Episode 20〜真なる選ばれし者〜
「え……消えた?」
僕の声が今漏れたとしても、空気を震わせることはない。
ただ見届けることしか許されないのだろうか。
男性は、僕がここへ来たように、どこか別の場所へと移動したように思えた。
そうだとしても、一体どこに?
文字通り“消えた”男性の行方を考えたほんの数秒後、光る紋章から僕に背を向けたままの状態で、再び目の前に現れた。
「エイカシア……か」
戻るや否や、男性が呟いたその一言に、僕の呼吸が一瞬止まった。
探し求めてきた言葉を耳にしたからなのか、あるいは、男性にほんの少しの警戒心が生まれたからなのか。
――少なくとも、この男性は“エイカシア”が何かを知っている。
「急がなければならないな……来るその時に備えて」
囁くように自問自答するその言葉を、やけにはっきりと聞き取ることができた。
まるで僕に語りかけられたのかと錯覚するほどだった。
男性が足元の紋章から一歩踏み出した瞬間、大地がガクンと揺れ、空間そのものが捩じ曲がり始めた。
男性はまっすぐ歩き出したはずなのに、僕の視界は横に倒れるように回転し、まるで太陽と月が入れ替わるように、新たな光景が姿を現した。
回転した空間が元の位置に収まったとき、空気も匂いも音までも、世界が一瞬にして繋がりを見せ、僕に再び何かを訴えかけ始める。
二十年ほど経ったのだろうか、いつかの夫婦の後ろ姿には、落ち着きが宿っていた。
「ねえ、最近のあなたはどこか変だわ」
「……そうか?」
「そうやって言葉を飲み込むのは、あなたの悪い癖よ? 何かあるなら隠さずに言ってよね。私たち夫婦でしょ?」
「じゃあ……笑わずに聞いてくれるかい?」
「ええ、もちろん」
「数年前……“神様”に会ったんだ」
「……」
女性は目を見開き、驚きを隠せないでいた。
おそらく、僕も同じ顔をしていただろう。
でも、理由は少し違うのかもしれない。
――“声なき声”の正体はもしかして……。
僕の頭の中に一つの仮説がよぎったが、男性の声に意識を引っ張られる。
「なんだよその顔は。こっちは真剣なんだぞ」
「あなたのことを笑いはしないけれど、突拍子もない話でびっくりしているのよ」
「無理もないさ。言っても信じないと思って今まで黙っていたんだ」
「信じるわ」
「え?」
食い気味に答える女性に、今度は男性が呆気に取られているようだった。
「あなたは嘘をつくような人じゃないもの。だから、信じるわ」
二人の瞳が重なるように、女性はただまっすぐに男性を見つめていた。
「数年前ってもしかして、狩から戻って四日ほど眠っていたあの日かしら?」
「よく覚えているな、その日だよ。若人を庇って受けた傷を治療し終え、一人戻る途中に珍しく森を迷ってな。そこで“とある祠”を見つけ、気がついたら目の前に神が佇んでいたんだ」
僕は呼吸が浅くなるのを感じた。
男性の言う“とある祠”とは、僕が辿り着いたあの場所と同じなのだろうか……。
「まるで御伽話を聞いているみたいだわ。でも現実なのよね……それで、何か話したの?」
「厳密には、話したとは言い難いんだが、こう……頭に文字が流れるような感覚で、どうやら私は、神の使いに選ばれたようだ」
「神の使い!?」
「そんなに大きな声を出したら、こだまして響き渡ってしまうだろ。まあ、神の使いといってもほんとうに大したことはないんだ」
「そうなの?」
「ああ。“目に見えない平和”のために、神とある約束を交わしたんだ」
「約束?」
「この世界を見届け、導く役目さ」
「ふーん。なんだか難しい話ね。その一環として視察をするようになったの?」
「視察はただの成り行きだが、祠にも時折り足を運んでいるよ。実は……あの場所から空間の扉が開いて、祠へ移動できるんだ」
男性は――僕を指差した。
すると、この場所から追い出されるように森が捩れ、また新たな時間と一つに重なる。
森はわずかにくたびれているようだった。
「どう? 建国は順調なの?」
「ああ、聖霊の協力もあって、なんとか王家としての器を見つけ出すことができた。あとは彼ら次第だ。今すぐでなくとも、時間をかけていけばいい」
「そうね。深く介入できないなんてもどかしいわね」
「良き理解者がいても、ただの年老いた狩人にできることなど何もないよ」
「あら、そうかしら?」
女性は、懐かしさすら覚える意地悪な顔を浮かべる。
「あなたは“マルガタクトの使者様”でしょ?」
「君までよしてくれよ。神の使い気取りはもう散々だ」
「気取りだなんて、ふふふ。変なところは謙虚なのね」
「ほら、そろそろ戻ろう。体に障るといけない」
「大丈夫よ。あなたのおかげで私は元気なのよ?」
僕の足元にある紋章の半円が切り取られ、天地とともに反転した。
新たな光景は、先ほどとは打って変わって、森は深く濃い緑に包まれ、風のざわめきも心地よく耳に届く。
枝葉は太陽の光を受けて輝き、まるで空気そのものが力強さを帯びているかのようだった。
「ダあー」
女の子の赤ちゃんが、たどたどしく男性の方に向かって歩き、胸に飛び込んだ。
「もう歩けるようになったんだね。孫の成長は嬉しくもあっという間だ」
どうやらあのときの大人になった少女が、お母さんになったようだ。
そして、男性は若々しさを瞳に宿したまま、少し背が縮んだように見えた。
「そんなしみじみとした顔をしないでよ。お母さまの分まで見守っていてよね」
「そうだな。まだまだ頑張らないとな」
「でも無理だけはしないでね。いくら狩長といえど、もういい年なんだから」
「任せられるようになるまでは現役さ」
風に吹かれた男性の目は、僕にいつかの決意を思い出させる。
そして、先ほどまでのそよ風が勢いを増すように吹き荒れ、僕は大きな渦に呑み込まれたような感覚に陥る。
大きな力に抗えず、ただただ呑み込まれていく。それでも、不思議と不快さはなかった。
渦が収まる頃に、足元にある紋章の色が薄まっていくことに気づいた。
顔を挙げると、森の輪郭が揺らめくように深い影を落としていた。
それは、森の死を見た前日の視察の時の森のざわめきに似ていた。
「選択肢はもうこれしか残されていないのじゃろうか……」
彼は更に年を重ね、髪も蓄えた髭も白くなっていた。
そして、若い頃を知っているからではない、はっきりと聞き覚えのある声だった。
薄々気づいてはいたんだ。
時を経るごとに、彼の面影が宿っていくようだった。
彼は――ファウステルさんだ。
「何言ってるのよ! 私が決めたことなんだから、おじいちゃんは後悔なんてしないでよね」
彼を“おじいちゃん”と呼ぶということは、彼女は先程まで歩くのがやっとだったあの子供なのだろうか。もうウィル兄さんよりも年上に見える。
そして彼女は……でも、僕の知っている“彼女”は子供の姿だ。
ふと、彼女と出会った頃を思い出す。
『私は特別だから』
この言葉の意味とは――
「わしは神に選ばれたが、真なる選ばれし者ではなかった。それが悔やまれる。そなたにこれから訪れる宿命を、肩代わりできぬ祖父を恨んでおくれ」
「何言ってんのよ。感謝こそすれど、恨むことなんてないわ。“エイカシア”として最後の……いえ、最初のお勤めなんだから。私に素質があった。ただそれだけのことよ」
「そなたの想いを、この脈々と流れる血を、決して絶やしてはならない。そうであろう? オルガ=エイカシアよ……」
僕の目の前で渦巻く景色が、ひとつに繋がった気がした。