第03話「優しいあなたは、誰」
それから私は村で食事をもらい、ようやく服を貸してもらえた。 全裸で過ごした時間は思ったほど恥ずかしくはなかったが、それでも服を纏った瞬間、どこか安心したような気がする。
白いドレスのような一張羅。首元に赤いリボンが結ばれていて、折り返しのデザインが上品な印象を与えている。思ったより胸元が窮屈だが、気にするほどではない。
私は鏡の前に立ち、両腕を天井に伸ばしたり、片足をぶらぶら動かしたりしてみる。
それでも──
目の前に映るその姿が、本当に自分なのか、わからなかった。 まるで、鏡の向こうにいる誰か別の人間が、私の動きをなぞっている様。
「あなたは誰なんでしょうね?」
問いかけても、鏡の中の少女は無言で私を見つめていた。
そのとき、背後から声がした。
「エルフさん、着替えは終わった…?」
ドアの隙間から顔を覗かせた冬華は、森の道中よりも幾分落ち着いているようだった。しかし、どこかその表情はぎこちなさがある。何かを考え込んでいるようで、言葉の前に一瞬だけ躊躇があった。
「ごめんね、私のお下がりで。でも、よかった…ずっと裸だと、落ち着かないよね。」
苦笑しながら、冬華はベッドに腰掛けた。この部屋に慣れた動作だ。おそらく、ここは彼女の部屋なのだろう。
「私こそごめんなさい。服を貸してもらった上に、泊まる場所も。それに、ご飯も美味しかったです。ありがとうございました。」
「いいよ、そんなの。それよりも…」
私は頭を下げながら礼を言った。 冬華は小さく首を振ると、ふと視線を逸らした。
──そして、迷うように息を飲み込み、小さな声で問いかけた。
「昔の事。何でもいいんだけど・・・何か覚えてる?」
言葉の抑揚が揺れる。すぐには続きが出てこない。 彼女は一度うつむき、両手を膝の上に置いた。
「好きな食べ物とか、好きな本。」
「大切な人。ほんの少しの思い出。何でもいいの」
「エルフさんの中に……何か残ってる記憶は、ある?」
私は静かに目を閉じた。 意識の奥へと潜り込む。あの“目覚める前”を探して。
──でも、何も見つからない。
ほんのりした夢の断片のようなものが、あった気がする。それだけ。
「……ごめんなさい。何も、わからないです。どうしてあの場所にいたのかも……記憶が、本当に何も」
目を開き、視線を再び冬華に向けると彼女の目から涙が溢れていた。
「冬華さん・・?」
声に反応するように、彼女はそっと拳を握りしめた。 もう片方の手でそれを押さえるようにして、肩が小さく震える。
どうしたのだろう、何故泣いているのだろう。何も解らず私は慌てふためいてしまう。
冬華はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「思い出。記憶。今まで経験した事。それが無くなったら、その人は、いったい誰?」
「悲しいよ・・・そんなの。名前も、感情も全部。消えちゃうなんて。」
彼女は俯きながら、弱々しく言葉を吐き出す。 それは、まるで過去を抱えた誰かが、自分に問いかけるような口ぶりだった。
「でも、何もできない。私達には、何も。だからごめん・・・本当にごめんね・・・」
冬華の声は震え続けていた。 その涙が、私に向けられているものではない──そう思った瞬間、不思議と胸が痛んだ。きっと、彼女にも辛い過去がある。
それが何かは、私にはわからない。 私は何も知らない。でも──
気づいたら私はそっと、彼女を抱きしめていた。 泣きじゃくる背に腕をまわし、髪をなでる。その行為に何故か懐かしさを感じる。何故かは、解らないが。
「大丈夫ですよ。心配しないでください」
言葉は自然にこぼれていた。
「ありがとう。冬華」
突然名前を呼ばれて、冬華はキョトンとした表情を浮かべたまま、数秒固まる。
「んな!?」
そして── まるで水をかけられた猫のように肩をすくめ、あわてて距離を取った。
「いきなり取り乱して、ごめんね。……意味わかんないよね。でも……もう大丈夫だから」
目元を袖でぬぐうと、冬華は静かに立ち上がった。
「私は今日はちょっと用事があるから、このままこの部屋で寝ていいよ。」
ドアへ向かいかけたその背中は、今度はもう震えていなかった。 出ていく直前に一度だけ振り返る。
「…おやすみ。エルフさん。」
「ええ。おやすみなさい。」
彼女の気配が部屋から消えると、夜の静けさが戻ってきた。
私はベッドの脇に立ち尽くしたまま、窓の外の月ををぼんやりと見上げる。
こうして、私は記憶を失ってからの最初の一日目を、静かに終えた。