幽霊になった僕 3
夕方。誰もいない家の中で、僕は、何とも言えない寂しさを抱え、痣のできた腕に淡々と湿布を貼っていた。
幽霊になってみて分かったことが一つある。壁をすり抜けたりできないってこと。ああいうのは本当に空想の中でしか為し得ないものだった。
ついさっき起きたばかりの僕は、どういうプロセスを踏んでそこに至ったのか知らないし知りたくもないけど、壁抜けできるんじゃないかって発想が急に降りてきてさ。さっそく実践してみたんだ。痛かった。どうして全速力で突っ込んだんだろ。意味わかんないよな。馬鹿じゃねぇの。
他のぶつけた部位の具合を確認するために鏡の前に立つ。しっかり映ってる。幽霊は鏡に映らないっていう説は嘘だったか。いや待てよ、視えない人には視えないんだろうか。何が言いたいんだろう。あぁもう、僕の貧弱な語彙力じゃ全然伝わらないよな。
自分の両手で頬を二回ほど打つ。いい音が鳴った。これからどうしようか。幽霊として日常を過ごしていくことに対してどんな言葉で表せばいいのだろう。
生きる、ってのは違うよなぁ……。
「まぁ、何とかなるさ」
鏡に向かって喋ってみる。何とかなるさ。なんだかしっくりこない。
仕方ないな、の方がよく似合った。どんな時にも使える魔法の言葉だ。
リビングに戻るとソファーを陣取ってテレビをつける。一瞬、新聞で読んだ内容がニュースで報道されていた気がしたが、意識して追いかける頃には次の番組に変わっていた。
わざわざ調べるほどの興味を持っていなかったので、そのまま、テレビに映し出される映像に憑りつかれたように見つめ、だらだらと時間を浪費してしまった。
「幽霊ってお腹も空くんだな」
いつもはインスタントラーメンが補充されているはずの引き出しをゴソゴソ漁る。消費期限がとっくに切れたレトルト食品しか見つからなかった。
冷凍食品を求めて冷凍庫を開けたけど何もなかった。昨日の夕食の残りがないかな、と期待を込めて冷蔵庫も開けてみる。期待外れか。食材はあるみたいだけど、僕が作れる料理なんて皆無だ。きっとその辺の雑草を食べた方が幾分マシだと思える品が出来上がることだろう。
夏だし食べなくてもいいか。一日どころか一カ月くらい大丈夫だろう。幽霊が餓死するとかなさそうだし。
数日もすれば家族が帰ってきて……。
ちょっと待て。これから僕の分の食事は? ずっとインスタントか冷凍食品で我慢しろって? 冗談じゃないぞ。幽霊だから生活習慣病とかに縁はなさそうだけどさぁ。今のところ人間だった時と何も変わってないじゃん。むしろ悪化してるよね。
そもそも。僕は人間と何が違うんだ? 姿かたちに感情だってある。狭義でいうところの〝人〟そのものじゃないか。
つまり、人と変わらないってことは、偏った食生活ばかりを続けていたらいずれ病気になってもおかしくない。コーラばかり飲んでいる僕が言ってもいまさらか。死んでから健康に気を遣うとかどういうことだよ。
重たい足を動かして階段を上り、二階の自室へ入ると同時にベッドの上に身を投げ出した。換気のために窓を開け、四角い枠に押し込められた空を見た。
何の変哲もない景色。これを目にすることができる僕は幸せなんだろうか。
空腹をこらえるためにスマホを弄る。一件の通知。七海からだ。ひょっとして七海には連絡できるんじゃないか。
「そういや、ナツの家を飛び出してきたっけ」
遊ぶ約束をしたはずの彼女を置き去りにして。大した理由も教えなかった気がする。怒り狂ってるだろうな。
メッセージの内容は『大丈夫?』だからそうでもないか。でも四時間くらい前だしな。寝てた、って正直に白状したらやっぱり怒られそう。
迷っているうちに手が震えて通話を押してしまった。どうすんのこれ。パニックに陥っていると七海が出た。
「もしもし、ユウくん?」
「あ、あのさ、七海、頼みたいことがあるんだけど」
☆ ☆ ☆
「ほんっとバカ! 私がどれだけ心配したと思ってるの!」
フライパンを手に持った七海が怒った。殴られそうで怖い。
「あはは……」
苦笑いしか出なかった。
僕はいま、藍田家の食卓に座っている。しかも七海に料理まで振る舞ってもらっている。ナツミ特製あんかけチャーハン。めちゃくちゃ美味いよ。
「ウチに来た理由はそれだけ?」
七海は、僕が平らげた皿を指さして言った。
「ハイ、そうですね」
僕が答えると、七海は目元を手で覆ってため息をついた。
「ま、役得だからいっか……」
「ヤクトク?」
「なんでも! それより私の心配を返せ」
「ごめんごめん、お腹空いててさ、それどころじゃなかったんだって」
苦しい言い訳。七海は猜疑心を包み隠さず片目を吊り上げた。何言ってんだこいつ、みたいな雰囲気が伝わってくる。どこかの暇を持て余した神様が七海に告げ口でもしたのだろうか。
「許したげるよ。ユウくんに期待しても、いつだって斜め下の回答しかしてくれないってこと、ずっと前から知ってるし」
「ありが……ん?」
凄い言い回しで貶された。その通りかもしれないけど。
「その通りだよ! まさか気づいてなかったの?」
「え」
「今日だってどうせ寝てたんでしょ? 私はさ、ユウくんからなかなか連絡来ないし、様子見に行った方がいいのか、そっとしておいた方がいいのかって悩んでたんだからね。やっと連絡が来たって思ったら、『頼みがある』とか言い出して!」
「うっ……すいません」普通にバレてた。
言いたいことを言い切って気持ちの昂りが収まってきたのか、七海は洗い物を始める。どこかで聞いたことのある歌を口ずさみながら。機嫌が直ってきたみたいだ。よかった。
やっぱり色々とあったから感情が不安定だったりするのかな。色々。今日はとんでもなく非日常的な日常だった。
「ナツの母さんって大丈夫なの? ほら、僕の事とかさ」
万が一、この光景を見られてしまったらまた取り乱してしまいそう。七海が一人で、何もない空間に向かって話しかけていることになるからな。漫画やアニメとかで幽霊が視える主人公にありがちなシチュエーション。彼らを羨ましいと思ったことは一度もない。幽霊とかそういうホラー系は苦手だし。できれば一生関わりたくないなぁ……って思ってたら、短すぎる一生が終わってから関わることになってしまった。全然笑えない。
「ううん何とも言えない。今日は疲れちゃったみたいで寝てる。ユウくん、幽霊になったんだって?」
「そうみたいだね。なんか生きてたときより不便になってるから何も嬉しくないけど」
「そんなこと言わないで。他の人からみたらおかしいのかもしれないし、本当に頭がおかしくなって幻覚を見てるのかもしれないけど、こうやって声を聞けるだけで嬉しいんだから」
やばい。顔が熱くなってくる。背中越しでよかった。
さんざん怒ったりした後にいきなり言い出すのは反則だと思う。鈍感系の主人公の言動に振り回されるヒロインの気持ちが分かる気がした。想像以上に苦労しているんだろうな。僕みたいに。
七海は洗い物を終え、「ここで待ってて」と言ってどこかに行ってしまう。バタバタと走る音が聞こえる。部屋にでも戻ったのだろうか。
しばらく待っていると、両手に色々な物を抱えてやってきた。ドサッとテーブルの上に並べていく。何となくやりたいことが分かるけどさぁ。
「手を貸して」
彼女はいたずらっぽく笑って僕の手を取った。好きな人のお願い。逆らえるわけないよね。そのまま御守りを握らせる。うん。何ともないな。
「……何ともないよ」
「あれ? 効き目ないね。魔除けだって言ってお父さんが買ってきたのに」
「偽物なんじゃない」
僕は実験動物かよ。別にいいけどさ。
七海が持ってきた魔除けグッズを一つ一つ僕に試してみたけど、何も感じなかった。偽物ばかりなのかもしれないし、僕が〝魔〟ではないのかもしれなかった。後者の方が嬉しい。
けれど、たった一つだけ、異様な空気を纏っているものがある。テーブルの端に置かれた御札。真っ白な紙に、子どもの落書きと間違えそうなくらいぐちゃぐちゃな文字が書かれている。
ついに七海がそいつを持って近づけてくる。ヤバいヤバいヤバい。触れたら死ぬ。そんな恐怖に駆られた。僕に反応して青白く光っているような気がする。ホンモノだ。僕は仰け反って椅子から転がり落ちた。
「うわッ、それはやめて! 消えるッ、マジで消えるから! 熱っつ! やめてくれー!」
我を忘れて叫んでいる僕の姿が面白かったのか、七海は声を上げて笑っていた。それどころじゃないんだけど。
今日の腹いせも含まれているようで何回か押し当てられた。
ジュッと焼けるような音がして、触れた場所が皮膚がめくれて火傷みたいな痕になっていた。流石の七海も顔を真っ青にして片付けてくれた。
僕も驚きを隠せなかった。
僕にとってデメリットなことは知識通りに起こるのに、『もし幽霊になったら』に挙げられるようなことは何一つ叶っていないよな。
やってみたいこと。そうだな。
思春期の男子なら一度は思うであろう、絶対に見つからない覗きとか。今度試してみようか。真剣に。そんなことを思っていたら七海に殴られた。
くだらない妄想に耽ると顔に出るのか? だとしたら、かなり気持ち悪い顔を晒しているだろうね。
「さっきはごめんね。調子に乗りすぎちゃった」
「気にしてないよ。今落ち込んでるのは、違う意味で絶望してただけだから」
「そう?」
七海は表情を曇らせて口を結んだ。どうやら返事は求めていないらしい。腐っても僕らは幼馴染。彼女が考えていることは何となく分かっていた。それに、人生の半分以上は七海と共に過ごしてきた思い出で埋まっている。
もし七海が死んでしまったら、僕が僕でなくなってしまうと思う。身体の半分以上を引き裂かれたのと同じだから。七海にとっても同じなんだろう。
だから、僕以上に、僕が幽霊になったこと――死んでしまったこと――を重く受け止めているんだ。
ふぅっ。息をかけられた。
七海は怒っているような、笑っているような、分からないけど分かる。心配するなって声が聞こえてきそうだった。
顔が思っていたよりも近くにある。無意識に手を伸ばして髪の毛に触れた。サラサラとした髪に、まるで透き通っていくみたいに指が滑る。七海は抵抗しなかった。驚いたように背筋を伸ばしたけれど、されるがままになっている。
僕は七海に触れられる。どうしようもないくらい当たり前の奇蹟。
☆ ☆ ☆
家に帰ってからすぐに自室のノートパソコンを立ち上げた。
気がかりだったことがある。僕のほかにも幽霊になった人はいないのか、って。
いたとしたらネット上で何かしらの情報があるんじゃないか。個人のブログとか。僕は七海以外の人に連絡はできなかったけど、幽霊同士なら可能かもしれない。他の人には視えなくて、僕にだけ視えてしまう文字がさ。
まずは適当に『幽霊になった人』で検索をかけた。トップに上がっていたタイトルを見て、僕は、唾を飲み込まずにはいられなかった。
ジャック・オー・ゴースト。幽霊たちの憩いの場っていう文句が書かれている。夏祭りの日、廃墟群になった商店街で見かけた不気味な看板の先にある店だ。
調べていくとさらに奇妙なことが分かった。このタイトルがネットに上げられたのは数年前の七月三十二日。存在するはずがない日付。