プロローグ
その日の最終バスは、数名の乗客を乗せて夜の道を走っていた。時刻は午後11時を回ろうとする頃で、そのせいもあってか市の中心部から外れたこの辺りに、人が歩いている気配は無い。街を飾るネオンの光も次第に遠くなってきて、数10メートル程の間隔で置かれている街灯の光だけが夜道を照らしていた。
「次は越智。越智。お降りのお客様は車内設置の停止ボタンを押してください」
バスの車内にアナウンスが流れるが、それに反応する乗客は居らず、バスはバス停の横を通り過ぎていく。このバス停を過ぎれば、残りの停留所は終点の松吉町を残すのみとなる。乗客は皆、そこで降りるのだろう。
夜道を照らす該当の数もだんだんと少なくなり、バスの車内を照らす明かりが漏れ出ていた。乗客たちは互いに顔を見合わせることもなく、バスはひたすらに夜の中を進んでいく。
「次は……次は……。お降りのお客様は車内設置の停止ボタンを押してください」
車内に流れたアナウンスは録音されてから随分と経っているのか、大事な停車地の部分にノイズがはしっている。しかし残っている停留所が終点であることは、当然乗客の誰もが理解しているはずだった。
「はあ……」
バスの一番後方、詰めて座れば5人程が腰かけられるであろう席に一人で座っていた、スーツ姿の容姿端麗な男は、車内を見まわしてから溜め息をついた。
スーツ姿の男の2列ほど前には、バスに揺られながらカバンを大事そうに抱えて眠っている女が見えた。そのもう一つ先には、別の女の姿もある。頭の形をすっぽりと隠してしまうほどの大きな黒い帽子を被っているが、座高が高いことは後ろからでも十分に分かるほどだ。
一番前の席には、頬杖をついて何やら不服そうに窓の外を見つめる男子学生らしき姿も見える。この時間まで外に出ているのは補導対象なのではないだろうか。そんな邪推をしつつも、適当な理由をつけて、スーツ姿の男は彼を、自分には関係ないと結論付けて無視することに決めたのだった。
スーツ姿の男がため息をついたのは、終点であるにもかかわらず、他の乗客の彼らが誰も停止ボタンを押そうとしないのが、後ろの席からだとよく見えるからであった。
どうせ降りるのだから押す必要もないだろう。そんな考えの人々の声が聞こえてきそうだったが、男はあくまでも自分の中の良心に従った。運転手から見捨てられるという極小の確立も、無いことは無いだろう。
ピンポーン。
軽い音が響き、一斉に車内の停止ボタンが赤色に照らされる。善行をしたかのような気分に、男は少しだけ口角を上げた。
◇
バスは夜の道を走り続ける。市の中心部からそこそこ離れた地域にまで足を伸ばした路線の終点まで行くと、人が住んでいるかどうか怪しむ気持ちが強まるほどの道を通る。しかし、スーツ姿の男はそこで、いつも食べている味噌汁の味付けが変わったことに気が付くほどの、軽い違和感を覚えた。
「長い……」
男はそれ以上口には出さなかったものの、自分の中に生じた違和感を拭えなかった。久しぶりにバスで退勤したものだが、一つ前の停留所、明桜1丁目から終点の松吉町まで、これほどまでに時間がかかったものだろうか。いくら明かりが少なく景色が見えないからといって、遅くとも5分ほど車を走らせれば到着できるはずの距離だ。
そう男が考えていた時、バスは右に向きを変え始めた。これはあまりにもおかしかった。明桜1丁目から松吉町までの道はそのほとんどが田畑の横を通る真っ直ぐの道で、最後に、終点で営業所に入る時に左折を行うのみである。どこにも右に曲がる経路など存在していない。
「おい、このバスはどこに向かってるん……!」
男が最後方の席から、運転手にまで聞こえるように声を張り上げたと思った瞬間、男の視界がグニャリと曲がった。貧血で倒れる前、泥酔しながら帰り道を歩くとき、寝ぼけてトイレまでいくとき、そのどれよりも強い立ち眩みのような症状が男におとずれた。
その声に対して振り返る、男の尺度の中では非良心的な乗客たちの顔を見たのを最後に、男の意識はそこで途切れた。
◇ ◇ ◇
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