ジャック・オー・ゴースト 1
薄暗い光で満たされた空を眺め、ひんやりとした風を身に受ける。夏なのに風が涼しい。まだ朝の五時だからね。
昨夜、幽霊に関する情報を集めていたはずなんだけど、いつの間にかオンラインゲームに熱中してしまい、そのまま朝になってしまったようです。窓の外からは鳥のさえずりが聞こえてくる。おかしいよな。
七海にMAKEしてから寝るか。徹夜において最大の難関たる五時の壁を越えるのはまずい。元の生活に戻れなくなる可能性だってある。
これから深夜のゲームは控えよう、なんていうのは、たいていその場限りの反省なんだけど。
『今から寝ます』と送信した。
返信はすぐに来た。
『私も寝ます』
起きてたのかよ。思わず声に出して言ってしまった。七海がこんな時間まで起きていることは滅多にない。僕とは違って。
『起きてたの?』
『寝れなくて』
『そうなんだ』
『うん』
最後の返信を見て僕は力尽きた。クーラーをかけておくのを忘れたので、昼過ぎに目を覚ましたら色々と悲惨だった。
幽霊の体は冷たい、だなんて嘘だ。僕がありったけの恨めしさを込めて言い切ろう。
☆ ☆ ☆
晴れていた空が曇り出したくらいに、僕と七海は事故に巻き込まれた現場に足を運んだ。事件の足跡を見物しに来たわけじゃない。ただでさえ口下手な僕は、七海に納得のいく説明を思いつけなかったから、寄りたい店がある、とだけ伝えておいた。あとは雰囲気で察してくれたらしい。
あの日とは逆の路を辿っている。ほんとうは、二回目になるはずだったのに、憶えているかぎりでは今年初めてだ。
足場の悪い道路を歩く。たまにすれ違うトラックが巻き上げる砂埃を浴び、二人してゲホゲホとむせながら件の商店街へ入る。
まだ昼だというのにひっそりと静まり返っている。ライトが消えた看板は異界への入り口だったのだろうか。
そんなことを思っているとジャック・オー・ゴーストの看板を見つけた。相変わらず不気味だった。看板の矢印が示す通りに右へ曲がる。辺りがいっそう暗くなる。同じ形をした建物がいくつか立ち並んだ袋小路にその店はあった。ネットの情報ではここはカフェらしい。言われてみればそんな気がする。でも、よく分からない文字が窓枠に沿ってびっしりと書いてあるし、キャバクラだって言われた方がまだしっくりくる外観だ。
店名の『Jack-o'-GHOST』の隣に、ちょこんと描かれた二つのティーカップを見てようやくカフェだと気づけるくらい見た目が派手すぎる。どんなセンスだよ。おかげで七海からの視線が痛い。
中は驚くほど普通のカフェだった。変わっているところと言えば、天井にぶら下がっているランプくらい。それも幽霊っぽい雰囲気が出ていて好感が持てた。ちょっと暗めの明かりと艶のある白塗りの壁が見事にマッチしている。店の内装に見惚れていると声がした。
「客は二人だ。カピバラのように呆けた顔をしている男と、ろくでもない男に惹かれた幸せな女だよ、マスター」
とんでもないことを言われた気がする。
声のした方を見るとカウンターに座って読書をしていたらしい、魔女の恰好をした少女が栞を挿したページを開けるところだった。
「あっ!」
今なんて? 客は二人? この少女には僕のことが視えるのか……?
「うるさいな、静かにしてくれないか。ぼくの貴重な時間をきみによって迫害されたくないんだ」
「……すいません」ひでぇ言い方だ。しばらく立ち直れそうにないかも。
この少女と何となく間を空けて僕らもカウンターに座った。たしかに近寄り難い雰囲気ではあるけれど、これはアレだ、電車に座ったときに隣の人と隙間を作るっていう、習慣みたいなもの。言葉にできない何か、だ。
「メニューけっこうあるんだねー」
七海がさっそくページをパラパラと捲りながら見ていく。確かにモーニングのちょっとした品からディナーの本格的な料理まで多種多様なメニューがあった。もちろん、カフェというだけあって初めて聞く名前の飲み物がたくさん載っているけれど、もうこれレストランでいいんじゃないか。
「そうでもないさ。後ろを見てみるといい」
少女がフッと鼻を鳴らして答えた。七海ではなく僕に言ったらしい。さっきのは胸の中で言ったつもりなんだけど独り言として外に出ていたようだ。
後ろを見てみると、誰もいなかった。平日の昼間だというのもあるかもしれないが、カフェにしてはあまりにも寂しすぎる。レストランなんてもってのほかだろう。今や無人と化している商店街の、それも袋小路に構えている店ならば仕方なかった。
「まずここに辿り着くことのできる人間は極めて少ない。幽霊となればなおさらだ。この場所でレストランを開店するなんて、どうやったって無理なんだ」
なるほどなぁ。僕が納得していると、七海の前にティーカップが置かれた。コーヒー。七海はきょとんとした顔でマスター(少女にそう呼ばれていた人)を見ていた。マスターは気にしていないようだが、もう一つのティーカップを持ったままの状態で動かない。
「右だよ」少女が言った。
その声でようやくマスターは僕の前にティーカップを置いた。この人には僕の姿が視えないのか。
というか、コーヒーなんか頼んでないぞ。
「えと、これはコーヒーですよね?」
「そんな事も見てわからないのかい? マスター自慢のコーヒー、ここに初めて来る人には必ず振る舞ってくれるサービスさ。飲まなくてもいいが後悔することになるだろうね。マスターの淹れるコーヒーは別格だ」
マスターの立派な口ひげがピクリと動いた。どういう意味なんだろう。言われるがままに一口啜る。
うわっ、めちゃくちゃ美味い。七海も絶賛していた。
ちょうど飲み終える頃に、来客を知らせる心地よい鈴の音が店内に響いた。二人の若者が入ってきて僕らの隣に座った。
片方はピエロみたいな衣装を着ている背の高いイケメンで、もう片方はタンクトップがよく似合ういかにもスポーツマンな体格の男性だった。二人ともすぐにコーヒーを頼んだ。
「おい、おまえ幽霊か?」
タンクトップの人が声を掛けてきた。
「そう……ですけど」
僕は振り向いて咄嗟に身構えた。
「警戒すんな。俺もお前と同じで幽霊だ」
「えっ、ほんとですか? よかったねユウくん、仲間が見つかって」よくねぇよ。
この人も死んだってことじゃん。
「そう、俺はケイ。地縛霊ってやつだ」
ケイさんは自分を地縛霊だと名乗った。聞き慣れない単語に首を傾げる。
「ジバクレイ?」
「あんま難しく考えんな。地縛霊ってのはざっくり説明するとニートのことだ。幽霊に職業とかないけどな!」
やばい、頭が痛くなってきた。地縛霊はニート? つまり家でゴロゴロしてたりするってことか。
「なんかケイさんって、ユウくんに似てるかも」
「えぇっ?」やめてくれよニートみたいなもんだけどさぁ。
自慢気に語るような人と同じにされたくない。
「やめなよケイ。お客さんが困ってるじゃないか」
その隣に座っている、目の錯覚を起こしそうな服を着たイケメンが口を出してくれた。
「初めまして、おれ、朱雀野蒼佑っていうんだ。ケイと同じく幽霊で、ドッペルゲンガーをやってる」
蒼佑さんは僕らに笑顔を向ける。かっこ良すぎるよこの人。服装は残念だけど。
「ドッペルゲンガーって見かけたら死ぬっていう……」
どこかの小説でそんな描写があったような。
「ドッペルゲンガーを見たら死ぬって? アハハハッ、おれにそんな超能力はないよ。でも、幽霊が視える人っていうのは……まだ君たちには早いか。とにかくおれを見ても死なないから安心して」
「おまえら、名前なんていうんだ?」
ケイさんが言った。そういえば僕らは名乗ってなかったな。自己紹介しようと息を吸ったとき、さっきの少女が口を開いた。
「緋村幽希、藍田七海、この二人の名前だ。何の幽霊か、まではさすがのぼくにも分からないけどね」
「えっ、なんで知ってるの……」
僕が訊くと、少女はうんざりしたようにため息をついた。
「その質問をこれまでに百万回くらいされたよ」
「えと、その、ごめん」
「気にしなくていい。あらかじめ名乗っていなかったぼくのせいだ」
そう言って少女は、つばがやたら大きい帽子を取ってこちらを向いた。人形じゃないかと疑うくらい清楚な顔立ち。くっきりとした瞳に吸い込まれてしまいそう。もの凄く可愛い。
「ぼくの名はウィスプ。今日、君たちがここに来ることは知っていた。先に言っておくが、この名は『ウィル・オー・ザ・ウィスプ』の伝承に肖って拝借した。ぼくのことはただの未来予知の幽霊、或いは、魂の案内人と解釈してくれたまえ」
何言ってるのかさっぱり分からなかった。