第04話「せめて、私らしく」
「おはよう。よく来てくれたね」
早朝、私は恭介の診療所を訪れた。彼はこの村で医者を営んでいるらしい。
真っ黒でぼさぼさの髪。長い前髪の合間から見える彼の赤い瞳が、私を視界にとらえた瞬間、輝いた様に見えた。
「恭介。昨日はありがとうございました。」
私が頭を下げると、彼はやわらかく微笑む。
「いや。こちらこそ。君がいなかったら僕も冬華も今頃こうして生きてなかったし」
恭介は、机の上のポッドを手に取り、カップに黒い水を注いだ。
「大好きなコーヒーも、二度と飲めなくなるところだった」
もう一つのカップにも黒い水を注ぎ、私の傍にある小さな台の上に置く。
私はカップを手に取り、湯気が出ている黒い水に息をふきかけ、ゆっくりと喉に流し込んだ
「にがい・・」
コーヒーという飲み物は記憶を失う前にも飲んでいなかったと、そう確信できる程に奇妙な味だった。
「ブラックはいいものだよ。目が覚めるし──落ち着くんだ」
彼の声は静かで、淡々としていた。 でも、湯気の合間から感じるその言葉には、どこか朝の静けさに似た温度があった。
私は再び口をつける。確かに、苦いけれど不味くはない。 むしろ、後味が静かで心地いい。香りも不思議なほど落ち着いている。
「うん。苦いけど……おいしいです」
恭介はそんな私も見て、軽く笑みを浮かべる。そして、自身もコーヒーをもう一口飲み、表情を変え、私を真っすぐに見つめた。
「僕たちを、助けてほしいんだ。」
「・・・助ける?」
恭介は【お願い】を語る。
「見ただろう。昨日の【魔物】を。」
声には、悔しさでも恐怖でもなく、疲れきった確信が混ざっていた。
「もう、私たちが生まれるずっと以前からあいつらは外の世界を徘徊していて、目についた人間を殺す。ただ理由も無く。」
理由もなく。ただ殺すだけ。その言葉に、なぜか胸の奥がざわつく。
コーヒーの湯気がゆっくりと立ち昇り、彼の瞳はその煙の奥でどこか冷え切っていた。
「だから私達人間は、結界によって守られた地域で日々を過ごしていたんだ」
「だが、ここ最近、結界の出力を限界まで上げても中に侵入する力を持った魔物が出てくる様になった。」
結界。昨日も聞いた言葉だ。 この村の静けさの裏にある、外の世界を遮断する防壁。
「村の中に侵入してる間は皆でシェルターに避難して、魔物は去るのを待つしかない。だが。いつまでもこんな生活を続けられるとは思っていない。いつか必ず、誰かが死ぬだろう」
「昨日の君の力は、僕たち人間には無い、とても強い力だ。」
「無理を強要しようとも思わない。だが、できれば、君のその力で、あの魔物を殺してほしい。」
恭介は、椅子から立ち上がり、私に深く深く頭を下げた。
「食事も住む場所も提供しよう。君の記憶が戻る為に、手伝えることはなんでも力になると約束する。だから、頼む。僕たちを、どうか助けてくれないか」
「はい。いいですよ」
気づけば、その言葉が口をついて出ていた。考えるより先に、答えを出していた
恭介は状態を起こし、驚いた顔で私を見つめる
「そんなに即答してしまっていいのかい?」
私は微笑みながら言った。
「昨日恭介と冬華を見た時に思ったんです。助けなきゃって」
ふいに、誰かが部屋の外、ドアの前から立ち去る様な気配を覚える。この先の言葉を、後で彼女に、冬華に伝えなければ。
「それと。昨日の夜、私は冬華の頭を撫でました。なんだか泣きそうな顔をしていたけど、それであの子は笑顔になってくれました」
「それが、嬉しかった。だから、私は多分、そういうことが好きなんだと思います。 人が笑ってくれると、安心してくれる事。喜んでくれること。そういう事が、好きなんです、きっと」
「だから、大丈夫です。私があなた達を守ります」
「まずはそこから、【私】を見つけていこうって。そう思います」
言いながら、自分の中に一つだけ確かなものがあると気づいた。
名前も記憶も失っていた。場所も、生まれも何もかも不明。 でも──この選択を、私は“私”として選べる。
私は、私。
「恭介。私からも一つ、お願いがあるんです」
「僕にできる事なら、なんでも」
「私に名前をつけてくれませんか?」
その一言で、空気が静かに止まる。
恭介はカップに目を落としたまま、沈黙する。 湯気だけが、時間の代わりに動いている。
睫毛が影を落とす。光は、揺れていた。
だけど、私は目を逸らさない。 どうしてだかわからない。けれど──どうしても、彼から名をもらいたかった。
ようやく彼はカップを置き、息をひとつ、深く吐いた。
そして、ぽつりと言葉が落ちた。
「絵梨」
声は静かで穏やか。でもそこには、ほんの少しだけ熱がこもっていた。
「“使わなかった名前”だ。君が使ってくれるなら、それがいい」
その名を口にする彼の表情は、髪に隠れてよく見えなかった。だが
私は瞬きひとつ。意味を掴むより先に、ただその響きを噛み締める。
「エリィですか。」
口にしてみると、それはどこか遠く懐かしい響きに思えた。まるで、呼び覚まされた記憶の亡霊が、指先をそっと撫でるような、そんな不思議な感覚。
「えり・・・エリィか・・・うん。それでもいいな」
彼は、私以外の誰かと会話する様に、声を紡ぐ。
「君は、エリィと名乗るといい。」
その言葉が落ちた時、胸の奥でなにかがほどける。
ほどけた糸の奥から、逆に鋭い痛みが、じわじわと広がっていった。
──なぜだろう。
気がつけば、私は涙を流していた。
頬を伝う一筋の涙。けれど、私はそれをすぐには拭わなかった。
「ありがとう、恭介」
すぐに正体を知る必要はない。過去を思い出す必要も、今はまだない。 それでも、今この瞬間に名乗ることができた。 私は存在している。たしかにここに、私という輪郭がある。
。
この感情はきっと、私じゃない誰かの思い出。 そう遠くない未来、私はそれを知る。
それでも──私は