第01話「シズとエリィ」
たくさんの思い出を作って、それを10年後に肩を寄せ合って語り合うの。
それってとっても素敵な事でしょう?
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ガタンゴトンと遠くから電車の音が聞こえる。飛行機の低い轟音が、天井越しにゆっくりと降りてくる。
体はまだ夢の底にとどまりながらも、意識だけがわずかに浮上している感覚。
世界の端々に軋むような生活音を捉えて、眠っていた知覚がゆっくりと、目覚めの支度を始めていく。
頬のあたりに引っかかるような温もりと、ほんのり甘い香り。 寝返りを打とうとしたが体が動かない。
押さえつけられているというより、柔らかく、何かに巻きつかれているような感覚。
首を横に向け、そこで目に入った光景に、脳が瞬時に覚醒する。
下着姿の女が、僕の胸に顔を埋め、両腕でしっかりと抱きしめていた。
「うわあ!!!!!!」
反射的に跳ね起き、布団を蹴飛ばして、抱きついていた女を引きはがす。毛布がくしゃりと音を立てて崩れ落ちる。
「うーーーーーーーん・・・・・」
彼女はゆっくりと目を開け、寝起きのまどろみの中に浮かぶエメラルドグリーンの瞳が、ぼんやりと僕を捉えた。
「おはよう。シズ君」
無防備で、どこか子供のような、眠たげな表情のまま彼女は微笑んだ。
「服を着ろよ!!」
頭を抱えながら叫ぶ。口調には怒りというより、もう完全に呆れの色が滲んでいた。
「あらら・・・またやっちゃいましたね」
確かに以前もあった。夜中にトイレに起きた後、寝ぼけて僕の布団に潜り込んでくる。
それが今回で二度目。 すでに日常に慣れてきていたせいで、すっかり油断していた。
呆れを通り越して諦めの境地に達しながら、僕はそっと毛布を拾い上げ、彼女の体にかけた。
そして深く息を吸い込み、挨拶をやり直した。
「・・おはよう。エリィ」
小さな畳部屋で二人で食事をする。お皿にはトーストが2枚。目玉焼きが1枚。野菜ジュースのパックは1本。肉が食べたいなと思うが口には出さなかった。贅沢を言い出せばキリが無い。
「すいません・・・シズ君の抱き心地が良いものだからつい」
口に運んだパンをもぐもぐと咀嚼しながら、あっけらかんと言ってのける。 その無自覚な破壊力に、僕はついジロリとにらんだ。
「寝ぼけてた訳じゃないなら尚悪いよ。ああいう事は軽はずみにしたら駄目」
「はーい」
本当に解ってるのだろうか。僕は食パンを豪快にかじりながら彼女をじっと睨むと、 野菜ジュースをストローですすりながらエリィはにっこりと笑う。再び僕はため息をついた。
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食後、食器を片付けたあと、エリィはタンスの引き出しから小さな鞄を取り出し、丁寧に肩にかけながら言った。
「今日は港区の図書館に行ってこようと思うんです」
「今日も、だろ」
僕は椅子に腰をかけたまま、ポストに入っていた近所のチラシを広げながら返す。
エリィはこの数週間、毎日のようにあちこちの図書館を巡っていた。
地域ごとの違い、本の並び、児童書コーナー、閲覧用端末の使い方。
すべてが新鮮で、彼女はまるで宝探しをしているみたいに、楽しそうに語ってくる。
「図書館以外に見て回りたい場所とか、いってみたい場所は無いの?」
「ありますよ。たくさん。でも、この世界の町はまるで迷路の様に複雑で・・中々難しいのです」
むむむ・・・とエリィはこめかみを指で抑えながら悩まし気に言う。
僕たちがここに住めているのは冬華という人のおかげらしい。
そして、僕の名前について教えてくれたのも。
一度お礼を言いたかったが、それはどうしてか叶わないそうだ
「少しでもこの世界の事を学んで、必ず【ゾハール】にシズ君を送り届けますっ」
ふんす、と胸の前で両手の拳を握るエリィは、頼もしく・・は無かったが僕の心に不思議な安心感を与える。そんな彼女だからこそ僕は、その、何だ。一緒にいれてよかったなって、そう思う。
絶対に口には出さないが
「シズ君も一緒にいきませんか?どうせ家で一日中ゴロゴロするつもりでしょう」
そういいながらエリィはニコニコしながら僕の周囲をくるくると回る。 その通りだったから僕は何も言い返せなかった。諦めて力を抜き、ため息をつく
「・・・たまには、付き合うよ」
「決まりですね。それに、今日はいい天気ですよ。ほら」
エリィが窓辺の障子を開けてみると、外の空気がふわりと部屋に流れ込んできた。 郊外の静かな町。 ゆるやかな坂の途中、低い建物が並ぶ住宅街の風景が広がっている。郵便配達のバイクの音。 自転車を押す老婦人。 見知らぬ誰かが、日常を過ごしている。
ふと窓の下、隣家の瓦屋根に寝そべっている猫と目が合った。
小さくあくびをして、また目を閉じる。 いつもより、少しだけ長く感じる朝。
少しだけ長い一日が始まった。




