落下した果実は元には戻れない
ルイは思い切って、異端審問室の門を叩いた。
行ってはいけないという決まりはなかったが、一応団長のハルステンに伝えた。
彼は特に深く理由を問うわけでもなく、また、訝しげな表情を浮かべるわけでもなく、「あちらの仕事の迷惑にならないように」とだけ言った。
だが、それは無駄足に終わった。
ギルベルトかヴィンセント、どちらかに会いたいと言ったのだが、半時ほど待たされて現れたのは、同じ人物で、「どちらも出払っていて不在」とのことだった。
特に、ギルベルトに関しては戦力として重宝されていて、セクトリア国内のあちこちに飛ばされていて、異端審問室本館にいることが少ないらしい。
伝言なら伝えておくと言われ、そこでルイは気づいた。
――ギルベルトと会って何を話したいのか?
なぜ少女を殺したのか?
――少女は魔女で、その能力を使ってたくさんの人を殺したから。
なぜあんな身のこなしができたのか?
――異端審問室に入ってから訓練したから?
いままでどうしていたのか……。
結局、伝えるような言葉は何一つ思い浮かばず、遠慮して騎士団本部に戻った。
その次の日の朝だった。
「ルイ君」
いつものように、訓練所でダマスに指導を受けている真っ最中だった。
シフリードが手招きする。
その後ろに、ヴィンセントが立っていた。
昨日、異端審問室に行った時に対応してくれた審問官が、わざわざヴィンセントにルイが訪れたことを伝えたのかと思ったが、そうではなかった。
シフリードとダマスがその場から離れたのを見計らい、ヴィンセントが口を開く。
「ルイ、君は今すぐ家に戻れ」
「どうしたんだよ、いきなり」
いつも温和な雰囲気を漂わせているヴィンセントと違った。
なにか焦っているような、切羽詰まった表情だった。
「馬はあるか?」
「厩舎に……、でも、出かけるなら団長に――」
「ルイ、騎士団に残るか、家族を守るか、どちらか決めるんだ」
ヴィンセントはまっすぐルイと目を合わせて伝える。
「うちに魔女がいると、異端審問室に通報があった」
「うちって、ヴィンスの家のことか?」
「そうだ。今までのケースから考えれば、メアリの嫁ぎ先であるルイの家も危ないんだ、だから――」
「ちょ、ちょっと待て、そんなの冗談だろ? 第一、異端審問官の生家に魔女がいるとか」
ルイは軽く笑い飛ばすが、ヴィンセントは全く笑わない。
「僕らが異端審問官になったってことは両親以外誰も知らないんだ。それに、息子が異端審問官だって関係ない」
ルイの表情は徐々に凍りついていく。
「まさか、おばさんが本当に魔女だっていうのか?」
「とにかく! ルイは早く家族のところに行け!」
ヴィンセントに強引に背を押され、ルイはよろめく。
――そんなのって。
遠い記憶が蘇ってくる。
――本当に魔女だったなんて。
「次に会う時にちゃんと話す。だから頼む、メアリと君の家族を守ってくれ」
守ってくれと言われたところで、どうすればいいのかわからなかった。
訓練の途中で、自分が普段使用している武器や装備は装着されている。
だが、白に赤いラインの入った騎士服では目立ちすぎる。
それを察したのか、ヴィンセントは、自分が着ている異端審問官の丈の長いカソックを乱暴に脱ぎ、ルイの肩に羽織らせる。
「父さんは母さんが魔女だって知ってる。だから、父さんが逃げないというなら、それはわかってやってほしい。でも、メアリは違う。メアリはハウエルと結婚した。メアリはディートタルジェント家とはもう関係がない。だから、守ってやってくれ。
もし、このことで君が罪に問われるようなことがあれば、僕が指示したことだから、責任は僕が全部取る」
「馬鹿言うなよ。魔女の脅威はないって、俺が説明してやる」
「いいや、通報してきたのは近所の住人だ。ルイだって見て来ただろ? 暴徒と化した周りの住人が、屋敷に石を投げたり、火を放ったり。
とにかく逃げるんだ、いいね?」
まるで、母親が息子に言い聞かせるようにヴィンセントは言って、その場を去る。
ルイはしばらくその場にたたずんでいたが、ふと我に返り、ヴィンセントの黒い制服に腕を通し、厩舎に向かう。
この日も、ほとんどの団員が異端審問室に駆り出されていて、厩舎に人の気配はなかった。
だが、ルイがいなくなったことはすぐに知れる。
そして、いなくなった原因もさほど時間をおかずにバレるだろう。
とにかく、今は真実を確かめなければならない。
いつも乗っている黒い馬に鞍を付け、慎重に厩舎を出る。遠回りになるが、林道に入り、完全に騎士団本部から隠れたところで馬に乗り、拍車をかける。
林道をしばらく走り続け、聖都を抜けたあたりで街道に出る。
馬を全力で走らせたとして三時間、いや、二時間半。
その間になにも起こらないことを祈るしかない。
ヴィンセントは、ようやくこの時が来たのかと、安堵にも似たため息をついた。
幼い頃、ルイが聖騎士になると言った時、ギルベルトはもちろんだが、ヴィンセントも気が気ではなかった。
いつか両親諸共、ルイに殺される日が来る。
ルイから魔女の子だと差別される日が来る。
そう思っていた。
ルイがたまたま家に上がり込み、母親の姿を目にしたあの時、もうルイとの友情は終わったと思った。
だけど、ルイはずっと友達でいてくれた。
鈍感といえばそうだし、単純だし、素直だ。
ヴィンセントとギルベルトにないものを持っていた。
ただ、メアリと似ていた。
ルイをそんなふうに育てたのはたぶん父親ではなく、兄のハウエルだろう。
だから、メアリとハウエルの婚約を聞いた時、奇蹟が起きたと思った。
メアリはやっとあの母親から解放される。
だが――
ヴィンセントは生家へ向かうわけでもなく、異端審問室へ戻る。
彼は彼でやることがあるからだ。
――銀の指から零れ落ちた血から逃れることはできない。だとしても、この力は人殺しのためじゃないと、ヴィンセントは信じている。
それが、ギルベルトとの決別を意味していたとしても。
ルイは街道を北へと馬に乗って走った。
その間、検問が張られているということもなかった。
ヴィンセントは、異端審問室に通報があった時点でルイの元に情報を持ってきたのだろう。
馬を駆っている間、ルイは様々な想像を膨らませた。
ヴィンセントたちの母親が魔女だとして、どんな能力を持っているのか?
みんなで逃げるためには、メアリの母親が魔女であるということを、父に知らせなければならない。もしくは、その疑いがあると伝えなければならない。
あの父親のことだ、すぐにメアリを家から追い出して結婚をなかったことにするのではないだろうか?
そうしたら兄はどうするだろうか? ハウエルに限ってメアリを見捨てるとは思えない。だが、多少なりともショックを受けるはずだ。
何も伝えず、スムーズに屋敷からみんなを逃がす方法が思い浮かばない。
家族だけではない。使用人たちもいるのだ。
やはり、近隣住民に対し、一人で立ち向かうしかないのか?
いや、そんなことはない。
周りでは私刑が横行しているとはいえ、自分が生まれ育った町までそうだなんて考えたくない。
なだらかな坂を上りきると、視界が開ける。
遠くに王宮が見える。
ハウエルとメアリが婚礼の儀を行った教会の高い屋根が見える。
あと少しで家にたどり着く。
何一つ、いい案が浮かばないまま。
石畳の馬の蹄の音だけが虚しく響き渡る。
町にたどり着くと、誰もいなかった。
忽然と姿を消してしまったかのように。
夢の世界に迷い込んだのかと思ったが、ちゃんと馬が走る振動は伝わってくる。
町の中ほどまで進んで、歩調を緩める。
本当にみんな消えてしまったのか?
どの家も昼食時だというのに、窓は厚いカーテンで閉ざされたままだ。
しばらく行くと、ディートタルジェント家が見える。
自然と鼓動が高鳴る。
ヴィンセントたちの母親が魔女だと知ってしまった以上、幼い頃の恐怖が、古傷が開いたかのように、鈍い痛みで訴えてくる。
玄関先で馬から降り、慎重にポーチを登り、ノックに手をかける。
一瞬ためらうが、人命がかかっているんだと、己を奮い立たせる。
二回ほど繰り返し鳴らしたが、誰も出てこない。
――あの時と同じだった。
ドアノブも――鍵はかかっておらず、簡単に開いた。
自然と左手は、ソードホルダーの留め具をまさぐる。
そのまま開くと思ったドアだが、途中で何かが引っかかり、半開きの状態で止まった。
何に引っかかって止まったのか、半開きのドアの隙間から中を覗き込むと同時に、目が合ったルイは思わず後ろに後退し、剣を引き抜いた。
目が合ったのは死体だった。
目が完全に白濁している。
昔、よく話をした御者だと気づいたのは呼吸が落ち着いてからだ。
これはもう、近くの警備隊の待機所に駆け込むべきではないかと思った。
生唾を飲み込み、ルイは再びドアノブに手をかけ、今度は体重をかけ、その死体をずらし、屋敷内へと足を踏み入れた。
そこはかつて遊んだ場所とはまったく異なっていた。
始めに発見した御者の死体。そして女の使用人の半分にちぎれた上半身。下半身は二メートルほど離れた場所にあった。
詳しく検死している暇なんてなかった。
メアリが結婚する半年前に訪れた時に取り付けられていた正面の扉は開け放たれていた。
剣を片手に構えた状態で恐る恐る進む。
そこにも死体が一個、転がっていた。
通せんぼするように廊下に倒れた死体。仰向けで、チアノーゼの跡が見受けられる。窒息死、ということだろうか?
だが、首には索状痕はあるものの、紐とも、人の手とも思えない、見たことのない痕だった。
死体を跨ぐと、地下室へと続く階段が現れる。
ここから先は未知の領域だ。
階段の奥に扉が一枚。
まるで来るのを待っていたかのように開いている。
ルイは装備品の中からマッチを取り出し、壁紙にこすり付けて火を起こす。
それを廊下につけられた燭台の蝋燭に火を灯し、蝋燭を直に持ち、階段を下る。
人の気配はしなかった。
剣の先で扉を押して開くが、中から反応はない。
慎重に進んだところで、ルイの足は止まる。
まだ部屋には入っていなかったが、それは見えた。
宙に浮いた足。
ようやく異臭に気付く。
排泄物の臭い。
剣を手にした手の甲で鼻を押さえ、蝋燭の光を上に持ち上げる。
天井の梁で首を吊っていたのはヴィンセントたちの父親だった。
首吊りでは楽に死ねないと聞いていたが、その死に顔は安らかに見えた。
そして、その視線の先にベッドがあった。
部屋の半分を占めるベッド。
狭い部屋だった。
ベッドの上に、胸からナイフの柄を生やした老女が、やはり安らかな顔で死んでいた。
ルイは後ずさり、その場に崩れ落ちる。蝋燭は床を跳ね、転がって、火は消える。
何があったのかわからない。
上で死んでいた使用人たち。
首を吊った父親。
胸を刺されて死んだ母親。
町の誰かが殺した?
そこに父親が戻ってきて首を吊った?
いや、魔女だという母親が無抵抗で死んでいるのはおかしい。
とにかく、考えるのは後だ。
ルイは立ち上がり、踏み入った時とは逆に駆け足で屋敷を後にし、玄関を固く閉ざし、馬に乗って、ルーマルク邸へと急いだ。




