薄氷の上の日常
「いいかげんにしろよ!」
ギルベルトの声が、ルーマルク家の庭に響く。
その日も、ルイは必至に木の棒で素振りをしたり、聖騎士についての話をヴィンセントとしていた。
ルイの中で聖騎士に対する熱が高まるのと同時期、ギルベルトの心は冷めていっていた。
その時も、ギルベルトが話に参加しないことはいつものことだと、ヴィンセントと話をしていたのだが、突然の大声に、ルイとヴィンセントは肩を震わせた。
ギルベルトは芝生から勢いよく立ち上がると、ルイに肉薄する。
「な、なんだよ」
ルイはシドロモドロでギルベルトを見上げる。
対するギルベルトはルイを見下すように見つめ、一言呟く。
「聖騎士は魔女に勝てないよ」
「なっ!」
ギルベルトの冷めた瞳。その口から発せられた言葉に、ルイはカッとなり立ち上がると、ギルベルトと顔を突き合わせる。
「なんでそんなことわかるんだよ」
「……わかるもんは、わかるんだよ」
ルイの問いに対し、ギルベルトは一瞬言葉に詰まるが、ルイに負けじと言い返す。「魔女は物語に出てくる怪物なんかとは違う。違うってわかるからみんな恐れてるんだよ」
魔女騒動で、村が一つ焼かれたと、風の噂で耳にしていた。
「魔女なんて火あぶりで死ぬんだろ? なのに聖騎士が負けるなんておかしいじゃないか!」
「火あぶりになるのは間抜けな魔女だけだよ。異端審問官につかまったのろまな魔女だけ。そうじゃなく、本当の魔女は捕まえられない、聖騎士だって剣聖だって!」
「ギルっ」
二人の様子を見守るに徹していたヴィンセントだったが、ギルベルトの肩に手をかけて口喧嘩を止めさせようとするが、一度ついた火はそう簡単には消えない。
ギルベルトはヴィンセントの手を払いのける。
「魔女はおっかないんだ。それもわかりもしないで、聖騎士になるとか、バッカじゃねぇの?」
その言葉が、ルイの怒髪天を衝く。
ギルベルトに向かって飛びかかろうとするルイをヴィンセントが止める。
「ルイ、落ち着いて」
その声はルイの耳に届かない。
「いいか、簡単にバカって言うやつがバカなんだぞ!」
「そういう小賢しいこと言うやつのほうがバカなんだよ! バーカ!」
「魔女が怖いだって? 聖騎士が魔女を怖がるもんか!」
ギルベルトはルイに向かって、バカを連呼し、最後には尻を叩いて見せて、自分の家へと駆けていってしまった。
「あいつの方がよっぽどバカじゃん、……ヴィンス?」
ふと隣を見ると、普段あまり見せない悲しそうな表情を浮かべるヴィンセントがいた。
「どうかしたの?」
「う、ううん。ぼくも、ギルってバカだなあって」
「っていうか、家でもあんなかんじなの?」
「あんな感じって?」
「なんかギル、最近イライラしてない?」
ルイには、「自分が聖騎士の話をし始めてから」という自覚はなかったが、ギルベルトの様子がおかしいということはわかっていた。
「うーん、ぼくにもよくわからないや」
ヴィンセントはそう言って、いつものように柔らかい笑みを浮かべてみせる。
「ちょっと、ギルのことが気になるから、ぼくも帰るね」
「送っていかなくても大丈夫?」
魔女騒動が増え、子供が一人で出歩くことは禁じられるようになっていた。
学校も安全じゃないと、学校に来なくなった子供もいた。教師はそこまで詳しくは語らなかったが、噂で聞こえてくるのだ。
「走って帰ればすぐだから大丈夫。じゃ、また明日。学校でね」
「うん」
駆け出したヴィンセントに向かってルイは手を振る。
一人庭に取り残されたルイはしばらくその場に呆然と立ち尽くす。
まだ陽は高い。
ハウエルもまだ家庭教師と授業中。
数回、素振りをするが、すぐに飽きて、芝生の上に寝転がり、流れる雲をただボーっと眺めていた。
「やっぱり、」
――謝りに行こう。
ギルベルトとの喧嘩は珍しいことではなかった。
だが、こんなにも心が落ち着かないのは、ルイにとって初めてのことだった。
一人で敷地外に出ることは固く禁じられていた。
だから、謝ったらすぐに戻ってくる。
そう心に言い聞かせ、周りに使用人たちの姿がないのを確認し、ギルベルトの家へと向かった。
双子達の家の間には、家が二軒並んでいるだけだが、ルイの家よろしく、庭が広かったりで、走っても五分程度の距離があった。
その程度の距離を、馬車で送り迎えするというのだから、御者も大変だなあとルイも双子も常々(つねづね)思っていた。
いつもは夕食の買い物から戻ってくる馬車や人々で行きかう道は閑散としている。
外に出ているのは専ら使用人たちだ。
主人から言われた仕事を黙々(もくもく)とこなしている。
空は晴れているのに、なんだか陰鬱な気配が漂っている。
人の声が聞こえないのだ。
確かに人はいるのに、誰もが口を閉ざし、目線は下に向けられている。
まるで、夢の中の世界だとルイは思った。
夢から目覚めて、「あの場所は知っている場所だったけど、まるで違う場所」そんな感じ。
やがて、ディートタルジェント家に到着する。
ノックを鳴らすが、誰かが内側から扉を開けてくれるような気配がまったくなかった。
ルイは扉から離れ、リビングの窓から内側を見ようとするが、身長が足りなくて叶わなかった。ついでに、厩舎を見た。
栗毛の馬はちゃんと二匹、厩舎にいる。
双子の父親は、今は仕事に出ている。
もしかして双子はそろって別の家に遊びに行った?
だが、メアリは家にいるはずだ。
メアリの外での遊び相手と言ったら、ルイとハウエルくらいだと本人がそう言っていた。
馬がいるということは、別の馬車でどこかに出かけたとか? だとしても使用人もいないなんておかしい。
ルイは再び黒い門の前に立ち、背伸びをしてノックを鳴らす。
やはり返事はない。
扉に耳を当てて中の様子を覗ってみるが、何も聞こえない。
ドアノブをひねると、扉は少しだけ「ギィ」と鳴いて開いた。
鍵もかかっていない。
心配と好奇心が交差する。
「すみませーん!」
ルイは思い切って呼びかけるが、沈黙は続く。
ルイはディートタルジェントの屋敷について詳しく知らなかった。増改築を繰り返した屋敷。家の中にまで玄関のような厳重な扉があったり、部屋と部屋の間に一メートル以上の壁で隠された隙間があったり。面の階段から三階に当たる部分は、裏の階段からは四階の部分にあたったり。
歪んでいるのだ。
もちろん、本当に床が傾いでいたりする部屋も存在する。
それ以前に、この屋敷は、屋敷として歪んでいるのだ。普通の屋敷のように声が奥まですんなり届くわけでもない。
何も知らないルイは「お邪魔します」と、小さく呟き、屋敷に踏み入る。
少し様子を見るだけ。
もし、家の人が倒れてたりしたら大変だし。
その足取りはゆっくりだ。
ワックスのはがれた玄関の床はギィギィと鳴った。入ってすぐ、右手にあるリビングの扉は開け放たれていて、中を覗き込むが誰もいない。
ただ、誰かがいた気配はある。
次は二階、と思った時だ。何か、ガラスのカップか何かが割れる音が玄関から入って正面の、真っ暗な廊下の奥から聞こえてきた。
ルイの鼓動は高鳴る。
本当は、引き返したほうがいいんじゃないかと感じ始めていた。
それでも、誰かいるのかと、真っ暗な廊下を恐る恐る進む。
微かだが、ギルベルトかヴィンセント、どちらの声か聞き分けることができないが、言い争うような声が聞こえる。
闇の向こうに、光が見える。どうやら窓があるようだ。
そして、地下に続く階段の手すりが見えた。
地下室があること自体、ルイは知らなかった。
ルイの屋敷にも地下室はある。物置として使われているだけだが、あそこに入ると中の声も、外の声も聞こえなくなるから一人では入るなと父親や使用人から注意されていた。
――みんな地下にいるからノックが聞こえなかったんだ。でも、どうしてみんな地下にいるの?
と、バタン! という突然の衝撃音にルイは足を止める。
みんなの騒ぎ声が大きくなる。同時に、誰かが階段を駆け上ってくる荒々しい足音。
ルイは、背を廊下の壁につけて肩で息をする。
恐怖で動けない。
荒い息を繰り返し、地下から駆け上がってきたソレを見た。一瞬だった。
逆光でよく見えなかったが、はっきり言って化物だった。
枯れ木のような手足、敗れたクッションからあふれた綿のような髪。
ソレは服を着ていた。たぶん寝間着だ。
「キェエエーーーーーーーーーーーーェエッ!」
ソレは両手を突きだし、ルイへと迫る。
ルイは一目散に逃げた。
開けっ放しの玄関扉をすり抜け、鉢植えの一つに躓いて転びそうになるが、両手をついて踏ん張る。
脇目も振らずに走った。泣きながら走った。
家の門をくぐると同時に嗚咽が漏れる。
それでも安心はできなかった。玄関に走り込み、ちょうど兄の授業が終わったのだろう、家庭教師とハウエルが玄関で普通に雑談していた。
突然駆け込んできたルイの様子に、二人とも目を見開く。
若い男の家庭教師は、その場に崩れ落ちそうになるルイを抱きかかえ、声をかけてくるが、安心感であふれ出た悲鳴と嗚咽で、意味のある言葉を何一つ口に出すことはできなかった。
ソックスが、失禁で濡れていた。




