Episode 12〜羽休めの宿屋〜
馬車に乗る女性がふと動きを止めた。
僕の目をじっと見て、微笑みながら何か言葉を投げかけてくる。
でも、「そんなはずはない」と自分に言い聞かせた。きっと、隣に乗る人と談笑でもしているのだろう。
「綺麗な人だな……」
思わず手を振り返そうとしてしまうが、我に返り、ぎこちなくも直立不動を貫く。
すると、また女性がこちらを見て笑いかける。
安心したような顔をしていて、それが素顔のようにも思えた――そんなはずはない。また自分に言い聞かせる。
「……早く宿に戻ろう」
王都の喧騒に呑まれ、珍しく気持ちが高揚しているのだろうか。
まだ先は長い。今日はおとなしく宿へ戻ることにした。
カランカラン
「……もう戻ってきたのか? 祝祭はどうだった?」
ロンさんが僕に話しかける。
「ちょっと人に酔ってしまって……でも、立派な馬車に乗った金髪の女性を見かけましたよ」
「おぉ! それは……クラディナ様だな! 開始早々“王族”に会えるなんて、運がいいな!」
ロンさんは、帳場から身を乗り出すようにして、嬉しそうに笑った。
クラディナ――正式にはクラディナ=ルフトラ。
ルフトルディア王家の第一王女であり、この世界では珍しく“姓”を持つ一族だ。
「それにしても、クラディナ様を知らないなんて、本当に奏耀の森の……田舎出身なんだな」
カナン村が田舎であることは認めるが、初めて聞く森の名前に戸惑う。
「……なんですかそれ」
「お前、奏耀の森から来たんだろ?ウィルはそう言ってたぞ」
兄の名前を出されてはぐうの音も出ない。
(今度王立図書館へ行った時に調べよう)
「森にも……名前があるんですね」
「もちろんあるさ。奏耀の森と襉凪の森。知らなかったのか?」
「外との交流が極端に少ない村でしたので……でも兄がそう言うのなら……多分そうだと思います」
ロンさんに「変な兄弟だな」と笑われる。自分でもおかしく思えて、つられて笑みがこぼれた。
「あ、そうだ。そういえば、アシュリさんから聞いたんですけど、兄との出会いって?」
ふと、ブチネコ亭での話を思い出す。
「あー……やっぱり言いやがったか。アシュリめ」
恥ずかしさからか、なんともいえない表情をして頭を掻いている。
「いや、詳しく聞いたわけではなくて……ただの便利屋じゃないだろうってことだけ」
「なるほどな、まあいいさ。大した話じゃねえけど、聞かせてやるよ。あれは祝祭の時だから……ちょうど二年前の今頃だな」
────────
俺はこの日、祝祭に向けて王都に“停泊”していたんだ――商人の跡取り息子としてな。
毎年恒例の“ブチネコ亭”で夕食を済ませようと、商会の面々で馬車を走らせ店に来た。
カランカラン
「いらっしゃい!」
ここ数年はアシュリが出迎えてくれていたが、この日は珍しく、爽やかな男の声に迎え入れられた。
俺たちに声をかけたのは――ウィルだった。
「アシュリちゃん。ここは新しい店員でも募集したのかい?」
親父が慣れたようにアシュリに聞く。
「あら代表さんたち、いらっしゃい。彼は数日ばかり雇うことになったお手伝いさんです。貴重な男手で助かっているんですよ」
「ほう、そうなのかい。君はどこから来たんだね?」
「……奏耀の森の、小さな村から来ました」
「またそれはずいぶんと片田舎から……出稼ぎかい?」
「まあ、そんなところです」
ウィルは嫌な顔ひとつせず、親父に微笑みかける。
「君は気持ちのいい青年だな。息子と同じくらいの歳に見えるが……そうだ、少し息子の話し相手をしてやってくれないかい? ロンも同年代の子と話せば気が変わるだろう」
「……私でよろしければ」
今思えば、どう考えても訳ありな言い方だったが、ウィルは何一つ詮索せず、話し相手を請け負ってくれた。
俺たちはカウンター席に腰掛ける。
少しの沈黙が流れたが、アシュリが目の前に酒を置いたことを合図に、ウィルが口を開く。
「……俺はクウィルツ。ウィルって呼んでくれ。君の名前は?」
「俺はラムロンだ。親父が言ってたように、ロンって呼んでくれればいいさ」
恥ずかしい話、その日は親父と言い合った後だったから、俺は少し不貞腐れていた。
それを見かねたのか、ウィルが優しく問いかける。
「なあロン、言いたくなければ答えなくていいが……君は親父さんと何かあったのかい?」
俺は少し考えた後でこう答えた……こいつになら話してもいいと思ったのかもしれない。
「実は……俺にはやりたいことがあってな」
「……その話、聞かせてくれるかい?」
「ああ」
俺は手元の酒をぐいっと飲み干し、話し始めた。
「このまま商会で成り上がることもいいが、俺は親父の跡を継ぐのはやめたんだ」
「成り上がることがやりたいことではないのかい?」
「昔はそうだったけどな。俺は、いつも旅ばかりしてる商会の連中に、“おかえり”って言える場所を作ってやりたいんだ」
「……立派なことじゃないか」
「お前だけだよ。そう言ってくれるのは」
あいつらは、“商人の息子が何を血迷ったか”って笑い話にして聞く耳を持たない。
少し離れたところで馬鹿騒ぎしている連中を眺める。
「俺にとって、あいつらはもう家族なんだ。旅先が“物を売る所”じゃなくて、“心の拠り所”だったら……まあ正直言うと、昔の俺が“おかえり”を一番求めていたのかもな」
ウィルは何も言わなかったが、瞳はそっと寄り添ってくれているようだった。
「……なあ知っているかい?」
わずかな間の後、何かを企むように俺の方を見る。
「隣の宿屋なんだけど、店主のお婆さんには跡取りがいなくて……このままではもう潰れてしまうかもしれないんだ」
「それがどうしたんだよ……」
ウィルはどこか含みを持った笑顔をしていた。
「なになに?面白い話?私も一枚かませてよ」
見計らったようにアシュリが首を突っ込む。
「じゃあ……ここは宿屋お付きの食堂だな!」
「おいおい、何言ってんだよ」
「いいわね! 焼きたてのパンなんかを朝に出そうかしら」
「それと、肉が入ったスープとかはどうだ?」
「ええ? そこは鶏の卵のスープじゃない?」
俺を置いて2人で盛り上がっている。
ウィルが「なあいい計画だろ?」と俺の肩に手を置き微笑みかける。なんとも清々しいほどに。
────────
「俺がやりたかったことを、その気持ちを、あいつだけが笑わずに聞いてくれた。それだけで、俺には十分だったんだよ。でも今思うと、親父の気持ちもわかる。そりゃ息子に跡を継がせたいよな」
「でも、こうしてちゃんと“居場所”を作っているロンさんはすごいです」
「へへっ、照れるじゃねえか」
僕にも、いつか誰かにとっての“居場所”を残せるだろうか――ふと、そんなことを考えた。
「でも、僕になんでこんな安くしてくれるんですか?」
「ああ、それはな。跡取りを探していた宿屋の婆さんに、ウィルが取り次いでくれたんだよ。それで今の俺がいるんだが……俺としてはあいつに恩を返したくてよ。でも“俺は大したことをしていない”の一点張りでな」
ロンさんが口を尖らせて兄の真似をする。
「なんか……兄らしいですね」
「だろ? それで話を聞くうちに、“いずれ弟が王都に来る”って言うから、これは無料で泊まらせてやろうと持ちかけたんだ。でもあいつは“泊まらせるのは賛成だが、無料は弟のためにならないからやめろ。代わりに困ってたら助けてやってくれ”ときたもんだ」
「それで……八割引き?」
「なんだよその顔は。だってよ、あいつは“無料は弟のためにならない”って言ってたくせに、自分は弟のための路銀を集めてるんだぜ?」
「……たしかに」
「俺のせめてもの抵抗ってわけよ」
なんの抵抗かはわからないけど、ロンさんの優しさは十分に伝わった。
「それは……大変ありがたいですけど」
僕は王都に来てから、貰ってばかりいる。いや……今までもそうだった。僕もウィル兄さんみたいに、いつか誰かに“きっかけ”を与えられる人になれるのだろうか。
「そういや、この宿の名前を言っていなかったな」
「“羽の書かれた看板”としか聞いていなかったです」
「まあ、ウィルがいた時の名前とは違ってるから、また教えといてくれ。宿屋“フェザリロ”。実は、婆さんから名前を貰っているんだ」
少し上を向きながらロンさんは教えてくれた。
「フェザリロさんって言うんですか?」
「いや、フェザリナって婆さんでよ。古い言葉で“羽の音”って意味らしい。少しでも“羽休め”になればと思ってな」
「看板が羽なのはそういう……優しい名前ですね」
「婆さんは豪快な人だったけどな」
ロンさんの懐かしむような顔が、どこか寂しげだった。
「そう……だったんですね」
「婆さんに、“あんたから借りた名の宿が、こんな立派になったぞ”って言ってやりたかったなあ」
「……伝わっているといいですね」
「ああ、そうだな。旅をしているお前には、帰る場所と待っている人がいるんだろ? お前の“居場所”を大切にするんだぞ」
あの日送り出してくれた二人の顔が浮かぶ。僕がここに来た意味を、今一度握りしめる。
それから、ロンさんと少し話し込んでしまった僕は、夕食まで部屋で休むことにした。
部屋の前に立ち、扉に手をかける。
すると、不思議な感覚に包まれた。
時間が緩やかに流れるような感覚に、肌を纏う空気が静かに重みを増す。
(誰だろう……ファウステルさん達……?)
そう思いながら、恐る恐る扉を開ける。
そこには“いつも”とは違い――とある女性が、椅子に浅く腰掛けていた。
『フフっ。お久しぶり……でいいのかしら?』
「あなたは……」
『やっと、ルクノウさんとお話が出来ますね』
僕を“ルクノウさん”と呼ぶ彼女――イレーネさんは、“星詠の巫女”であり、“円卓の七賢人”その一人である。