0.2 始まりの彼の話
この世界は腐っている。少年はそう思って足を抱え座り込む。暗い部屋の中で一人、誰にも見つからないように、息をひそめてひっそりと座っていた。
彼は異端児だった。彼の住んでいる村では彼を忌み子扱いしていた。しかし幼かった頃はその姿に罪悪感を持ってしまい、村人たちは食事だけを与えていた。暗い倉庫の中で一人、味気のない食事をとるのだ。孤独感に包まれながら、彼は時を過ごしていた。
彼は全てを記憶する。見たもの、聞いたもの、触れたもの、全てを。瞬間記憶能力と呼ばれるものを彼は持っていた。それ以外ではない。彼は夢の中を旅して、他人のことを知ることができるのだ。他人の夢にはさすがに出ようとは思わないが、彼の中では暗い小さな世界で生きていくための唯一の情報源であり、楽しみの一つだった。
「…四大元素をもとにした、魔術の実験」
呟く。昨日見た夢の人間は研究者のようで、頭の中をぐるぐると回っていた。その人は随分と頭の回転が速く、多くのことを考えて過ごしているのだろう。
この世界には魔力と呼ばれるものが存在しているが、持っている者が少なく、その魔力を使う魔法を扱うことができる者はそれ以下である。研究者はその数少ないものの一人らしい。魔術についての記憶がその人物の夢の中には数多く存在していて、それがひどく彼の探求心をくすぶった。
彼は自分には魔力があるのかも知らない。自身がこの村では異端児と呼ばれるものであることだけだ。深い青色の目を閉じる。夢を見よう。そう、
「“はじめましょう”」
どぷりと彼は暗闇の中に堕ちていった。
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図書館と同じような構造でたくさんの、本棚が設置されている。高く、隙間なく本が入っている。――といっても彼は実際に図書館を見たことがない。見たことがあるのは本だけだった。この場所はある人物の記憶を基にして作られた、彼のための、生き物がいる数以上に存在する図書館だ。
ふわりと、分厚い本が浮遊する。目の前に来て、パラパラとページがめくられていく。また一冊、本棚の中から抜けてきて彼の前まで浮遊してくる。また一冊、一冊。数冊の本は彼の周りを囲むように、ページをめくり浮いている。――それらの本は言語が違っていても全て同じ系統の本だった。魔術に関するもの。彼が今一番、知識として求めているものだ。
ここは彼の夢の中だった。眠るときに見る夢、ではない。彼の奥底にある記憶の集まりだ。彼は見たもの、聞いたもの、触れたものをそのまま記憶することが可能で、それを夢の中で本として多く記憶しているのである。そして、他者の夢の中に入った出来事もすべて覚えている。その人物の経歴も、全て彼の中には残っている。
「…これは、違うのかな。まあいいや」
一冊の本に手をかざす。それ以外の本は浮遊していたのがウソだったかのように、乱雑に床に散らばった。浮いている一冊を持つ。十に満たない子供には大きく見えるが、ここは夢の中だ。全て彼の記憶の中にあるのだから、重みを感じるのは彼次第だ。
座り込んで読み始める。深い青色の光を纏った輪が彼の周りを舞う。一枚捲っていくうちに一つの輪がはじけて消え、またふわりと彼の周りを舞う。それが幾重にも繰り返された。
――この夢は完全に、彼の城となっているのだ。
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目を開けたとき、絶望しか感じない。暗闇の中で自分は夢の世界だけを求めている。
彼はそっと息を吐く。逃げたい、ここから出たい。その思いだけで今を生きている。ここを出たらどうしようか、夢物語だけを考えて生きている。今出ていけば完全に餓死してしまうのだろうと理解している。幼いながら、様々な人間の記憶と夢を覗いているからか聡い。
扉の隙間から光が漏れた。暗がりに慣れた目が突然の光に驚き目を細めてしまう。大きな人影が見えて、絶望感が襲う。大柄な男が彼を見下ろす。影で男の表情は見えない。
「おい、飯だ」
「…はい、あ、りがとうございます」
食わしてやってるだけありがたいと思え、そう言ってパンと水を置いて出て行った。
重く扉が閉まる。また暗闇だ。ああ、胸糞悪い。彼はそう思って、ひざを抱えた。
「…ねむりたい」
そうすれば、全てから逃げられる術を考えられるのに、全てを知る術を得られるのに。目を閉じても睡魔は一向に訪れてはくれなかった。現実は非情だ。泣きたくなるほどの、無慈悲。彼は幸福などないと、一人呟いた。
『そうだねえ。わたくしもできればあなたの助けになりたいけどねえ』
どこからか、声が聞こえた。先ほど来た男が置いて言ったランタンが薄く部屋を明るくさせているだけで、自分以外の人間はいない。突然のことに頭の中での処理が追いつけていない。しかし自分以外いない部屋で笑い声が響く。
冷静さを取り戻すように彼は息を吸って、誰、とだけ言葉を発した。明るい笑い声が反響する。同じ人間なのだろうが、1つの音に複数の音が重なっているようだ。
『わたしは誰にもなれない存在さ。ああ、君にはわからないだろうね、そうだろう、そうだろう。そうだね、言ってしまえば体を求める亡霊っていうことでいいさ』
「…亡霊?だから見えないの?」
『うむ、そうだねえ。私は君を探していたんだよ、君みたいな人材を』
姿の見えない亡霊の言っていることが理解できない。先のことが見えているかのように話しを進めていることが、ひどく気味が悪かった。笑い声が聞こえる、亡霊の笑い声。
自分を守るかのように膝を抱える。そして、まるで見えているかのようにまっすぐ、一点を見つめる。深い青い目がランタンの光に照らされて光る。長く、息を吐く音が聞こえた。
『まあ、いいさ。近日中に一人君に会いに来るよ。その時にはここの村人は全滅しているだろうね』
「それ、ほんとう?」
亡霊の言葉に反応する。亡霊の笑い声が聞こえた後に、『私のシナリオではね』と答えた。言っている意味は解らなかったが、この場所から出ることができる術を亡霊は知っているのか。でも、と彼は逡巡する。その言い方ではじきにこの村は全滅してしまうということではないか? その時、自分はどうすればいいのだろうか。どうやって、生き抜けばいいのだろうか。助けを持たない自分は、生きているのさえ難しいのではないのか。
先ほどの笑い声よりも、優しい笑い声が聞こえた。再起程とは違うかのような、優しく落ち着かせる笑い方だった。
『ああ。そのためにはやるべきことがあってね』
「やるべきこと?」
そうさ! 明るい声で亡霊が言う。きっと笑顔になっているのだろう。そう彼は思った。人の笑顔、そう考えて、どうして自分は亡霊の姿が見えないのだろうと思った。人の笑顔なんて、数年も見ていない。ああ、いなくなる前の、悲しそうな表情で笑う母親の顔が脳裏に浮かんだ。それを追い出そうとして頭を振る。嫌な記憶だ。
亡霊は小さく少年を呼んだ。彼は頭を振って続きを促す。
『うふふ、少しばかり楽しい時間さ、わたくしにとっては。崩壊する世界を見るほど面白いものはないさ!』
楽しそうに、愉快に笑う。亡霊の言っていることは何一つ理解できなかった。そして、自身の問いには返事をしなかった。膝を抱えて、目を閉じた。寝るのかい。そう問われた気がしたが、もう彼は黒い意識の中に沈んでいた。だから彼は聞いていなかった。
『すべて食ってしまえば一緒なんだよ』
嘲るような声など、聞こえてはいなかった。
目を開けた。いつまで寝ていたのだろうか。体が痛んでいて仕方がない。彼は少しだけ背筋を伸ばす。――外から悲鳴が聞こえた。性別がわからないほどの大きな、高い悲鳴。人間とはああいう大きな声を出せるのだなあ、と感心してしまうくらいだ。他人事のように、そう思った。
悲鳴は止まない。人があわてて走る音、何かが倒れる音、壊れる音。全てと入り混じっていて、耳に入ってくる音が気持ち悪いくらいだった。小さく丸くなり耳を塞ぐ。記憶に残していたくなかった。こんなもの。自分の前から消えていく、母親の最後の悲しげな顔を思い出して彼は泣きたくなった。自分に、泣く資格など与えられていないのに。
眠りたい、夢を見たい。本に埋もれた世界に入りたいとこれほど願ったことはない。現実を見たくなかった、この現実を記憶したくなかった。それほどまでに、この悲鳴たちは彼の心を深くえぐり、頭に刻み込ませようとしてくる。
いつの間にか喧騒は聞こえなくなり、代わりに古びた木の扉が嫌に高い音を立てて開いた。扉の隙間から光が差し込み、目がちかちかとする。白く、細い足首が視界に入った。いつものあの男ではない。これは、女性だろうか。彼は手を耳から離し、扉に立つ姿を見た。
「やあ、少年。初めまして、そしておまたせした」
小麦色の髪にザクロのように――血のように赤い目の女性が立っていた。口端を釣り上げて髪を一つに束ねて彼に近づく。女性は彼を見下ろして目を見開く。まるで彼のことを幼い壮年だということを聞いていなかったかのように。彼女は彼を見ながら首を傾けた。
「おやおや、聞いてなかったの?仕方がない、君に拒否権なんてないようなものだし」
「…殺すの?」
その問いを言う声はとても小さかった。彼女は瞠目してから笑った。あの亡霊の声とは違う。違うのだが、と彼は思って女性を見る。人の笑顔を見たのは、久しぶりだ。女性の手が彼の頭へと伸び優しくなでる。暖かい温度に、涙が出そうだった。
彼は唇をかみしめて俯く。泣いてはいけないと自分を戒める。笑い声が聞こえた。女性の方からだ。
「君は殺さないさ。もう、この世界に未練なんてないんだろう?まあ、面白いと言えばこの世界は面白いのだけれどもね」
女性は声の調子を一切変えずに、楽しげに言葉を紡ぐ。不快にもならない、気味が悪くもならない。どうしてだろう、と彼は思う。人とかかわるのに慣れていないからか。
女性はしゃがんで彼と目を合わせようとする。赤色が奥の方で黄色になっているのが、やけにきれいで、彼は一瞬言葉を忘れてしまった。
「詳細を話されてないって感じだね。別にこちらにとっては関係ないのだけれど。ねえ、君はここから出たい?」
「…で、たい」
「ふふふ、正直で大変よろしい。…それよりも、君は不思議だと思わないのかい?わたしが…あの人がこうやって君を助けようとするのか、ここから出そうとするのか。――世界といっているのか」
年齢の割に君は聡明だからね。彼女は微笑した。赤い目が細められる。不快感を覚えない、不思議とも感じない。そんな自分の方に疑問を抱く。思考をめぐらす。彼のその様子に彼女は考えなくていいさ、と笑った。矛盾しているのではないか。彼は彼女と目を合わせる。ザクロの目が爛々と輝いているのを見て、きれいだな、と素直に思う。綺麗なものは他人の夢の中でしか見られないモノだったから。
彼は女性の方を見て決心する。ここから出たい、出してくれ、なんでもする。こんな忌々しい場所から出たい、外が見たい。
声に出そうとするたびのどが震えるように、言葉まで震えてきた。女性は何も言わない。ゆっくりと彼の頭を撫でるだけだ。そして静かに言葉を紡ぐ。
「私の名前はハイネ。本当の名前など憶えてもいないけど、あの方が付けてくれた大切な名前。君はまだ幼いから、成長するまで違う世界に行ってもらうけど、時期が来たら迎えに行くよ。大丈夫、その時には君はその名前を捨てることになるし、ここを出ればこの村など消えてなくなる」
彼女は柔らかい微笑みを浮かべてそう言った。声の調子は変わらない。静かに、感情を載せない声は、不思議と聞きやすい。まるで、魔法のようだ。
彼女の言っている言葉を噛み砕いて理解しようとする。彼女は彼のことを聡明だと言ったが、それは全て夢の中で学んだことだ。聡明、とは異なるのではないかと彼は思った。
ランタンの火が揺れた。彼女が彼へ手を伸ばす。
「わたしたちは、君を歓迎しよう。さあ行こうか、こんな消えてしまう世界など捨てて」
彼は何一つためらわずにその手を取った。瞬間、白い光に包まれた。それは異様なほど暖かいもので、懐かしいような感覚に涙が出そうだった。