Episode 19〜見果てぬ先〜
目線の先には、野原に座り込んで草冠を編む女性が一人。その隣には、娘らしき少女が一人。
僕は自然と、二人の会話に耳を傾けていた。
「ねぇ、お母さま。お父さまはいつ帰ってくるの?」
「そうねえ、あと五回ほど“月が山へ帰ったら”かしら」
「えぇ、そんなに待てないよお……」
「それじゃあ、精霊さんにお願いしないといけないわね」
「うん……お願いする」
少し頬を膨らませた少女は、立ち上がって一歩前へと踏み出す。
晴れ渡る青い空に向かって、勢いよく手を合わせた。
「お父さまが早く帰ってきますように!!!」
目を瞑って叫んだ少女の声が、野原いっぱいにこだまする。
「そんなに勢いよくお願いしたら、精霊さんがびっくりしちゃうわよ」
「精霊さんには起きてもらわないといけないからいいの!」
精霊がこんなに身近にあるなんて……
そういえば、昔は精霊が身近にいたと聞いたことがあったな。
ということは――
いや、どうであれ、ここがさっきまでいた王立図書館ではないことは確かだ。
ここがどこなのかを、この二人に聞くしかない。そう思い、声をかけることにした。
「あの……」
僕の声に気がついた女性がこちらを振り向く。
「あなた……」
あなた?
僕が誰なのかを訪ねているのではなく、親しみを込めた言い方だった。
僕のことを知っているのか?
よく見れば、どこかで見たことのあるような女性だ。目元か、声か、あるいは立ち姿か。
「今回は早かったのね」
女性は僕に微笑みかけているように見えた。しかし、その目線は僕ではない別の場所を向いていることに気づく。
女性がそのまま、僕へと歩み寄り始める。
僕は思わず後退りしたが、彼女は構わず歩みを進めてくる。
慌てて声をかけても止まらず、ついにはぶつかりそうになり、思わず目を閉じた。
だが、ぶつかることはなく――彼女が僕をすり抜けた。
彼女が向かった先には、イノシシを吊るした丸太を担ぐ男性が立っていた。
――僕は、ここに存在していない。
誰一人として、僕を見ていなかった。いや、見えてすらいないと感じた。
僕は声なき声に何かを見せられている……。
声の持ち主の記憶なのか。
それとも――
「お父さま! さっそく精霊さんが連れてきてくれたのね!」
少女も僕をすり抜け、男性の元へ駆け寄る。
「精霊さんにまたお願いしたのか? そんなにお願いを聞いてもらったら、もう精霊さんが力を貸してくれなくなるぞ?」
「帰ってくるのが遅いお父さまが悪いの!」
「ん……困ったなあ」
口元を膨らませた少女に、男性は困った顔で女性の方を振り返る。
「あらあら」
「参ったよ、誰に似たんだか」
仲睦まじい空気が伝わってくる。
――でも、一体僕は何を見ているのだろうか。
【いずれわかるその時まで、流れに身を任せるがよい】
僕をここへと誘ったであろう、“声なき声”が脳内に響き渡る。
僕はしばらく、王立図書館に戻ることはできないのだろうか。現状に、少し怖気付き始めていた。
「さ、我が家へ戻ろうか」
「そうね。今晩は“ぼたん鍋”にしましょうか」
「今回の肉はかなり脂がのってるから、美味いぞ〜」
「私も! 私も何かお手伝いする!」
「じゃあ後で山菜を採りに行こうか」
「うん!」
「日暮までには戻ってくるのよ?」
どう見ても家族団欒の光景だったが、当然のように、僕はそこにはいなかった。
何か手がかりを掴もうと、僕は三人の後を追おうとした。
しかし――見えない壁に阻まれ、前に進めない。
四歩ほどだろうか。大きな弧を描くように、見えない壁が僕を囲う。ここから動けないようだった。
僕のことなど気にも留めず、三人の後ろ姿が遠ざかっていく。
僕はどうすればいいんだ……。
ただ見届けることしかできないのか。
“綻び”の時みたいに、僕自身の手で何かを選び取る必要があるのか。
【遥か彼方の深淵より、汝を迎え入れよう】
合図のように、時間が張り詰めた静寂に包まれる。
けれど、不思議と空気は澄んでいた。
日は沈み、月が昇る。
月は沈み、日が昇る。
草花は枯れ、また新たに芽吹く。
それを幾度と、幾千となく繰り返し、日が昇る。
何度か男性の姿を見かけたが、あまりに高速に動くため、何をしているのかまではわからなかった。
「どうなっているんだ……」
僕は変わらず、四方を囲む透明な壁から出られないままだった。
「ふふふ。ほらほらお父さま! こっちだよ!」
あの少女の――もう僕よりも大人びた女性の声だった。活発さはそのままに、横顔は母親によく似ていた。
「いつのまにか大きくなって。あとはどこかで落ち着いてくれればいいが」
後ろを歩く父親の眼差しは落ち着きを帯び、短髪に少し白髪が混ざっていた。
「またその話? 私はまだまだ自由なの!」
「俺も今も自由だが?」
「それとこれとは別!」
「そういうものか?」
父親は顎をさすりながら、優しく娘の後ろ姿を見つめていた。
「懐かしいなあ。昔はよく精霊さんにお願いしたよね」
「今でもたまに祈っているじゃないか」
「もう! 失礼しちゃうわ。あれは軽い冗談みたいなものよ」
「冗談の方が精霊さんに失礼じゃないか?」
「言えてるわね」
父娘が笑い合う様子が、どこか懐かしく思えた。
無意識に、自身の家族との日々を重ね合わせたのかもしれない。
「また見回りでしょ? 私は先に戻ってるね」
「ああ、少ししたら帰るよ。夕食はお母さまと二人で先に食べていなさい」
「はーい」
二人は別々の方向へと歩き出したが、驚いたことに、父親はこちらへ向かってきた。
その眼差しに先程までの優しさはなく、ただ一点だけを見据えていた。
少し戸惑いつつも、また僕をすり抜けてしまうのだろうと思っていた。
――だが、男性は僕の目の前で足を止めた。
すると、僕の足元に、あの紋章が浮かび上がる。
淡い光が滲み出し、輪郭を広げていく。
まるで、僕を囲っていた透明な壁が、姿を現したようだった。
そうか――結局何もわからないまま終わるのだろうか。
ここはどこだったのか、僕は何を見ていたのか。
そして、この紋章の意味は。
祝祭の喧騒にあてられた、ただの夢だったのかもしれない。
光が僕の全身を包み込んだ。
完全に包まれる直前、男性と目が合った気がした。あの瞳を僕はどこかで――
やがて光が収まったとき、僕はまだ同じ場所に立っていた。
――しかし、目の前から男性の姿は消えていた。
静寂の中で、鼓動だけが早まっていく。
得体の知れない胸騒ぎが、ただただ僕を支配していた。