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【 トラウマ 】
「はい、なんですか? 」
女子トイレの扉の向こうからは、そんなキョーコの声が聞こえた。思ったよりも近くに居たようで、すぐに扉は開けられることになる。
「これを、あなたに渡したくて」
マブチはキョーコが出てきたタイミングですぐに見つけた日記を見せた。それが彼女にとって何を意味するものなのか。それを知りたいというマブチの好奇心が、自制心を上回っての事だった。
「これ……」
キョーコは日記を手に取ると、中を開く。そこには先ほどマブチも目を通した内容が綴られている。キョーコはそれに目を通し始めると、彼女の顔色が段々と悪くなっていき、血の気が引いたようなものになる。それは、誰の目でみても分かる程の変容だった。
「……私は。私が、守らないと……。あぁ、でも、ごめんなさい」
奇しくもキョーコは、日記の最後のページを開くことなくそう言った。あの最後のページを埋め尽くすようにして書かれた、その言葉を。
「ちょっと、大丈夫なの!? 」
そのキョーコの様子に驚いたユリカは、見ているだけで手を差し伸べようとしないマブチとアサヒの間を通るようにしてキョーコの方に近づくと、キョーコの開いていた日記を強制的に閉じた。
「マブチ君、あなたがやったの? 」
肩を震わせるキョーコのことをなだめながら、ユリカはマブチの方を睨む。
「えーっと……。僕が何かをした、というよりも、彼女が過去に何をしたのかを思い出しかけているっていう方が、今は重要なんじゃないですかね」
嘘だ。本当は分かっていた。日記の内容を見れば、それがキョーコの物であり、彼女がそれを書いていた当時にまともな精神状態でなかったことは一目でわかったことだ。それでもマブチは、今後を見据えて話を逸らすことに努めた。
「随分と他人事みたいに話すのね」
「僕だってキョーコさんを悲しませたいわけじゃないですよ。でも、協力してこの館から出るという目的を共有した以上、彼女の『秘密』に関わる物を隠すわけにはいかない。そうでしょう? 」
マブチの言葉は正論である。しかし、この場においてそれは悪手だった。
「あああああああっ!」
突然キョーコが、洗面所に響き渡る程の大声で叫んだ。その声はもはや、人の発する声とは違った何かのようにも思われ、マブチ達は反射的に耳をふさいだ。
キョーコは、笑っていた。
いや、泣いてもいる。
目を開ききったまま、そして涙が頬を伝ったまま、彼女は口をわずかに開いて笑っていた。「ははっ……」という息の漏れるような声だけを残して、彼女の意識はもう既に、ここにはないようにも思われた。
「しっかりしなさいっ! 」
ユリカは強くキョーコの肩をゆすった。すると抜け殻のようになっていたキョーコの目は焦点があったようで、ユリカの方を呆然と向く。
「……あれ、私」
先ほどまでのヒステリックが嘘のように、彼女は泣き止んだ。猟奇的な微笑みもそこには存在しておらず、3人の知る「稲井響子」に戻っている。
「マブチ君、今日はもうやめにしましょう」
「……やめるって、何をですか」
「『秘密』の手がかりの捜索に決まってるでしょう! 」
「それだと館から出れなくなるかもしれませんよ。少なくとも今この瞬間も、タイムリミットは近づいてるんですから」
「これ以上は彼女の身が持たないわ。もっと強烈に彼女の記憶を呼び起こすような手がかりが見つかってしまったら、キョーコちゃんはもう平静では居られないわよ」
ユリカはそう言ってマブチを説得した。マブチは揺れ動いていた。一人の人間のために捜索を中断してもいいのか、それとも、協力関係を破ってまで自身の『秘密』について探るべきなのか。
その答えは、マブチには出せなかった。
「おっさん、今日はやめとこうぜ」
沈黙の中、切り出したのはアサヒだった。
「……君も、ユリカさんに従うのかい? 」
「そんな単純な話じゃねぇよ。でも、おっさんはまだ、『秘密』のせいで苦しんだわけじゃねぇだろ?」
「……!」
食堂での情報共有。その場で明らかに動揺した素振りを見せたアサヒの言葉は、この場において思い発言となる。それは当然、この場における多数派の意見を後押しするものとなった。
「……部屋に、戻ってます。もし捜索を再開するなら、呼んでください」
マブチはそう言って、3人を残して洗面所から出て行った。今までの彼の落ち着いた様子からは想像できない態度に、ユリカとアサヒは疑問を抱いていた。
「おっさん、どうしたんだろうな」
「分からないわ。ただ、キョーコちゃんの様子を見て彼が感じたのは、焦り、緊張、反省。そんなところかしら」
マブチ自身が蒔いた種とはいえ、ここまでキョーコが取り乱すことは想像していなかったのだろう。それに、キョーコのこれ以上の悪化を避けて捜索をしないというのは、他の3人にとっては痛手に他ならない。その分だけ自分たちの『秘密』を調べる時間が確保できなくなるからである。
「でも、協力をすると言った以上、彼はきっと一人で捜索するようなことはきっと無い。真面目だもの」
「そこまでは分かんねぇだろ」
「それが大人ってものよ」
「……」
ユリカはアサヒの中に芽生えた不安の種を取り除くようにそう言った。それからユリカはキョーコを彼女の部屋まで送り届けたが、その日のうちにキョーコの常態が安定することは無く、館での2回目の夜が更けていった。
◇ ◇ ◇
【 アイテム⑦ ボロボロの日記 】 を入手しました。
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