桜花が舞う中で
雲一つない澄んだ青空の下、とある公立高校の入学式が行われた。そこに参加するのは勿論、今年の新入生達。皆、着慣れないブレザーに袖を通し、行儀良くパイプ椅子に座って壇上の校長先生の話を聞いている。
僕アキトの姿も、彼らの中にあった。だけど、僕は真面目に聞いている風を装って、実は全然関係のない事を考えている。最近ハマっているオンラインゲームの事や今日の昼食、あの漫画の最新話……いくら考えようとも、思考が尽きる事はない。
ふと、視界の端で頭がコクンコクンと上下に揺れ始めた。
気になって少し顔をそちらへ向けると、通路を挟んだ向こう側の椅子に少女が座っていた。周りの女子の視線は前方を向いているのに、彼女だけが俯きかけていて目立つ。それに、艶やかな黒の長髪が横顔にかかっていて顔立ちは分からないが、制服の上からでも分かるモデル体型が一層彼女の存在を惹き立てている。きっと、顔も綺麗なんだろうな。
僕は彼女から視線を外し、前方を向いた。
結局式が終わるまで僕の思考が止む事はなく、彼女は居眠りをしたままだった。
桜花の雨に打たれながら、僕は肩から鞄を提げて正門を出た。
この高校の生徒としては初めての一歩だ。明日からは、それが当たり前になってゆくのだろう。そんな事を思いながら歩いていると、後ろから声が掛かった。可愛い少女ボイスだ。僕の名を呼んだのだから、振り向くのは当然僕である筈。まあ、周りに同名の奴が居たらアウトだが、今回の場合は僕で合っていたみたいだ。
しかし、そこに立って居た少女の事を僕は知らなかった。
いや……全くと言う訳ではないのだが、少女を見たのは一度きり――――入学式の時だけだ。あの時、一人だけ居眠りしていた事を僕は知っている。その少女こそが、今目の前に居る少女だ。たったそれだけだと言うのに、彼女から僕に声を掛けるなんておかしい。しかも、知っていると言っても一方的だ。彼女が僕の事を知っている筈がない。だとしたら、彼女の人違いか? でも、さっき確かに……
「やっぱりアキトだよね?」
少女は満面の笑みで、僕にそう訊いてきた。
入学式の時は横姿しか見えなかったけど、こうして真正面で見る彼女はとても可愛い。笑顔がとっても似合う。……何処かで見た事のある笑顔だ。
僕の視線は自然と、彼女の首から下へと向いてゆく。途中の二つの大きな山に差し掛かった時、ピタリと止まってそこに僕の目は釘付けになった。
少女は僕の視線が自分の胸に向いている事に気が付くと、咄嗟に両腕で胸を隠し顔を赤らめて後退った。
「ど、何処見てるの!? ていうか、アキトだよね?」
「え!? あ……ああ……」
…………気付かなかった。あまりにごく自然な動きで、この目が彼女の胸に向いていたらしい。恐るべし、男の本能。恐るべし、彼女の巨乳。
横を通り過ぎた人達が僕達の方を振り返ったが、僕は平静を装ってようやく彼女の質問に答えた。
「そうだよ。僕はアキトだ。……キミは?」
すると、今度は彼女の顔が驚きと疑問に染まった。笑ったり、照れたり、驚いたりと、色々忙しい娘だ。
彼女は自分を指差し、必死に名乗った。
「忘れちゃったの!? わたしだよ? わたし。ユキナだよ?」
「ユキ……ナ……? あ、ああ――」
遠い記憶が呼び起こされる。
ユキナはそう、僕の幼馴染だ。小学校に上がる前までは同じ地区に住んでいて、家は隣同士だった。
あの頃は毎日の様に遊んだな……公園に行ったり、互いの家にお邪魔したり。
だけど、家庭の事情で僕が家を引っ越してからは一度も会わなかったし、連絡も取らなかった。
ユキナの事を忘れた訳ではないけれど、日々積み重なってゆく思い出に彼女の存在は埋もれてしまっていた。
それが今数年振りに掘り起こされ、僕の頭は少し混乱していた。
「ユキナって、キミはあのユキナか!?」
「そう、あのユキナだよ。良かった~忘れられちゃったと思ったよぉ」
ユキナは安心した様で、落ち着いた笑みを見せた。
僕も安堵からか、小さなため息が漏れた。
「忘れる訳ないだろ。でも、一瞬誰だか分かんなかったぞ。見た目がこう……」
「ええ? 何何~?」
う……顔が近い。長い睫毛に、光り輝くクリクリとした大きな茶色の瞳、桜色に染まった頬、血色の良いプルンとした柔らかそうな唇――――それ全てが僕の視界を覆い、僕は面映くて顔を背けた。顔が熱い。きっと、僕の頬も赤みを帯びているだろう。
ユキナの視線はまだ僕に向いている。問いに対する僕の答えを待っているんだ。
仕方ない……答えようか。バクバクした心臓が破裂してしまう前に。
「……美人になりましたね」
「えっ?」
「ん?」
両者沈黙。地球が自転を止めたかの様に、辺りが静かになった。いつの間にか、通行人の姿も見当たらなくなっていた。
ユキナがフッと笑い、僕の心臓はまた加速し始めて頭から足の先まで血が巡って全身が熱くなった。
恥ずかしい。
僕は何、真顔で女性に面と向かってそんな事を言ったんだ。しかも、何故か敬語。
ユキナは何で笑ってるの? 余計恥ずかしいじゃないか。
地球は自転を再開したが、依然として空気は重たいままだった。
僕もユキナと同じ様に笑い、誤魔化そうか。
僕の口角が上がりかけた時、ユキナの口が開いた。
「ありがとうっ! アキトに褒めてもらえるなんて嬉しいな」
予想と反した反応。僕の口角は上がり、頬は熱くなってきっとだらしないニヤケ顔になっているだろう。
僕も女性に素直に礼を言われたのは初めてで、凄く嬉しい。しかも、こんな巨乳美女に。
だが、次の彼女の一言で僕は高台から突き落とされる事に……。
「でも、アキトは全然変わらないね」
「はい?」
か、変わらない……だと!? それはおかしいだろ。ユキナと最後に会ったの、何年前だと思ってるんだよ。
僕は足をクロスさせてやや背筋を後方へ反らし、左手の甲を顎に添えて伏せ目がちにユキナを見た。
二次元だったら、きっと僕の周りには美しい花が咲き誇り、光の粒が舞っている事だろう。つまり、イケメンの出で立ちだ。
さぞかし、ユキナも僕の美麗たる姿に目も心も奪われた……と思っていた僕だったが、ここでも彼女の反応には変化がなかった。
「その男の子なのに、サラッサラの黒髪、前髪が左だけ長くてタレ気味の目にかかってる感じ! 栄養失調を疑う様な白くて細い身体! 身長は大分伸びたみたいだけど、あの頃と変わってなくて安心した。この高校の入試の時、すぐにアキトだって分かったもん」
褒めているのか、貶しているのか分からない。
まあ、いいか。彼女がこんなに嬉しそうなんだから。
「ていうかさ、入試の時から僕に気付いてたのか」
僕は全然気付かなかったぞ。
「うん。だって、わたし、アキトがこの高校を志望してる事知ってたもん。だから、わたしも……」
ユキナの笑みに若干影が掛かり、声も何か別の……人ならざる者の鈍い声が重なって、その一瞬に悪霊にでも憑かれた様に見えた。
下から背中を何かが這い上がって来る様な感覚がした気がして、ゾクッと身震いがした。
「なあ、ユキナ……」
「ん? 何?」
ピロロロロ……ピロロロロ……
ユキナの鞄から音が規則的に鳴り響いた。
ユキナはすぐに鞄からスマホを取り出した。
「ごめん。ちょっと出るね」
そう言って、ユキナはスマホをタップして耳に当てた。
ユキナが誰かと通話し始めて、僕は待っている間身体を捻ったり、伸ばしたりした。
ユキナの相槌を打つ声の途中途中に、少し低い女性の声が聞こえる。多分、通話の相手は彼女の母親だろう。彼女も落ち着いた様子で話している。
「うん。それじゃあ、すぐ帰る。うん。切るね」
ユキナはスマホを下ろし、鞄の中に戻しながら僕を見た。笑顔だが、困り顔だ。
「ごめんね。もう少し話していたかったんだけど、お母さんがすぐ帰って来いって言うからさ」
「そうか。それはしょうがないな」
「うん。そう言う事だから……。明日からは毎日会えるし、たっくさんお話ししようねっ! ばいばい」
ユキナは僕の脇を摺り抜け、走り去っていった。
僕は彼女の背中に手を振り、姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。この時にはもう、ユキナに抱いた違和感はすっかり消えてしまっていた。