聖書に拳
後ろで何かが飛んでいる。光秀は虫だと思った。一歩左足を下げて半身になり裏拳をするような体勢になって、それに拳を叩きつけた。叩きつけた速度があまりにも速すぎて煕子や使用人、後ろについてきていた騎士たちには見ることができなかった。
パァンッ!!と固い物がぶつかったような音、ドンッ!と床に落ちた音が広い廊下に伝わった。
「…………?」
「…………?」
床に落ちていたのは汚れ一つない真っ白な分厚い本だった。本というより辞典のような大きさである。光秀は白い本を、煕子は光秀を困惑の眼差しで見ていた。
「あああぁぁぁぁあああ!?」
本に気がついたらしい騎士が大声をあげた。そちらを見ると口をパクパクさせていた。部屋に案内するために先導していたメイドも顔を強張らせていた。その姿に光秀はやってはいけないことをしたと理解した。だが、光秀も煕子も床に落ちた本については何も知らない。知らされてもいない。
『これはなんですか?』
誰一人話さない凍りついた空気の中で、光秀は本について尋ねるしかなかった。
『お、お前ッ! 知らないのか!?』
『知らない。俺たちはさっきこの世界に来たばかりだ』
『聖書にきまっているだろう!? 聖女様が召喚されると必ず出現する伝説の代物だ! お前、なんてことをしてくれたんだ!』
青かった騎士の顔色が真っ赤に変わった。光秀は顔色が変わる様を見て、この世界の騎士は頭の防具は付けないのかと思った。未だに床に落ちている本は聖書というものらしい。
「あの、みつひでさん。今はいったいどういう状況ですか……?」
光秀の右腕にぎゅっと抱き着くようにしてから煕子は小声で光秀に尋ねた。すると騎士を見ていた視線が煕子に移った。
「俺が聖書? っていう本を叩き落した」
「聖書? 床に落ちてる本のことですか?」
「そうらしい。で、それに対して騎士が怒っている状況だ」
煕子は光秀の腕に抱き着いたまま興味深そうに本を覗き込んだ。ただの白い本が突然、淡く光った。ゆっくりと浮かび上がると煕子の目の前まで飛んできた。
「ど、どど、どうすれば……?」
「俺も分からん」
「ですよね。とりあえず、触ってみます!」
煕子は右手を本の方へと出した。なめらかで白く小さい手が本に触れた。その瞬間に眩い光が廊下を埋め尽くした。思わず閉じた目を開けると本のあった所に子供が浮いていた。
ふわふわとウェーブしている金髪は肩に着くぐらいの長さ。おおきな瞳は空のような青色。ぷっくりとした愛らしい頬。幼稚園に通うぐらいの年齢に見えるその子供は満面の笑みで手を広げて煕子に抱き着いた。
「わっ!? 危ない!」
煕子は咄嗟に両手を出して子供を受け止めた。受け止めたものの衝撃でよろめく彼女の腰に手を回して支えた。焦っていたのか腕の中にいる煕子は安堵の息を吐いていた。
「び、びっくりした……。みつひでさん、ありがとうございます」
「いや。それより、その子は?」
「聖書……?」
〈正解!! 正解!! せいかーい!! さっすがワシの聖女じゃー!!〉
にこにこと笑う子供の顔を覗き込んだ瞬間、元気いっぱいの男の子の声が二人の頭の中に響いた。それは耳をふさぎたくなるほどの大きい声量だった。
「ぐっ!? う、うるせぇ……!」
「きゃっ!?」
二人が声のうるささに顔を歪めると子供は慌てた顔をした。そして、目を閉じて三度ほど深呼吸をした。
〈すまんのう。人間と話すのが久しゅうて……このくらいで平気かのう?〉
「ああ。それくらいでちょうどいい」
「あ、私もそう思います」
〈うんうん、そうかそうか。ワシは聖女の聖書じゃ。よろしく! して、聖女とそちの名前はなんじゃ?〉
「私は桜田煕子です。煕子が名前です。よろしくお願いいたします?」
「俺は八百原光秀。光秀が名前だ」
〈ヒロコとミツヒデじゃな! うむ、良い名じゃ〉
思わず自己紹介をしてしまったが光秀も煕子も状況についていけていなかった。異世界に召喚されて、目の前で本が子供になった。現実ではありえない事ばかりが起きていた。
〈むむ? 理解できんといった顔じゃなぁ。よいよい、まずは聖女の部屋に行こうかの。こっちじゃ〉
聖書は煕子の腕からぴょんっと下りて走り出した。周りをみれば騎士やメイドは地面に正座し、手をついて頭を下げていた。部屋の案内どころではないのがひしひしと伝わってきた。光秀と煕子は目を合わせると頷いた。
〈なにをしておる。こっちじゃー!〉
子供の姿をした聖書は廊下の先で手を振っている。二人は聖書の案内についていくことにした。それを見て聖書は嬉しそうに廊下を走った。
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