病床幻夢
ごほっ、ごほっ……
咳が止まらない。
透はベッドの上で身体を丸めて咳き込んだ。
咳をするたびに、喉に鈍い痛みがある。
風邪だな……
ようやく咳を鎮めて慎重に息を吐きながら、透は心の中でそう呟いた。
昨日のこと。
部活はいつも通り。
トモカズと一緒に帰る。
途中で別れて、近道。
道の途中―――突然の雨の中でうずくまっていた女の子。
「どうしたんですか?」
そう言いながら、駆け寄る。
透と同じ、蒼神高校の制服。
「……胸が」
激しい雨の音にかき消されて、微かに届いたか細い声。
「胸? 胸がどうしたの?」
透は彼女の脇にしゃがみこんだ。
「苦しいの?」
こくり、と一度だけ頷く。
救急車を呼ぶか?
透は自分の制服のポケットに手を入れる。
慌てていて、携帯をどこのポケットに入れていたのかとっさに思い出せない。
その仕草に、彼女も気付いたのだろう。
首を振った。
「……大丈夫。すぐに治まるから」
「いや。でも」
そう言われて、雨の中に置いていけるようにはとても見えなかった。
逡巡を見抜いたように、彼女が言葉を足す。
「私の家……すぐそこだから。お母さんもいるし」
それで、透を安心させようとしたのだろう。
だから、彼女にとって次の透の行動は予想外だったはずだ。
「それなら送るよ。俺、おんぶするから」
そう言って彼女の手を取る。
初めて、顔を上げた。生気のない、血の気の引いた青ざめた顔。
特別に美人というわけではなかった。
だが、何か惹かれるものがあった。
「行こう」
それが何なのか分からないまま、透は彼女に背中を向けた。
彼女は一瞬の躊躇の後、力尽きたように身体を預けてきた。
確かな重さ。
冷え切った身体の中の、微かに残されたぬくもり。
「走るよ。どっちに行けばいい」
まるで、自分の言葉を映画の字幕のように感じる。
彼女が小さな声で方向を告げる。
透は彼女を背負って走った。雨の中を。
映画みたいだ。
透は思った。
ドアを開けて出てきた母親に彼女を預けると、透は雨の中を駆けだした。
「待って」
母親の慌てた声が背中を追いかけてきた。
「こんな雨の中、傘もなしじゃだめよ」
聞こえないふりをした。
こういうのは、苦手なんだ。
そう自分に言い訳した。
嘘だ。
本当は、怖かった。
恋に落ちるのが。
両親は小さい頃に死んだ。
叔母夫婦に育てられた。
小学校の頃は、まともな食事が出てきたら幸運というような生活。
酔って帰ってきた叔父によく殴られた。
叔父が死ぬ。
ずいぶんと入った保険金で、叔母は人が変わったように優しくなった。
それが中学時代。
高校に入ったら一人暮らしをさせてくれた。
最低限の生活ができる程度の生活費はくれた。
叔母には若い再婚相手がいた。
二人にとって俺は邪魔な存在だったのだろうが、極力そうは思わないようにしている。
家に帰ると、透は悪寒を感じる。
ひどい寒気。
風呂に入る。
体が熱い。
また震える。
布団は全部集めてもたった二枚。
それを掛けるが、夜更けまで眠れない。
ようやくまどろんだ意識の中で、繰り返し夢に見るのは、あの少女の顔。
背中から聞こえた、か細い声。
場面は、今日に戻る。
ベッドの上、透は眠る。
朝の8時。
学校には連絡した。
熱のせいか、身体の節々が痛む。
せっかくの機会だ。ゆっくり休もう。
外は雨。
昨日に続いて、強い雨。
雨音を聞きながら、透はまどろむ。
外の混乱、中の平穏。
安心できるのは、「ここなら大丈夫」と思えるから。
お守り代わりの、市販の安い風邪薬。
透は眠りにつく。
これは夢だ。
最近、自分でそう認識できる夢をよく見る。
昨日の女の子がベッドで寝ている。
その傍らに立っている彼女の両親。
「だから言ったでしょう、発作が出ると困るから今日は休みなさいって」
母親の声は、透の耳にもややヒステリックに響いた。
「もし何かあったらどうするつもりだったの。そんなに自分の身体を粗末にしたいの」
甲高い声。
「だって」
少女は言いかけるが、口を閉じてしまう。
母親の声。少女はふい、と横を向く。
自分のことのように、透の胸は痛む。
そんなんじゃないんだ。そんなんじゃないのに。
母親の娘を思う気持ち。
どうしてもっとうまく伝えられないんだろう。
「だって……」
少女は口を尖らせた。
だって、彼に会いたかったから。
彼女の気持ちがまるで映画の字幕のように流れ込んでくる。
クラスでも無口で目立たない彼女。
彼女が見つめる一人の男子生徒。
いつも見ていたい。
同じものを見て、同じ気持ちを共有したい。
その少年を透も知っていた。
「トモカズ……」
部活の友達、トモカズ。
卒然と悟る。
これは、事実だ。
正夢。
昨日、起きたこと。
根拠はない。
ただ、そう悟った。
だから言わんこっちゃない。
透はまどろみの中で思う。
ろくなことがないんだ。恋に、落ちてしまうと。
何度かの夢。
同じような夢をいくつも見ている。
一つ一つの夢の境界線は、はっきりしない。
さっきまで見ていた夢。
今見ている夢。
現実にあったこと。
それらが頭の上で絡み合って奇妙な一つの夢を作る。
「母さん、もういいよ」
落ち着いた男性の声。
顔は見えない。
「リンカだって反省してるさ」
リンカ。
それが、彼女の名前であることに気付く。
父さんも、分かってくれない。
こぼれ出す、彼女の思い。
みんな、分かってくれない。
私のことなんて。
けれど彼女は何も言わない。
ベッドの中で口を尖らせるだけ。
口にしなきゃ、届かないさ。
透は知っている。
心の中なんて、どんなに近くにいたって見えやしない。
だから、口に出すんだ。
自分が気持ちを伝えたい相手は、もうどれだけ口に出したって届かないところに行ってしまっているから。
君は、幸せなんだよ。
「リンカ」
そっと、呟いてみる。
目が覚める。
びっしょりに濡れた肌着。
枕元の時計は、11時。
とりあえず、着替えよう。
その後で何か食べよう。
食欲はなかったが、透は残っていたビスケットを少しかじる。
ぱさぱさしてちっともうまくはなかったが、水で無理やり流し込む。
頭がふらふらする。
身体が震えている。
透はまたベッドにもぐりこむ。
静かだ。
一人の部屋は、ひどく静かだ。
リンカ。
それが彼女の名前だということに、透はもう疑問も持っていなかった。
俺は、彼女のどこに惹かれたんだろう。
映画みたいな、劇的な出会い。
それもある。
でも、やはり。
一番、惹かれたのは。
生気のない顔。青ざめた、血の気のない肌。
どうしてだろう。
自問する。
熱に浮かされた人の常。思考はあちこちに飛ぶ。
朦朧とした意識。
意味のない、幻聴。幻覚。
ああ、そうか。
卒然と。
また、卒然と悟る。
一片の生気。
彼女の青ざめた顔の、ほんの一片の生気。
俺が惹かれたのは、それだ。
母さん、死なないでよ。
僕を、一人にしないでよ。
泣きながら、叫んだ。
その時の母の顔に残っていた消えそうな生気を、
俺は繋ぎ止めておきたかった。
ほんの一片の生気。
手を伸ばせば届きそうな。
手で触れれば消えてしまいそうな。
彼女の顔に残っていた、母に似た生気を。
母に似たはかなさを。
俺は繋ぎ止めたかったんだ。
今にも消えてしまいそうな。
そんな彼女の姿に、恋をしたんだ。
ピンポーン……
ピンポーン……
透は目を覚ました。
誰か来ているらしい。
近くにあった上着を適当に羽織り、ドアを開ける。
「はい」
立っていたのは、昨日の少女だった。
どうして、ここに。
俺は名乗ってもいないのに。
疑問は、けれど彼女と再会した驚きと嬉しさで霧散する。
白い顔。
寒そうに腕をちぢこめている。
「あの、昨日は」
彼女が言いかける。
その顔にほんのりと赤みがさす。
透はそれに勇気づけられた。
生気はどんなところにも隠れている。
誰にでもある。
こんな脆い彼女にすら。
少し胸が痛むけれど、トモカズのことを話してあげたい。
彼女の中の生気を、もっともっと押し出してみたい。
透は一度咳をした。
自分の身体がずいぶん楽になっていることに気付く。
風邪も、明日には治るだろう。