枢機卿の剣
双子達の父に用意された馬車に乗り、家に着いた頃に降り出した雨は夜になっても降り続いた。
この日、食事の時間になっても、ルイやハウエルが寝る時間になっても、父親が戻ってくる気配がなかった。
顔を合わせれば、勉強はどうだ、どこそこの子供と付き合いを持つななど、ダメダメ尽くしの父親で、ルイは父親のことをあまり好いてはいなかったが、それでもこうも帰りが遅いと心配になってくる。
庇から滴り落ちる雨水をぼんやり眺めながら、椅子に座って黙々と本を読む兄に向かって言葉を投げかける。
「ねぇ、兄さん?」
「ん?」
ハウエルはその時、物語ではなく、歴史書を読んでいた。
この国の歴史。政治家になるうえでは欠かせないもので、家庭教師からはできることならば暗記しろと言われていた。
「魔女って、」
ルイは振り返る。「魔女ってどうすれば倒せるの?」
今まで読んだ英雄譚に魔女は登場しなかった。
魔法使いは何人か登場した。でも、それらはみんな男だった。
セクトリアで忌避される「魔女」はみんな女だ。
女性だけがたった一つの魔力に目覚める。
その点だけは、ルイも知っていた。
だが、英雄譚に魔女が登場しないのは、意図して登場させないからだ。そこまではルイも知らない。
魔女について書こうものなら国家反逆罪レベルの刑になる。そして、それが手違いで世に出回った場合、焚書処分となる。
過去、ホワイト・ウィッチ――「純粋なる魔女」と称して、能力に目覚めた者全員が悪事を働くわけではないと書き綴った本が、少数ではあるが出版されたことがあった。
書いたのはもちろん魔女だった。
その魔女がどんな能力を持っていたのかは知られていない。
サーチ・アンド・デストロイ――見つかると同時に、国の治安維持団である警備兵によって殺されてしまったからだ。
その本を手にした者も数年間を牢屋で過ごしたという。
魔女に関しては、記録することも、口にすることもタブー。ただ、教会だけは、今までに存在し、確認できただけの魔女の能力の記録を保管しているという。
魔女は有害。
国民にもたらされる情報はこれだけだ。
だから、いくら空想譚でさえ、魔女について扱うことは禁じられていた。
ルイのその言葉に、ハウエルは本から手を離し、彼に身体を向けて真剣に言う。
「ルイ、学校ではそんなこと、言っちゃだめだ」
「言わないよ。だけど、悪者なんでしょ? 誰が倒すの?」
ハウエルは言葉に詰まる。
この好奇心旺盛な弟にどう説明したらよいものかと。もしくは、別の話で濁してしまおうかと。
ハウエルは立ち上がると、ベッドに座り、「こっちにおいで」と自分の隣に手を置く。
いつもと違う兄の様子に、ルイは戸惑い気味に近づき、ハウエルの隣に腰を下ろす。
「ここでする話は、他の人にはしちゃだめだぞ? 絶対だ」
「誰かにしたら、魔女に連れて行かれる?」
「そうかもしれないし、魔女よりもっと怖い人に連れて行かれるかもしれない」
その言葉に、思わずハウエルの腕にしがみつく。
「魔女よりも、怖い人っているの?」
「いるよ。その人たちが魔女をやっつけてるんだ」
大人たちなら誰でも知っている。教会の一機関。
「魔女を倒すってことは、魔女の敵なんだよね? なのに魔女の話をした人も連れて行くの?」
ルイの問いは正しい。
矛盾を正しく指摘している。
「その怖い人たちは、魔女の噂もすべてを消し去りたいんだ。魔女に関わったものすべてを消していくんだ」
ルイの身体が恐怖で震えあがる。
兄の口から語られるそれは、今まで聞いたどんな魔物よりも恐ろしい。
「人、なの? 幽霊とかじゃないの?」
「僕たちと同じ人間だよ。黒い服を着て、黙って魔女を狩ったり、処刑したりするんだって」
実際にその様子を見たわけではないが、ハウエルくらいの歳になれば誰でも教会の「異端審問室」という機関についての噂を耳にするし、教わることとなる。
兄の口から語られるそれに、ルイは恐怖する。
――空想の化物よりも恐ろしい人間がいる、人の方が恐ろしいと思った瞬間だった。
ルイの様子を見て、この怖がりようであれば、人前で魔女について語ることはないだろうとハウエルは思った。
「それと、騎士団が魔女の討伐にあたるんだ」
「騎士団」という単語に、ルイの恐怖が少し和らぐ。「騎士団って、王様の?」
「そうだね、いざという時は王立騎士団が魔女を退治するかもしれないね」
だが、ハウエルが言った騎士団はルイが知っているそれではない。
「教会直属の騎士団が存在するんだ。ルイは陛下の生誕祝いで騎士団を見たことがあるだろ?」
「うん」
それは、今の国王の六十歳の誕生日を祝った式典で、王都で一番広い道を使ってパレードなどが行われた。
白い制服に白銀の甲冑、腰に剣を下げた騎士団の行進。そして、王を乗せた、天井のない馬車。その周りにも騎士が配置されていた。
前方を歩く騎士とは違い、白い制服に青いマントと胸に大きな勲章をつけていた。
騎士というだけでも、一般市民より位が高いのに、彼らはそれより上、貴族クラスであり、国王から直々に選ばれた十人。
王の指先――ディート・レ・カヴァッレリーア。
「青は王様の色、でもこの国には赤も存在する」
「……教会?」
「そう、教会の偉い人は式典で赤を纏う。セクトリアの教会で一番偉い人は枢機卿猊下。猊下を守るための騎士団もあるんだ」
「初めて聞いた!」
「普段は表舞台に立たないからね。その教会の騎士団が魔女を倒す命を与えられているんだ」
「教会だから……」
ルイは首をひねる。「聖騎士?」
「そう、パラディンだ」
魔女や異端審問官に対する恐怖は吹き飛んだようだ。ハウエルは頷く。
「聖階段騎士団というんだ」
「階段? なんで階段なの?」
「天国に上がるための十二段の階段を守ってるんだ」
「その人たちが、魔女を倒してくれるの?」
「魔女は普通の悪い人と違って、教会が裁くんだ。それは知ってるよね?」
素直にうなずくルイ。
その頃には恐怖感は薄れていた。
新たに知った知識でそれどころではないらしい。
ハウエルは話を続ける。
「王の指先が陛下の剣だとすれば、階段騎士は教会で一番偉い枢機卿猊下の剣なんだ。だから――」
「階段騎士は魔女を倒すんだね?」
「そういうこと」
ルイは窓に目を向ける。
雨はまだ降り続けていて、止む気配はない。
長く降り続く雨は秋が近いことを知らせている。
今でも少し肌寒い。
それでもルイの頬は潮紅していた。
――聖階段騎士団、枢機卿の剣。
今まで王立騎士団にあこがれていたルイは、一瞬にして兄の口から語られた聖騎士に心を奪われていた。
セクトリアは、隣接する北の大国クレモネスとも東のイースクリートとも関係は良好で、王立騎士団が戦う機会というのは滅多にないだろう。
だが、聖階段騎士団は違う。
国内に存在する魔女という脅威と戦う存在。
戦うことを許された存在。
聖騎士の話をすれば、きっとメアリの魔女に対する恐怖心も少しは薄れるはずだ。
ルイはそう思った。
ルイでなくとも、誰だってそう思っただろう。
だが、メアリが抱いている恐怖は、周りが抱く恐怖心とはまったく別なところにあったのだと、誰も知る由もなかった。
そう、本人が口を閉ざしたままだったから。誰も知ることができなかったのだ。
*
その日、ヤブ医者は「ちょっと昼寝させて」と、フラフラの状態で病室に入ってきた。
きつい消毒用のアルコールの臭いが鼻を突いた。
どうやら手術明けのようだ。
「ちょっと待て」
「待てないー」
ヤブ医者は靴をなげだし、隣のベッドに倒れ込む。
構わず、話しかける。
「傷のことで聞きたいんだが」
「跡は残るって言ったじゃん。それが嫌なら人工皮膚を移植するしかないって。それだと皮膚が定着するまで時間がかかるって」
布団に埋もれ、くぐもった返事が返ってくる。
「細かい傷も消えないのか?」
縫うまでには至らなかったが、そこらじゅうに切り傷が存在した。
すでに姿を消した傷もあったが、どうしても気になる部分が一か所あった。
「細かい傷ぅ?」
顔を上げたヤブ医者に対し、伸びた前髪を分けて、右のこめかみ部分に刻まれた傷を見せる。
それを見たヤブ医者は、ため息をついて布団にぐるぐると包まりながら言う。「前髪で隠れてるから気にしなくていいじゃないか」
「髪が伸びたから隠れてるだけだ。元々髪は短くしてたんだ」
「だったらこれを期に伸ばせば?」
布団の塊が答える。
髪を短くすることは騎士団の決まりというわけではなかったが、長年短く刈っていたせいか、長いのは落ち着かない。
現に、今も鬱陶しくて仕方がない。特に前髪。
「ふぅうううん、ちょっと待って、ほんと寝ないと死ぬ」
ヤブ医者はそう言い残して夢の世界へと旅立ってしまった。
こんな時に急患が担ぎ込まれて来たらどうなるんだろうなと、少しだけ意地悪な想像をしてしまった。
それにしても、前髪が邪魔だ。
だからといって、自分で切る気もおきない。
指先で伸びた髪をしばらく弄び、再びパズルリングに取り掛かる。
始めはイライラが募る一方だったが、一度解けると案外楽しい。
ベッド横のテーブルの上には、買い足された新しいパズルリング。女の子たちが見舞いに持ってきてくれた野草を活けた花瓶。そして、行き場を失った、聖階段騎士団の「Ⅷ」と刻まれたプレート。