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「……よし」
午後八時。王城の廊下。アルドは即座に自室へと駆け込むと、机上の羊皮紙に向かい、羽根ペンを走らせた。
『廻り返ること、推定四十二回。前回の閲覧箇所、禁書庫第三エリア、棚番B-4。古代ルーンの第三章まで読了。仮説、ルーンの角と曲線の比率が……』
記憶が鮮明なうちに、前の四時間で得た知識と考察を全て書き出す。一回の廻りで書いた紙は、時間が巻き戻ると同時に白紙に戻ってしまう。物理的な記録は何一つ持ち越せない。だからこそ、アルドはこの作業を己に課していた。
人間の記憶は曖昧だ。数百回、数千回と繰り返せば、初期の記憶は必ず風化し、歪んでいく。「覚えている」という過信こそが最大の敵だ。廻り返る直後のこの瞬間に、脳内の短期記憶を羊皮紙という外部メモリに書き写すことで、情報の劣化を防ぐ。そして何より、この儀式を行うことで、「絶望的なループの被害者」から「冷静な研究者」へと、意識のスイッチを切り替えるのだ。
また、アルドはこの現象を『廻り返り』と名付けた。文字通り、時間は廻り、元の位置に返ってくる。この無限の繰り返しは、見方を変えれば、魔術師にとって夢のような時間だった。睡眠も食事も必要ない。疲労もリセットされる。腹も空かなければ、歳も取らない。ただひたすらに、魔術の深淵だけを覗き込んでいられるのだから。
もしかしたら何かの見返り──デメリットがあるのかもしれないが、少なくとも肉体的・精神的には何ら異常を感じず、寧ろ昂った気持ちから更なるエネルギーを感じている。
「今回はこのくらいだろう。何度も廻り返ることを考えるとより簡潔に書く方法を考える必要があるか……」
書き終えた羊皮紙をざっと見返した後に懐にねじ込み、アルドは再び禁書庫へと走る。すれ違う同僚、騒ぐ衛兵、窓の外の花火。それらはもはや、環境音楽の一部と化していた。
(この理論が完成すれば、魔術はもっと美しくなれる)
禁書庫の床に座り込み、羊皮紙に複雑怪奇な魔法陣を描き殴りながら、アルドは静かに熱中していた。効率化の名の下に切り捨てられた「意匠」にこそ、魔術の本質が宿る。それを証明したい。誰を見返すためでもない。ただ、その真理に触れたいという一心だった。
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五十回、百回、二百回。
回数を重ねるごとに、アルドの魔力操作技術は研ぎ澄まされていった。指先から放たれる魔力の糸は、蜘蛛の糸よりも細く、鋼よりも強靭になった。かつては描くのに1時間近くかかっていた複雑な意匠の魔法陣も、今では呼吸をするように、数秒で空中に構成できる。禁書庫の知識を貪り尽くし、過去の偉人たちの思考をトレースし、それを自らの「魔法陣意匠論」へと昇華させる。
「できた……」
何百回目かの午後十一時五十分。アルドの目の前に、青白く輝く魔法陣が浮かんでいた。それは、彼が追い求めた「美しさ」の結晶だった。無駄な線は一本もなく、描く直線・曲線すべてが彼の理論に支配され、完璧な調和を保っている。これを絵画としてコンクールに提出したとしても、相当な評価を得られるだろうという自信もある。
「起動」
アルドが短く紡ぐと、魔法陣は一切の音もなく回転し、彼が意図した通りの──いや、それ以上の魔力光を放った。眩い光が書庫を照らす。その威力、安定性、そして魔力変換効率。どれをとっても、現在知られている最高位の魔術を遥かに凌駕していた。
「美しい……」
誰もいない書庫で、アルドは感嘆の息を漏らした。証明したのだ。美しさこそが力であることを。ついに、俺は辿り着いた。
……ゴォォン……。
アルドは満足気な表情で浮遊感を感じていた。
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「……いや、違う」
午後八時。いつものように自室の机に向かい、今の感動と成果を記録しようとして──アルドの筆が止まった。
熱狂が冷めた頭に、冷ややかな理性が鎌首をもたげる。アルドは自らの手を見た。確かに、今の魔法陣は凄まじかった。だが、それは本当に「魔法陣の意匠」のおかげだったのだろうか?
この数百回のループで、アルドの魔力操作技術は常軌を逸した領域に達している。どんなに歪な魔法陣でも、今の彼なら完璧に制御し、最高の結果を叩き出せるだろう。つまり、あの魔法陣が機能したのは、「理論が正しいから」ではない。「今のアルドが扱ったから」だ。
「再現性が……ない」
筆が手から滑り落ちる。他人が使っても同じ効果が出なければ、それは「理論」ではない。ただの「芸」だ。もしこのループを抜けて、この魔法陣を発表したとしても、誰も再現できないだろう。「君だからできたのだ」と言われれば、それまでだ。
「試してみればいい。わざと線を歪ませ、黄金比を無視した『醜い』魔法陣を描いて」
結果は──完璧だった。理論上は効果が増すはずのないその魔法陣ですら、今のアルドの指先にかかれば、最高効率で発動してしまった。
「……皮肉なものだ」
理論を証明するために磨いた技術が、逆に理論の検証を不可能にしてしまったのだ。完成したかに思えた理論は、砂上の楼閣だった。どれだけ知識を積み上げても、どれだけ技術を磨いても、魔法陣意匠論を普遍的な真理として証明するには、決定的な何かが欠けている。そして、この閉ざされた四時間の中では、その「何か」を見つけるための新たな材料は何一つ入ってこない。
試しに色々と意匠を変えて効果を試してみるも、意匠と効果の関係性を結論づけるには足りない。
「これは……だめだ……」
アルドは眼の前が真っ暗になって行くのを感じた。
(俺の研究は……ここで終わりなのか?)
積み上げた羊皮紙の山が、ただのインクの染みに見えた。書き殴った数式も、幾何学模様も、全てが行き止まりの標識に変わる。
「……ああ、そうか」
アルドは椅子に深く沈み込んだ。
「俺は、進んでなどいなかったんだ」
世界が廻り返っているように、俺もまた、同じ場所を回っていただけだ。その事実に気づいた瞬間、研究への情熱で支えられていた心の壁が崩れ落ち、その向こうから、圧倒的な「孤独」が押し寄せてきた。
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それからの廻りは、緩慢な摩耗の日々だった。
書庫へ行くのをやめた。新しい知識を吸収する気が起きない。そもそも目ぼしい図書はすべて読み尽くしてしまった。だが、午後八時に自室へ駆け込み、羊皮紙に向かう「習慣」だけは、どうしても捨てることができなかった。
「推定、二千四百五十二回目。進展なし」
それが、唯一の碇だった。世界は四時間ごとにリセットされ、何もかもが元通りになる。書き足したインクも、次の瞬間には消える。だが、この一瞬、羊皮紙に記録を綴り続けるのは研究者としての最後のプライドでもあり、自我を保つための最後の糸でもあった。
記録を終えると、アルドは椅子に深く沈み込む。もう、やるべきことは何もない。
午後八時。窓の外でドォン! と花火が弾ける。(次は赤だ) ヒュルル……パン! (次は緑の連発) パパパン!
全て知っている。一秒の狂いもなく繰り返される、幸せな祭りの喧騒。誰もが笑っている。誰もが明日を信じている。自分だけが、進まない時間の中に置き去りにされている。
「こんなに花火をただ眺めるなんてことはあっただろうか……」
呟きながらぼぅっと花火を見上げる。美しい円形、移り変わる色や形、打ち上がるたびに起こる民衆の感動の声。
「これも芸術か」
そう言いながら羊皮紙に花火のパターンを記録していく。
(なんと意味のないことを……俺は、一体何のためにここに存在している?)
研究者としての目的を見失った。脱出への渇望も枯れ果てた。残ったのは、色のない命の歯車だけ。
……ゴォォン……。
そして新しい虚無が始まりを告げる。
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(苦しい……もう……)
限界だった。「自分が自分であること」を保つための儀式すら、もはや苦痛でしかなかった。羊皮紙の文字や図ももう呪いの呪文にしか見えない。
死ぬこともできない、今のアルドにとっては自我を無くした時が恐らく「終わり」なのだろう。アルドは部屋を出た。廊下を歩く足取りは、幽霊のように頼りない。
「アルド様? お顔の色が優れませんが……」
すれ違った顔見知りの衛兵が声をかけてきた。地下室へ向かうと必ずすれ違い、毎回軽く挨拶をしていた。だが今のアルドは、焦点の合わない瞳を彼に向け、何も言わずに通り過ぎた。
地下への階段を下りる。冷たい空気が肌を刺す。
(ここに来るのも何廻りぶりだろうか)
最深部。時空安定装置が鎮座している。その美しい幾何学模様を見ても、心はピクリとも動かない。ただの線だ。ただの道具だ。
アルドは装置の前に座り込み、懐から「暁の琥珀」を取り出す。唯一巡り返りを共にしているこの宝石を見るとほんの少しだけ孤独感を和らげてくれるのだが、最早冷たくて硬い何かでしかない。
(ここで……俺は俺ではなくなる)
口に出したつもりが、喉からは何も発せられなかった。喉や脳を働かせるような気力ももうない。そしてその目を閉じて考えるのをやめようとした、その時だった。
カッ──。
握りしめていた「暁の琥珀」が、脈打つように強く瞬いた。内部に封じられた螺旋模様が、まるで呼吸をするように明滅を繰り返している。
「……?」
装置には何も起きていない。起動なんかさせていないのだから当然だ。閉じかけた目を見開くと、暁の琥珀そのものが、内側から熱を帯びて輝いている。そして、アルドの脳内に、ノイズ混じりの音が響いた。
『ザザッ……──こえ、が……──』
はっとした。幻聴か。違う。これは幻聴ではない。あまりにも「異質」な音だ。この繰り返される世界には存在しないはずの、未知の響き。
『……もしもし……──ザザッ──』
女性の声だ。途切れ途切れで、水底から響くような、呼びかける声。脳が、その音を「言葉」として認識するのに数秒を要した。長すぎる孤独が、言語野を錆びつかせていたのだ。
だが、意味を理解した瞬間、握りしめた琥珀から火傷しそうなほどの「熱」を感じた。それは何千回と聞いた冷たい鐘の音とも、衛兵の自動人形のような挨拶とも違う。向こう側にいる誰かの、必死に呼びかける血の通った「体温」だった。
(誰だ?)
覚えがあるような、ないような。朧気な記憶を必死に辿るが思い出せない。だが、その声には、今のアルドが失って久しい「他者の気配」があった。
『──聞こえ、ますか……?……返事を、して……』
問いかけられた。求められた。この閉じた世界で、俺以外の誰かが、俺の反応を待っている。必死に、何かを探しているような声。そこに「諦めるな」といった啓示めいた言葉はない。ただ、暗闇の中で手探りをするような、切実な問いかけだけがあった。
アルドの喉から、錆びついた蝶番を無理やり動かすような、掠れた声が漏れた。数百回、数千回のループの中で、初めて聞く「新しい言葉」。予定調和ではない、台本にない台詞。
「……誰、だ……?」
アルドは琥珀を凝視した。灰色の瞳に、微かだが、確かな光が戻り始めていた。虚無へと傾いていた意識が、強引に引き戻される。
(俺の声が、届いているのか? この閉じた世界に、俺以外の誰かが?)
『──お願い、届いて……』
琥珀の光が強くなる。
「あんたは、一体──」
問いかけようとした、その瞬間。
──ゴォォン……。
無慈悲な鐘の音が鳴り響いた。
「待てッ!」
アルドは反射的に叫んでいた。これまでは安息の合図ですらあったその音が、今は全てを断ち切る処刑の刃のように響く。まだだ。まだ、何も聞けていない。
問いかけようとした、その瞬間。
──ゴォォン……。
無慈悲な鐘の音が鳴り響いた。深夜零時。世界が白く染まり、意識が強制的に巻き戻されていく。琥珀の光も、謎の声も、全てが光の彼方へ消えていく。
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「……はっ!」
我に返ると、そこは王城の廊下だった。窓の外では、午後八時の花火がドォンと音を立てて弾けている。いつもと変わらない、繰り返しの始まり。
だが、アルドは習慣となった羊皮紙に向かうこともなく、その場に立ち尽くしていた。心臓が早鐘を打っている。手のひらには、まだあの琥珀の熱が残っているような気がした。
「……なんだ?」
アルドは自分の右手を呆然と見つめ、誰もいない廊下で独りごちた。
「今のは……なんだったんだ?」
──俺はまだ、絶望しなくてもいいのか?




