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8.

 急いで東京に戻った俺は、慧一のマンションに直行した。すでに出払った後で、管理人から、二日前には引越したと聞かされる。

 慧一の学部の友人に連絡を取ってみる。留学の話は前から打診はあったみたいで、本当に慧一はシカゴ大学の建築・計画学部に編入したという事だった。

 俺は慧一が誘いを受けていたことも、その意思がある事さえも聞いていなかった。


 おまえにとって、電話ひとつで、たったそれだけでそんなに簡単に手放せる存在だったのか、俺は。

 自分の価値が脆すぎて昔の俺だったら、自殺未遂でもやりかねないんだがね、慧一。

 そしたらおまえは…少しでも俺のことを心配してくれるのか?


 その年のクリスマス、俺は慧一の実家に足を運んだ。

 前に言ってた「クリスマスには必ず家族で過ごすんだ」と言った言葉を思い出したんだ。

 高級住宅の一等地の広々とした邸宅は外から眺めても立派で、中に住んでいる家族の団欒を想像出来る構えだ。

 ここには…あの弟しか住んでいないのか?

 慧一は何故あれだけ愛していた弟を放り出して、勝手に逃げたんだ。


 黄昏時、太陽の姿が今にも隠れようとする頃、その門が開けられ、中から出てくる奴がいた。俺は急いで道路の角に隠れ様子を伺った。

 出てきたのは…凛一だった。

 髪を赤く染め、ジーンズと革ジャンを着こなしている姿はまだ少年ながらもモデル並みに恰好がいい。

 彼は門を潜った後、慣れた手つきで煙草を銜え、ライターで火を付ける。

 確かに様にはなっているが…よく考えりゃ、凛一はまだ中学一年だ。

 不良行為少年一直線ってわけか…

 慧一の育てた結果がこれなのか?

 粋がっていても、まだ顔はどこかあどけなく、精一杯大人ぶっているのが一目瞭然で、その危うさに憐れみすら感じるのに…

 おまえはこんなに未熟な子供を置きざりにして…平気なのか?慧一。


 俺は刻々と落ちる夕陽に向かって歩く凛一の姿を見送った。

 このままの彼に健全な未来があるとは思えなかったが、俺が関わる話ではない。

 彼等の運命なんて俺にはもう…関係ないはずだ。

 それでも…

 凛一の孤独な後姿は慧一の姿にも重なる気がして…胸が痛い。


 夕陽が最後の燐光を放った時、凛一の寂しげな背中に広がる羽が…見えた。

 六枚の翼は、それぞれに薄い虹色を帯びたまま、彼を守るように…ゆっくりと羽ばたいている。

 慧一が見てきたものはこれだったんだ…

 俺はいつしか泣いていた。

 立ち尽くしたまま、辺りが暗くなり、雪が降り積もるのも構わずに、声が枯れるまで、泣き続けた。



 俺は大学を卒業し、鎌倉の聖ヨハネ学院高等学校で教鞭を取ることになった。

 慧一とはあれ以来なんの音沙汰もない。俺も好き勝手に遊んでいる。

 別に慧一を忘れたわけでも諦めたわけでもない。

 結構粘着質だと最近気が付いた。


 ここへ来て二年目の春。

 俺は副担任となる生徒のひとりに、意外な名前を見つけた。

「宿禰凛一」の名を。

 間違えようもない。彼だ。


 凛一がこの学院に?

 不思議な気がした。偏差値の高いこの高校に合格したという事は、凛一は道を踏み外さずに育ったというわけか。ひとりで?それとも…

 彼の調査書の目を通した。

 詳しくは書いていないが、中三の夏休みの事件に関連する内容が簡単に記されたあった。

 …その事件に関して言えば、新聞で読んだ記憶がある。まさか凛一が関係しているとは思いも寄らなかったが。

 慧一は…どうしたのだろう。

 これだけの事件の後の凛一を、彼は守った。だから、凛一はここにいる。

 そう考えるのが自然だ。

 すべては凛一本人を見てからだ。

 俺は期待と不安の混ざる気持ちを抑え切れなかった。


 入学早々、宿禰凛一は怪我の為学校を欠席していた。

 俺としては肩透かしに合った気分だが、気長に待とう。

 もう…二年以上も待ったんだ。一週間かそこら待てないわけはない。


 一週間後、宿禰凛一の姿を見つけた。遠めにでもわかる。

 鮮やかな印象。恐ろしい位に人目を惹く。敢えて目立たないように振舞っているところも垣間見えてかわいいじゃないか。

 相変わらず背中の羽は見事なまでに美しい。

 可笑しいことに慧一に黒魔法でもかけられたのか、凛一の背中の羽は俺の目にも誤魔化せなくなってしまっている。


 二日後、彼は顧問である俺の部活動「詩人の会」に部員になった。

 まさか彼に詩を愛する趣味があるとは思わなかったが、慧一の影響であるなら、納得するところだ。


 そして、今、俺は宿禰凛一の教師として目の前に立っている。


 俺と慧一を別れさせた張本人。恨み辛みは山ほど在る。

 おまえが居なけりゃ俺と慧一は、あのままふたりで…くだらない、当ての無い夢を見ることだってできたんだ。


 教壇に立ち、気に入った詩を諳んじる時間。

 凛一は慧一に良く似た声音で、ミニョンを詠う。


 君よ知るや南の国、檸檬の花咲き オレンジの輝き、

 さわやかな風吹き ミルテ香り 桂そびえる  

 君よ知るや南の国 かなたへ、かなたへ

 君と共に行かまし、あわれ、わがいとしき人よ


 …おまえの為に慧一はどれだけ苦しんだんだろう。

 おまえに払った犠牲は幾ばかりだろう…

 おまえは慧一に何を与えた?

 行き着く場所は見つかったのか?


 共に行きたいのは俺だった。

 


 梅雨も最中の折、俺は宿禰凛一の住むマンションを訪ねた。勿論凛一が居ない時を見計らってだ。

 前もって慧一には連絡をした。彼は会うのを躊躇ったが、俺には凛一の副担任というカードがあるから、家庭訪問とでも言えば、彼は会わざる負えない。

 三年ぶりに見る慧一は、少し痩せてみえたが、相変わらずの美貌で、正直参ったね。

 全くもって俺好みで、困ったもんだ。

 玄関での僅かなやり取り。ただそれだけ。慧一は俺を中に入れることは決してしなかった。


 夏、偶然街で慧一と出会う。

 俺は無理矢理彼の腕を取り、常連の店に連れ込んだ。

「いつまでも俺から逃げてんじゃないよ、慧一」

「逃げてるわけじゃない。おまえに迷惑かけたくないだけだ」

「もう充分、関わっていると思うぜ。凛一は俺の生徒だし、学校の様子は俺が知ってる。なんなら事細かにおまえに教えてやってもいい」

「俺を責めるなよ、紫乃」

「おまえが凛一の為にあの事件から大学院を休学していることは凛一から聞いた。九月にはシカゴに戻るって話もな」

「詳しいな」

「何故あいつをひとり置いてアメリカなんぞに行くんだよ。折角凛一はあんなにちゃんとした高校生になっているじゃないか。ひとりの寂しさを知らないわけじゃないだろう」

「俺にはやるべきことがある。それを望んでいるのは凛一だから…」

「…」

 相も変わらずおまえの中心は凛一かよ。そういうところも可愛く見えてくるから全く不思議だよ。クソッ!

 その上、続く言葉に呆れたことを言い始める。

「紫乃、こんなことを頼むのは筋違いだとわかっているけど…凛一を見守ってくれないか?」

「…そんなことを俺に頼むのか?おまえにあんな裏切りをされた俺に?…その原因たる弟の面倒を見れって?」

「俺は二年経ったら戻る。それまで、ひとりになるあいつが心配なんだ」

「だったら…おまえが今すぐこっちに戻ってきて、凛一の傍にずっとついてりゃいい事なんじゃないか。どうして…俺に頼むんだよ。正気じゃない」

「だから悪いって言ってる」

「おまえはいつだって…俺の気持ちは凛一の半分も考えないで、傷つけてもいいと思っているんだろうな」

「違う…そうじゃない…」

 落ち込んで俯く慧一を見るのは嫌いじゃない。人目には影なんか絶対見せないこいつが、俺だけに見せる感情だからな。


 …無理だ。おまえを諦めるなんて、俺にはできないよ、慧一。


「…条件を飲むなら…凛一を見てやってもいい」

「…」

「俺ともう一度やり直す」

「…今更そんなことを言うな」

「あの時から一日だって忘れたことはなかったんだ。俺は今でもおまえが好きだよ」

「…ごめん。無理だよ。紫乃。俺がおまえにしたことを考えれば、これから平気でおまえと付き合えるわけないだろう」

「では…その償いを持って俺と付き合え。俺もひとりには飽きたんだよ」

 俺の勝手な言い草に慧一は暫くしかめっ面で俺を睨んでいたが、諦めたように苦笑した。

「凛一だけでも手一杯なのに、おまえに対しての罪まで背負わせられるのか、俺は」

「自業自得と思ってくれよ。おまえは元来自虐的本質を愛しているんだろう?」

「おまえがそこまで嗜虐性癖のある奴だったとは知らなかったけどな…では、なにをすれば俺の罪は軽くなる?」

「…星を見ないか、慧一。自分がどんなに小さい屑みたいな欠片かってね…そういう気分になるもの悪くないだろう」

「…ああ、悪くはないな…紫乃」


 俺たちの第二章が始まる。

 時が経つほどに人間も変わり往くものだ。

 善き彼方か、悪しき彼方かはわからないが、歩く道に花が咲けば、そこは美しき南の国となるだろう。

 そう信じさせてくれ、今は。




 君よ知るや南の国 かなたへ、かなたへ

 君と共に行かまし、あわれ、わがいとしき人よ





紫乃編は「早春散歩Ⅱ」に続きます。

こちらからどうぞ。

http://ncode.syosetu.com/n4331j/1/

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