How can my brother be happy?
特に用意なんてない。
すでに聖職者に近いルイにとっての礼装は学院の制服だ。
髪も普段から刈っているので、今更、散髪もセットも必要としなかった。
迎えの馬車に乗り、揺られている最中でも、ルイは結婚式に参加するべきか否か、迷っていた。
貴族の長男が恋愛婚、という話はほとんど耳にしたことがない。
そもそも、ルイには興味がなかった。
ただ、兄は父親が決めた誰かと結婚させられるんだろうな、と。その相手がいい人であればいいなと考えたことはある。
だから、相手がメアリだと聞いて、心のどこかでは安心したのだ。
メアリの結婚相手も、兄のハウエルだと知って――。
でも、心のどこかは騒いでいる。
たぶん、結婚事実ではなく、隠されていたことに対してだ。
今まで、ルイがハウエルに対して隠し事をしていたことはある。ディートタルジェント家で何を見て驚いたのか、そのこともいまだ打ち明けてはいない。
メアリのことが好きだったということはハウエルどころか、誰にも伝えていない。
だけど、きっと兄は気づいていた。
幼馴染に淡い恋心を抱く弟。
馬車は、セクトリアとの国境検問所で一時停車する。
ほどなくして、馬車は再び走り出す。
「たまらないな」
額に手を当て、ルイはうつむき加減に呟く。
本当は「ふざけるな」と言いたいんだと思う。
しかし、ハウエルとの楽しい日々が、そんな怒りを癒していく。
結局のところ、ハウエルのことも、メアリのことも、ルイは等しく想っているのだ。
屋敷に着いたのは夕刻だったが、夏ということもあって外はまだ明るい。
昔からの使用人が出迎えてくれたが、仕事が立て込んでいるのだろう、すぐにその場を後にした。
父は会場となる王城近くの教会の方に出向いていて、帰りも遅くなるらしい。
そんなに重くはないからと言って自分で持ったままだったトランク一つ片手に、明後日の結婚式に向けて慌ただしく動き回る使用人たちの様子を、ただぼんやりと、玄関に立ったまま眺めていた。
こんなところにいては邪魔だと思い、ルイは自分の部屋に行こうと思ったが、あそこにはハウエルとの思い出が詰まっていて、行きたくなかった。
やっぱり、戻って来るべきじゃなかったんだ。
この慌ただしさに乗じて学院に戻ろう。
そう思った時、階段の上から、昔からいる使用人に呼ばれた。
「ルイおぼっちゃま」
白い髪を丁寧に束ね、低い位置でお団子にした髪型は全く変わらない。
腰はだいぶ曲がり、今ではルイの方が背が高い。
乳母が屋敷からいなくなってしばらくのあいだ、ルイは「ばあや、ばあや」とわけもなく呼んでくっついて歩いた。
彼女もそんなルイを嫌がる様子もなく、優しくしてくれた。
そんな彼女が、手すりに寄りかかり、ルイを手招きする。
「どうしたんだ?」
ルイはトランクを片手に二階へ上がる。
ばあやは、会うたびに小さくなる。
もう十分務めは果たしただろうに、今も他の使用人と変わらず、制服に身を包み、仕事をこなしている。
「おかえりなさいませ、ルイおぼっちゃま。今ハウエル様の借り着付けが済んだところですよ」
彼女はそう言って、廊下の奥へと進む。
動けずにいるルイに手招きする。
――逃げるにしても、ちゃんと伝えることを伝えなければ。
ゆっくりと進むばあやの後ろに付いて歩く。
すると、彼女は口元に手を当てて、上品に笑う。
「ルイぼっちゃまはよく、このばあやにくっついて歩いたものでしたよ。覚えてらっしゃいますか?」
「ああ、覚えてる。迷惑じゃなかったか?」
「そんなことあるわけないじゃないですか。わたしは子供が好きですからね。乳母に嫉妬したくらいですよ」
乳母が去った跡、ルイの世話はほぼほぼ彼女に引き継がれたようなものだった。
「ハウエル様はそんなことはなかったんですけど、ルイぼっちゃまはおねしょがなかなか治りませんでねぇ」
「そ、そうだったか?」
「そうですよぅ」
言われたところで、本当にルイには身に覚えがなかった。
やがて、一つの扉の前で、二人は足をとめる。
そこはかつて母親が使っていた部屋だ。
ここで、ハウエルとルイは生まれた。
そして、部屋の主である母親は死んだ。
主を失った部屋はずっと使われることなく、閉ざされたままだった。
今、その扉は開け放たれている。
大きな姿見の前に、白い新郎服に身を包んだ兄が立っていた。
手首に針山を刺した仕立て屋が、細かいところのチェックをしている。
「ハウエル様、ルイおぼっちゃんがお帰りになりましたよ」
私はいつまでも「おぼっちゃん」なのだなと、ルイは思わず苦笑してしまう。
ばあやは、自分の役目はここまで、とでもいうかのように、静かにその場を去る。
足音は部屋の絨毯が吸収していく。
「おかえり、ルイ」
大人になったハウエルが迎える。
背が高いのも、青い瞳も父親似。
ただ、目元だけは母親に似ている。
「ただいま、兄さん」
まだ青臭さの残ったルイは答える。
背が低いのと、スミレ色の瞳は母親似。
ただ、目元だけは父親似。
周りから似ていない兄弟だと言われた。
その差は、大人になってますます広がった。
だけど、大事な兄弟であることには変わりない。
ハウエルが普段着に着替え終わったところで夕食となった。
そして、食べ終えた頃に父親が帰宅した。
相変わらず、ルイに対し学院での様子を尋ね、ちゃんと挙式用に制服を持ってきたのか? など小言が多かった。
「父さん、あれから体調のほうは?」
食後、二人はハウエルの部屋にいた。
誘ったのはハウエルのほうだ。
ルイの問いに対し、ハウエルは少し考え込むように首をかしげる。
「年末みたいに寝込むことはないよ。ただ、ずっと立っているのは辛いみたいだ。医者からは心臓が弱ってきているのかもしれないって」
「もっと大きい病院で見てもらった方がいいんじゃないか? 近くに住んでる主治医に診てもらってるだけなんだろ?」
「うん、だけど……そうだね、僕の結婚式が終わったら父さんは全部お前に任せるって」
「大臣を辞職するのか?」
「ああ、僕が今父さんの補佐をやっているのだって、僕が父さんの役目を引き継ぐためだから」
椅子に座ったハウエルは言う。
ルイはベッドに腰掛けて話を聞いている。
意味深な沈黙。
それを破ったのはルイのほうからだった。
「……いつから?」
ルイの言葉に、ハウエルは顔を上げる。一方のルイは手元に視線を落としたまま。
「婚約したの。いきなり結婚っていうことはないだろ?」
「……ルイが学院に入ってすぐだった」
つまり、約一年の婚約期間を経ての結婚ということだ。
「婚約したなんて、手紙では一言も言ってなかったじゃないか」
ルイは軽く笑いを含めながら言う。
「手紙で伝えることじゃないと思ったんだ。ちゃんと、会って伝えようと思ってたんだ」
「でもさ、年末に戻ってきた時も、何も言わなかったじゃないか」
「それはタイミングが――」
「俺はもう、子供じゃない!」
俯いたまま、ルイは吠える。そして顔を上げ、ハウエルを見据える。
「もう兄さんに気を使ってもらわなくても大丈夫なんだよ。それとも、兄さんには俺がまだ子供に見えるか? 兄さんが買ってもらったおもちゃを見て、欲しいって言うように見えるか?」
「そんなわけないだろ」
ハウエルはいたって冷静に対応しようとするが、声のトーンは沈んでいる。
「じゃあなんで隠してたんだ? 今後、誰とも結婚も恋も、子供さえ残せない俺のことを気遣ってか?」
「そうだって言ったら?」
ハウエルはルイから視線を外しながら呟く。「お前はこの先、ずっと独り身だ。ルーマルクの長男以外は聖職者にさせられる。それを知ってから、ずっと可哀想だと思ってた」
「……いつから?」
初めて知らされた事実に、ルイの目は若干見開かれる。
「お前が十歳の時にはもう、知ってた。学校に通わされてたのも、学院に進むための前準備だって、何もかも知ってた。お前が、……お前がメアリのこと好きだってことも、何もかも知ってた!」
ハウエルは声を張り上げて、椅子から立ち上がる。
「そうだよ、僕は全部知ってた。知っていたけどおとぎ話の世界に夢中にさせることで、ルイの『なぜ』に蓋をしてきた。酷い兄だろ。しかも、メアリはお前にとって初恋の相手だろ。だから、申し訳ないと思って……」
「それ、メアリの前でも言えるか?」
ハウエルを見上げて、ルイは詰問する。「メアリに対しても、メアリと結婚するのはルイに対して申し訳ないって言えるのか!」
ルイは立ち上がり、ハウエルの肩に手をかける。
「そうだよ、俺はメアリのことが好きだった。だけど、もう結婚できないから。でも、結婚相手が兄さんで安心したんだよ。兄さんならメアリを大事にしてくれる。彼女の不安もすべて受け止められるって、なのになんで謝るんだ!」
「兄として、弟の幸せを願うのは当然のことだろ! お前には母親がいなくて、使うものもほとんど僕のお下がりで。そのうえ聖職者にさせられて」
「……兄さんは、今まで俺のこと、可哀想だと思ってたのか?」
「当然じゃないか!」
始めは自分から母親を奪った原因だと思って好きになれなかった。
でも初めてルイが口にした言葉は、「マーマ」でも「パパ」でもなく、「ハウ」だった。
ルイにしてみれば一番良く聞く単語を口にしただけかもしれない。
だけど、そんなことは関係なかった。
ハウエルにとって、とてもうれしいことだった。
母親と同じ瞳の弟、母親の分身。
「母さんのことだけじゃない。父さんだってお前とは距離をとってた。なんで同じ息子でこうも扱いが違うんだろうってずっと思ってた!」
「だったら、」負けじとルイも食らいつく。「俺は兄さんの方が可哀想だと思ってたよ。自由に外に出してもらえなくて、朝から晩まで勉強で、そのあいだ俺は学校とか外で友達作って、遊んで。兄さんが思ってるほど、不幸じゃなかった。だから――」
ハウエルがいた、ギルベルトもヴィンセントもみんないた。
寂しいなんて、自分が不幸だなんて思わなかった。
「兄さんはメアリと結婚するべきなんだよ。兄さんだってメアリのこと好きだったんだろ!」
ルイから突き付けられた言葉を、ハウエルは跳ね除けることができなかった。
その言葉は事実だったからだ。
ルイに連れられてやってきた少女。
歳は八歳も違うけれど、ハウエルにとって一番歳が近い女の子。
ルイと一緒になって、物語の世界に夢中になる少女に恋をした。
この恋は実らない。
ずっとそう信じていた。諦めていた。
それなのに。
「だけど、ルイのこと考えると」
「俺のことはもう考えるな。メアリと幸せになってくれるなら、俺はそれだけで満足だ。
二人の間に子供が生まれて、兄さんかメアリ、どっちかわからないけど、昔俺にしてくれたようにいろんな物語、聞かせてやるんだろ。そんな兄さんたちの生活を俺が騎士になって守る。ハッピーエンドじゃないか。
俺を可愛そうって思うなら、俺が死にたくなるくらいの幸せ見せつけろ! 弟の影に脅える生活なんてメアリにさせるな! 二人で幸せになってくれ。そうでないと、俺も幸せになれないんだ。頼むから、幸せになってくれ」
好きだったなら、幸せにしてほしい。
ルイはハウエルに対し、深く頭を垂れる。
すべての罪の告白は終わった。
これからは、新しい道を進むのだ。
弟は一人で歩き出す。
兄は二人で歩き出す。
弟の見守る二人は、希望であり、未来だった。




