結末と始まり
*
初夏の日差しの中、近づく私に気が付き、彼女は振り返る。
その顔は陽の光に隠れてよく見えない。
だが、雰囲気で再会を喜んでいるように思えた。
小走りに彼女が駆け寄ってくる。
私は照れくさくて、歩みを緩めてしまう。
揺れるミルクティのような甘い色の長い髪。木々の新緑の中に浮かび上がる白いワンピース。
まるで一枚の絵画のような。
もう少しで彼女の手をつかめる。だが、キャンバスの後ろから突き立てられるナイフが再開の抱擁を否定する。
彼女の胸から突きだした銀色の刃。引き抜かれると同時に白いワンピースを冒す血の赤。
崩れ落ちるその体を抱えようと身を乗り出すが、足が、一歩が踏み出せない。
見れば、目の前の彼女が私の足にすがっている。
やはり顔は見えない。
あふれ出る血と共に、口からこぼれ出る言葉。
「どうして助けてくれないの?」
どっと、汗が噴き出す。
同時に酸素を求めて荒い呼吸を繰り返す。
大丈夫だ、ここは水中じゃない。酸素ならいくらでもあると、ルイは胸に手をあて、身体を慰める。
「なんなら睡眠剤でも出してあげようか?」
ベッドの横、サイドテーブルの上にヤブ医者が座っていた。
「睡眠剤なら飲んで、気が付いたらもう朝だよ」
言いながら、目は手元のつながった金属の輪に注がれている。
パズルリングと言うらしい。
いくら重症でも、意識があって身体を動かせないのは苦痛だろうと、ヤブ医者が用意したものだが、いっこうに外れる気配がない。
力技で外そうとするが、力を籠めようとすると、腹の傷が痛んだ。
怪我は腹部だけではない。
全身打撲、左肩の骨もやられている。その他、細かい傷が全身のいたるところに存在している。
両足が無事なのは不幸中の幸いだと思うが、こうも横になりっぱなしだと、いざ立ち上がる時には相当筋力が落ちているだろう。
日中、宙で脚を動かしているが、腹部の怪我はかなり深いらしく、脚の動きを止めるを得ないほどの痛みが腹に走ることもある。
室内をオレンジ色の光が照らしている。まだ夜明け前ということか。
ヤブ医者の手の中で、パズルリングは簡単に二つに分かれる。
「ほら、力なんか入れなくても外れるでしょ?」
そう言って、二つに分かれた輪を胸元に置く。
「手品、じゃ、ないのか?」
舌もうまく回らない。
だが、声を出せる程度には、喉は元に戻っていた。
「手品といえば手品だけど、タネはあるでしょ。そのタネを探す遊びだよ、これは」
言って、ヤブ医者はテーブルから立ち上がる。「うなされるのが嫌なら睡眠薬出すけど?」
「いや……」
これはきっと乗り越えなければならないことなのだ。
夢を見せているのは彼女ではない、自分自身だ。
「いら、ない」
「やけくそ我慢なんてされると、医者でも怪我を見落としちゃうんだけど」
それを言うなら、「やせ我慢」じゃないのか? まあ、似たようなものか。
「そもそも、お前、医者、なのか?」
「うーん、一応は医者かな?」
腕を組み、首をかしげながら言う。
ルイが寝かされている病室。
四人部屋だが、他の三つのベッドは、ルイが目覚めてから二週間近く経つが、誰かが寝ていたことはない。
目の前のヤブ医者が昼寝に使っていたが。
日中も、部屋の外は静かで、普通の病院だとは思えなかった。
「ここは、隔離施設、とか……」
「至極まっとうな普通の病院だよ。ただ、すこぶる人気がないんだ」
ヤブ医者は照れ笑いを浮かべる。
人気がない、それは詰まる所、ヤブ。腕が悪いということなんじゃないか?
「私は、また戦える、ようになる……のか?」
「まだ戦いたいの?」
ヤブ医者はさっきまで座っていたサイドテーブルの上から一枚のプレートを摘まみ上げる。
銀色のプレート、元々首元に当てていたもので、そこには「Ⅷ」と刻まれている。
「教会の、騎士団だっけ? そこに戻りたいの?」
ヤブ医者の問いに、言葉が詰まる。
たぶん、階段騎士には戻れない。
自分の身体がこんなふうになったのだって、離反者として追われた末路だろう。
ただ、メアリ――夢に出てくる私の未練。それに決着は付けなければならない。
ヤブ医者は、軽くため息をついて微笑んでみせる。
「部外者のボクには関係のないことか。よその国のことだもん。ただ、前向きで良かったよ。病院で自殺なんてされたら、人殺し病院ってあだ名が現実になっちゃうもん」
「人、殺し?」
「そ、この病院では人体実験が日常茶飯事で、生きて外には出られないって言われてるんだ」
初めて聞いた事実に、ルイは目をひそめる。
まさか、自分も人体実験されたとか?
ヤブ医者はルイの想像に気が付き、否定するように手を振る「いやー、君の場合は人体実験の経験が役立ったって感じで。最高傑作ですって今すぐ世に出して広めたいくらいだよ」
「やめろ。……経験?」
ヤブ医者はいたずらがばれてしまった子供のように苦笑いを浮かべる。実際、この医者は二十歳程度だろう。
「幼い頃って、右も左もわからないじゃん。それでまあ、いろいろとやっちゃったんだよね。賢者にとって人体実験は当たり前ってかんじだったし。でも、それまでやってきたこと全部お父さんに話したら思いっきり怒られちゃってさ。やっぱりダメだよねって」
賢者による人体実験はよく聞くが、何歳から人体実験をやっていたんだ?
「謝ろうにも、もう死んじゃってるんだもん。謝れないから、せめて実験で得たデータを今生きてる人のために使おうって病院を開設したんだけど、全く人が寄りつかないんだなあ、これが。ボクってこんなに悪名高かったんだあって、ある意味感動しちゃった」
発想がポジティブすぎるだろ。
自分もこれくらいポジティブに――いや、無理だろう。
ヤブ医者は話を続ける。
「それで、鞄片手に貧民の多い、国の端っこの方を回って、無料で治療とかしてたんだけど、そこに君が担ぎ込まれてきたんだよね」
担ぎ込まれたのは私だけ。
一緒にこの、賢者の国クレモネスに亡命しようとした片割れは――本来、逃がすべき相手は、この国にたどり着けなかった。
助けたかった相手は助からず、どうでもいい自分だけが助かってしまった。
「まあ、今はゆっくり休みなよ。さっきも言ったけど、この病院で自殺するのだけはやめてね。はっきり言ってボクが凹むから。どんなに手を尽くしたところで人間は簡単に死ぬ。その節理は捻じ曲げられない。賢者はその節理を捻じ曲げる力を持っているけど、人の心まで変えるほどの力はないからね」
そう言って、話している最中、手で弄んでいた階段騎士の「第八階位」を表すプレートをサイドテーブルの上に戻す。
「退院したら、それはもうボクの手を離れるってことだから、どこで首を吊ろうが飛び降りようが、入水しようが、知ったことではない。でも、この病院にいる間だけは生きてね」
ヤブ医者は始終笑顔で語って、部屋を後にする。
――生きてね。
セクトリアでは自殺は罪だ。
だが、自殺してしまった人間をどうやって裁くことができるだろう?
長い昏睡から目覚めた時、生を実感した。
疑問が生じたのはその後だ。
なぜ、私だけが生きているのか?
いや、彼女もどこか別の病院に運ばれて治療を――
その最期を思い出し、自然と涙と嗚咽がこぼれる。
布団を引き寄せ、顔に押し当て、悲しみを窒息させようとするが、悲しみは死なない。
生きるための逃亡。
一緒に生きるための逃走。
結果は、散々だ。
私は生き残ってしまった。
最愛は、私の手からすり抜けて掻き消えた。
この喪失を埋める感情が、今の私にはまだない。
復讐心だとわかっていても。
それはまだ生まれない。
生むためにはもっと悲しみと怒りが必要だ。