魔法のある世界
幼児期の男の子の姿をした聖書は廊下を走った。廊下の途中や曲がり角の前で止まって振り向き、追いつけばまた走り出した。長い廊下を直進し、T字路で右に曲がって、直進。階段を上って、左手に進み、さらに進む。
「な、長いし遠い……。覚えられるかな……」
光秀の隣を歩く煕子は不安そうに振り返って歩いてきた廊下を見ていた。廊下でランニングをすれば良い運動になりそうだと思えるほど廊下は長かった。
〈平気じゃよ。ワシがおるからのう。ほれ、ここじゃ!〉
聖書はくるりと回って二人と対面すると右手にある銀色の扉を指差した。歩いてきた道のりにあったドアは木で作られたものであった。案内された聖女の部屋の扉は鉄か銀で作られていた。表面には見覚えのある鳥が彫られており、ドアノブがなかった。
「ドアノブがないが……」
「あ、本当ですね。メイドさんがドアノブを持ってたんですかね?」
〈そんなもんいらん。ヒロコが扉に触れば開くぞ!〉
聖書は煕子の右手の手首を両手で掴むと扉に近づけた。煕子の手が扉に触れるとドアが光り、消えた。
「は?」
「き、消えた……?」
光秀は呆然と扉のあった場所を見ていた。ぎゅっと裾を掴まれたことで意識がそこに向かった。煕子が呆けた顔で部屋の入り口を見ていた。無意識で袖を握っていたようだった。その姿を見て光秀は冷静になることができた。
〈なぜ驚いておるんじゃ? あ、そうか、ヒロコたちのいた世界には魔法がないんじゃったな〉
「魔法……? そんな馬鹿な。触るとドアが開く仕掛けなんじゃないのか? 開く時にわざと光らせて見せないようにしたみたいな」
〈なんでそんな面倒なことをするんじゃ。このドアはヒロコの魔力にだけ反応して開くんじゃ〉
「私、魔力なんて持ってないです! ただのOLです!」
〈おーえる? おーえるとはなんじゃ? まぁよい、ヒロコは聖属性の魔力を持っておる。溢れるほどな。この世界に来た聖女の中では一番と言えるのう〉
「魔力なんてないですし、聖女でもありません!」
〈むむ! ヒロコは聖女じゃ。ワシが聖書として使命を帯びたから断言できるぞ〉
「そんなこと知りません。人違いです! 日本に帰らせてください……」
〈人違いなんてするわけないじゃろ。ヒロコはこの世界を救う聖女なんじゃ。喜ぶがよい!〉
煕子の右手を両手で握りながら聖書は笑顔でぶんぶんと上下に振った。煕子は下唇を噛んで震えていた。その震えは服の裾を握っている手から伝わった。
突然、日本からこの世界に飛ばされて世界を救えなど言われても喜べる人などいるのだろうか。いたとしても、煕子はそうではない。光秀だって帰りたいと思っている。光秀は聖書の両手を掴んで、煕子の手を解放させた。
「喜べるわけないだろう。ひろこも俺も日本で生きていたんだ。なのに、知らない世界を救えと言われても困るだけだ。正直言って助けたいなんて思わない」
〈ぬぬ!? 前の聖女は喜んで世界を救ったと聞いておったんじゃが〉
「そいつはそいつ。ひろこはひろこだ」
〈そうか……。そうじゃったか、それはすまんかった。人間とは難儀じゃ。……せ、聖女っ!? どうしたんじゃ!?〉
煕子はぼろぼろと涙を落としていた。「ひっく」と嗚咽を零しながら片手で涙を拭っていた。
「す、すみません! すみません!」
〈わぁぁあ! すまん! ワシが悪かった!!〉
光秀が涙を拭えるものを持っていなかったかとポケットを探った。ポケットに入っていたのは財布とスマホだけであった。視線を煕子に戻すと聖書もわんわんと泣いていた。泣いている煕子の脚にくっついて沢山の涙を床に落としていた。光秀はどうしたものかと悩んだ。しばらくすると、歩いてきた方角の廊下から聖女を呼ぶメイドと騎士の声が聞こえた。
「とりあえず部屋に入ろう」
泣き顔を大勢に見られたくないだろう。声をかけたが、聞こえていないのかその場で二人は泣いていた。光秀は聖書を煕子から離すと小脇に抱えて、煕子の背中に手を当てた。そのままドアが消えた部屋に入った。
三人が部屋に入ると扉は元通りの銀の扉が表れて、閉まった。
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