第02話「魔物の森で人と出会う」
「驚いたな。こんな場所で……しかも、エルフに出会えるなんて」
男はそう呟きながら、乱れた黒髪の奥からじっとこちらを見つめている。 綺麗な赤い瞳だった。
白い長衣を纏い、上着の下にはボタンが付いたシャツ。その首元には黒く細長い布が巻かれており、小さくなびいていた。儀礼的な装飾か何かだろうか。不思議な服装だ。
その隣に立つ少女は、沈黙したまま私を見つめている。
視線には警戒心と、微かな不安のようなものが混ざっていた。
私は少しずつ彼らへと疑問を投げかける。
「……エルフ、というのは、私の名前ですか?」
尋ねた私に、彼は小さく苦笑した。
「ああいや、すまない。名前とはまた少し違うな。種族の呼称みたいなものだ。」
男は額に手をやりながら、少し気恥ずかしそうに笑う。
私は、続けて疑問を投げかける
「私が誰なのか、貴方達は知っていますか?」
問いかけに男はきょとんとした顔をした。
私は手短に、自分に関する“今ある情報すべて”を伝える。
一通り話を聞いた男は口元に手を当て、何か考え込む。
だが、ほどなく首を左右にゆっくりと振り、私に告げる。
「・・・すまない。僕達では君の素性は解らない。」
男は私を安心させる様に少し微笑み、白衣を脱ぎ、私の肩にかける。
「ひとまずは村に案内するよ。そこでゆっくりと話そう。」
歩きながら、私は手持ち無沙汰に自分の髪を指先で弄る。 淡い金色の髪が風に揺れた。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。僕の名前は赤屍 恭介。 そして、こっちが…」
隣の少女に目を向けながら名を口にしようとしたそのとき、 彼女が先に声を発した。
「……冬華。上島冬華」
短く抑えめに彼女は名乗る。
蜘蛛を撃退した時からずっと、彼女は不安そうに私を見つめ続けている。
肩ほどの長さの髪。白い衣装は着ていないが、恭介と同じ雰囲気の服装。
年齢は……おそらく17歳かそのあたり。自身の年齢は覚えてないが、感覚では私より年下だろうか
「キョウスケ、トウカ……」
口の中で名前をなぞる。馴染みのない響きだ。
「結界を越えて魔物が現れたって報せがあってね。僕達はこの区域の点検に来ていたんだ」
恭介が歩きながら話し始める。
「……結界?」
「そう。外の世界には、ああいう魔物がたくさんいるんだ。本来、人は村の外に出てはいけない。 僕たちも点検の最中に、突然あの蜘蛛に襲われて……正直、もう終わりかと思ったよ」
道すがら、恭介は少しずつ事情を説明してくれた。
村の外は魔物の世界である事。
人々は一生を村の中で過ごし、外を見ることすらない事。
なぜ結界が張られているのかも、もう誰も知らない事。
「……ここ最近、結界の出力を限界まで上げても侵入してくる魔物が現れた」
「このあたりも本来なら安全な場所だったんだ。少しずつだが危険な区域が広がりつつある。」
深刻な表情をしていた恭介は、表情を伺っていた私の視線に気付き、軽く笑顔を作り小さく頭を下げた。
「でも今回は君に出会えて、そして命を助けてくれた。本当に、ありがとう」
「いえ・・・それしか、できなかったので。」
私には、何も無い。目の前の人を助けたいって、そう思っただけ。
─それしかできる事がなかった。
「君の特徴は、おとぎ話や古い資料に記されている“エルフ”と一致する・・まるで夢物語みたいだね」
種族としての名前を与えられると、少しだけ実感が湧くが、どうにもピンとこない。
「ほら、見えてきたよ。あれが僕達の村だ」
恭介の声に顔を上げると、木々の向こうに村が見え始めた。
広場があり、四方には石造りの家々が整然と並んでいる。
壁には風にさらされた跡があるけれど、不思議と清潔で美しかった。
と、その時。
控えめにお腹の音が鳴る。
あっ、と口元を手で押さえた私に、恭介が笑う。そのまま軽く私の背を叩いた。
「まずは何か食べよう。話はそれからでもいい。それと、着る物もね」
「……ありがとうございます。何から何まで」
「気にしないでくれ。──冬華、彼女を案内してくれないか」
今まで黙っていた冬華は、私に頭を軽く下げると、少しだけ警戒を解いた顔で、私を手招きする。
「……こっちに来て」
冬華は静かに一歩先を歩いた。
私はその背中を追いながら、初めて足を踏み入れる“世界”を見つめた。
足を止めて、空を見上げる。
ひとつの雲が、静かに流れていく。
──私は、これから何を知るのだろう。
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それから私は村で食事をもらい、ようやく服を貸してもらえた。 全裸で過ごした時間は思ったほど恥ずかしくはなかったが、それでも服を纏った瞬間、どこか安心したような気がする。
白いドレスのような一張羅。首元に赤いリボンが結ばれていて、折り返しのデザインが上品な印象を与えている。思ったより胸元が窮屈だが、気にするほどではない。
私は鏡の前に立ち、両腕を天井に伸ばしたり、片足をぶらぶら動かしたりしてみる。
それでも──
目の前に映るその姿が、本当に自分なのか、わからなかった。 まるで、鏡の向こうにいる誰か別の人間が、私の動きをなぞっている様。
「あなたは誰なんでしょうね?」
問いかけても、鏡の中の少女は無言で私を見つめていた。
そのとき、背後から声がした。
「エルフさん、着替えは終わった…?」
ドアの隙間から顔を覗かせた冬華は、森の道中よりも幾分落ち着いているようだった。しかし、どこかその表情はぎこちなさがある。何かを考え込んでいるようで、言葉の前に一瞬だけ躊躇があった。
「ごめんね、私のお下がりで。でも、よかった…ずっと裸だと、落ち着かないよね。」
苦笑しながら、冬華はベッドに腰掛けた。この部屋に慣れた動作だ。おそらく、ここは彼女の部屋なのだろう。
「私こそごめんなさい。服を貸してもらった上に、泊まる場所も。それに、ご飯も美味しかったです。ありがとうございました。」
「いいよ、そんなの。それよりも…」
私は頭を下げながら礼を言った。 冬華は小さく首を振ると、ふと視線を逸らした。
──そして、迷うように息を飲み込み、小さな声で問いかけた。
「昔の事。何でもいいんだけど・・・何か覚えてる?」
言葉の抑揚が揺れる。すぐには続きが出てこない。 彼女は一度うつむき、両手を膝の上に置いた。
「好きな食べ物とか、好きな本。」
「大切な人。ほんの少しの思い出。何でもいいの」
「エルフさんの中に……何か残ってる記憶は、ある?」
私は静かに目を閉じた。 意識の奥へと潜り込む。あの“目覚める前”を探して。
──でも、何も見つからない。
ほんのりした夢の断片のようなものが、あった気がする。それだけ。
「……ごめんなさい。何も、わからないです。どうしてあの場所にいたのかも……記憶が、本当に何も」
目を開き、視線を再び冬華に向けると彼女の目から涙が溢れていた。
「冬華さん・・?」
声に反応するように、彼女はそっと拳を握りしめた。 もう片方の手でそれを押さえるようにして、肩が小さく震える。
どうしたのだろう、何故泣いているのだろう。何も解らず私は慌てふためいてしまう。
冬華はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「思い出。記憶。今まで経験した事。それが無くなったら、その人は、いったい誰?」
「悲しいよ・・・そんなの。名前も、感情も全部。消えちゃうなんて。」
彼女は俯きながら、弱々しく言葉を吐き出す。 それは、まるで過去を抱えた誰かが、自分に問いかけるような口ぶりだった。
「でも、何もできない。私達には、何も。だからごめん・・・本当にごめんね・・・」
冬華の声は震え続けていた。 その涙が、私に向けられているものではない──そう思った瞬間、不思議と胸が痛んだ。きっと、彼女にも辛い過去がある。
それが何かは、私にはわからない。 私は何も知らない。でも──
気づいたら私はそっと、彼女を抱きしめていた。 泣きじゃくる背に腕をまわし、髪をなでる。その行為に何故か懐かしさを感じる。何故かは、解らないが。
「大丈夫ですよ。心配しないでください」
言葉は自然にこぼれていた。
「ありがとう。冬華」
突然名前を呼ばれて、冬華はキョトンとした表情を浮かべたまま、数秒固まる。
「んな!?」
そして── まるで水をかけられた猫のように肩をすくめ、あわてて距離を取った。
「いきなり取り乱して、ごめんね。……意味わかんないよね。でも……もう大丈夫だから」
目元を袖でぬぐうと、冬華は静かに立ち上がった。
「私は今日はちょっと用事があるから、このままこの部屋で寝ていいよ。」
ドアへ向かいかけたその背中は、今度はもう震えていなかった。 出ていく直前に一度だけ振り返る。
「…おやすみ。エルフさん。」
「ええ。おやすみなさい。」
彼女の気配が部屋から消えると、夜の静けさが戻ってきた。
私はベッドの脇に立ち尽くしたまま、窓の外の月ををぼんやりと見上げる。
こうして、私は記憶を失ってからの最初の一日目を、静かに終えた。




