むかしむかし、あるところに
*
――彼の前には赤色の竜。
退路は吹雪によって閉ざされた。
英雄よ、剣をとれ。
されば竜を倒し、この地に安寧は訪れるであろう。
勇者の前には、岩に突き刺さった黄金の剣。
視界を塗りつぶす雪のカーテンの中で、赤い竜とその剣が放つまばゆい光だけが色彩。
さあ、手に取るのだ。
竜に蹂躙された大地が叫ぶ。
だが、勇者は立ち止まったまま、その場から動けずにいる。
山を越え、海を越え、多くを失い、多くを得た勇者にもまだ足りないものがあった。
勇者はそれに気づき、ためらう。
己に足りないものがなんであるかは知っている。
その名は――
「今日はここまでだよ」
そう言ってハウエルは本を閉じようとするのを、幼いルイは引き留める。
「兄さん、そこで止めるなんてずるいよ。明日の夜までなんて待てない。授業に集中できないよ」
ルイはベッドの上に座り、兄のハウエルの腕をつかみ、身体を左右に振る。
その様子にハウエルは優しく微笑む。
「僕的には勇者に足りないものを考えてほしいんだけどなあ」
「勇者に足りないものなんてないよ。だって、これが最後の戦いなんでしょ?」
「なぜそう思うんだい?」
ルイはハウエルの手にする本を指差す。厳密には、その残りのページだ。
「ページが残り少ないから、これが最後の戦い。王様だって、これが最後の戦いだって言ってた」
「この本では最後の戦いかもしれない」
そう言って、ハウエルは栞を挟んで本を閉じる。
「この本では?」
ルイは首をかしげて聞き返す。
「そう。もしかしたら前に読んだ本みたいに続きがあるかもしれない」
「世界が平和になっても勇者は戦うの?」
「本当に平和になるかわからないじゃないか」
兄の言葉にルイは腕を組んで考える。
最後の敵、悪さをする魔物を倒したら世界は平和になるのではないのか?
それとも、新たな敵が現れるのか?
だとしたら世界はずっと平和になれない。
だけど、勇者の物語は続く。ずっと、ドキドキやワクワクが続く。それは嬉しいけど、本の中の住人は可哀想だ。
「ほら、そろそろ寝ないとまた寝坊するぞ」
「はーい」
ルイは大人しく布団の中に潜り込む。
潜り込みながら、ハウエルに言う。「兄さんはいいなあ」
「なにが?」
本を本棚に戻しながらハウエルは首をかしげる。
「学校に行かなくていいんだもん。ぼくも家庭教師が良かった」
「学校に行かなくていいからって寝坊してもいいというわけじゃないよ。僕はルイがうらやましくて仕方ないけどなあ」
「そうなの?」
「そうだよ」
ハウエルはルイの額を撫でながら言う。「ルイはたくさん友達がいるだろ? 学校にさ」
「嫌なやつもいるよ」
「だとしても、簡単に外に出られるのがうらやましい」
兄が簡単に屋敷の敷地の外に出てはいけないことは、ルイも知っている。
物心つく頃に、父親からきつく言われたからだ。
兄のハウエルは長男、このルーマルク家を継ぎ、父のような立派な大臣になれるようにとルイとは異なる教育が施されている。
休日以外は外で遊ぶことも許されない。
そのことについて、可哀想だと父に言ったところ、お前とは違うんだと怒られたうえに殴られた。それからは兄について、父に口答えすることはなくなった。
いくら父親とはいえ、目元が似ていると言われても、食事以外ではほとんど顔を合わせることもない。こんなふうに本を読み聞かせてくれるわけでもない。ルイにとって、父親は物語に出てくる王様だった。
滅多にお目通りが敵わない偉い人。
なぜ偉いのかも、十歳の時分ではぼんやりとしか把握できなかった。
「でもさ、大人になったら外に出られるんだよね? 父様みたいに」
「あれは外に出てるって言うのかな?」
ハウエルは苦笑いを浮かべる。
ルイは父親の仕事をよく理解していないが、五歳年上のハウエルは、自分の父親が王宮と自分の屋敷を馬車で往復しているだけだと知っている。
それを伝えてしまったら、またルイは反論するだろう。そう思ってハウエルは笑ってごまかす。「そうだね、大人になったらいろんなところに行けるよ。他の国に行くかもしれないね」
「その時は、ぼくも連れて行ってね」
「うん」
即座に頷いたものの、弟とは同じ道を歩めないことを、ハウエルは知っている。
ルーマルク家は古い家だ。百年以上その血を残してきた。
残せたのは、ずっと国の要職に就いてきたからだと、一族お抱えの家庭教師から教えられた。
商家のように一山当てるでもなく、王を支えてゆっくりと栄えた家。
今でこそ貴族として潤っているが、初期の頃は大臣として働く家長のところに、その兄弟が金を無心しにくることが多かったらしい。
それに嫌気がさした何代か前の当主が作ったルーマルク家の決まり。
家を継ぐ者以外は神職者――聖職者にすること。
ルイは今、教会が運営する学校に通っているが、それは神学院に入るための前準備だ。
神学院に入ってしまえばほぼ聖職者といって相違ないだろう。
王ではなく、神に忠誠を誓う者として結婚はおろか、恋愛さえ許されない。
弟の好きな英雄譚には、恋の話も多い。
美しい姫を守るために剣を振う。
ハウエルは知っている。
英雄が悪を倒すときと同じく、姫を守る英雄に対して、ルイは強いあこがれを抱いていることを。
最近は意図して恋の話が入っているものは読まないようにしているが、学校ではどうだろう?
すでに簡単な言葉ならば理解できているし、読むことも可能だ。
あこがれが固いしこりとなって、将来に影響しないだろうか?
家庭教師とたまにルイの話をする。
父に対しての反発精神が強いと言ったところ、老教師は「弟とは大概にしてそういうものですよ」と言って笑っていた。
母は、ルイを産んですぐに亡くなってしまった。
母親を失った寂しさを新しくできた家族、同じ胎内から生まれた小さな小さな弟という存在で埋めようとした。そのせいだろうか? ハウエルは、自身でもルイに対して過保護だという自覚がある。
ルイもハウエルを少しだけ、母として慕ってる部分があるように思える。
ハウエルは知っていた。ルイは自分の身にもしものことがあった場合のことを考えて産みだされたことを。
三歳の頃、ハウエルは一度だけ、流行り熱に罹り、かなり危険な状態に陥った。
その後、母は懐妊した。
己にもしものことがあった場合の代わり。
始めは複雑な気持ちだった。
だが、病床の母が「兄弟がいるあなたがうらやましいわ」と、兄弟に対する強いあこがれを語ってくれたおかげだろうか。赤子が言葉らしきものを発するようになり初めて口にするであろう「マーマ」を、ルイは口にしなかった。言う相手がいないことを可愛そうだという想いが、次第に愛情へと変わっていった。
「蝋燭、消すよ」
「うん、おやすみなさい、兄さん」
「おやすみ、ルイ」
蝋燭の火を消すとき、ハウエルはいつも願うのだ。
歩む道は違えど、弟とずっと仲良くいられるようにと。