幽霊になった僕 2
家の玄関のドアを乱暴に開け、綺麗に並べてあった靴を蹴飛ばしながら駆け込み、僕は二階にある両親の寝室へ向かった。誰もいない。それは始めから知っていた。
今朝、七海との約束を勘違いしていて、慌てて部屋の掃除をしていた時から、今日は家族総出で出掛けていると薄々気づいていた。
いちおうリビングに降りて確認しても、普段、何も予定がない日はテレビを占領しているはずの妹の姿が見えなかった。
電気がつけっぱなしのトイレをノックしてみる。返事なし。やっぱり誰もいないのか。
最後に物置となっている和室に入り、すっかり埃をかぶってしまったクローゼットを開いた。いつもここに保管してあるはずの喪服がない。この空間がやけに静かになった気がした。
まるで異世界に放り込まれてしまった気分。
「やっぱり僕は死んだのか」
室内が静かすぎるせいか、思っていたよりも大きな声が出た。頭の中でいくつかの単語がぐるぐると回っている。鹿野宮市北区九丁目、男子高校生が死亡、喪服、ここまできたら自然と予測を立てられる。
今日は僕の葬式なんだろう。
自分で言って笑えてくる。だっておかしいだろ? 葬式は死者を弔うための祭儀なのに〝僕の〟なんてさ。矛盾してるじゃないか。
では、今の僕は何なんだろうか。七海の家で起こった出来事、そして僕がたくわえてきた知識を探って、ふさわしい言葉を空欄の中にあてはめるとしたら、幽霊しかないと思う。
僕は幽霊になったんだ。
死んだ人は蘇らない。それはそうだろう。幽霊になったらしい僕だって信じられない。
今頃、僕の死体は白装束を身にまとって火葬されるのを待っているか、長い長い念仏を耳を塞ぎながら耐えているのだろうし……って何を考えてるんだろ。まとまらなくなってきた。
落ち着け、落ち着け。
まず幽霊って何だろう。僕は真剣にこの疑問と向き合わなくてはならなくなった。
……スワンプマン。
ドナルド・デイヴィットソンが考案した思考実験の一つで、ハイキングをしていた男が沼のそばで雷に打たれ死んでしまい、偶然、同時刻に落ちたもう一つの雷が沼に落ち、死んだ男と原子レベルで同一の人物を生み出してしまうという話。
もちろん記憶や知識を引き継いで。僕にとってこの発想は衝撃的で、分かりそうで分からないところが面白いと感じている。
面白いけどスワンプマンは思考実験――つまりただの妄想なんだけど、この話は幽霊との類似点がいくつかある。
死んでるところとか、同一の人物が生まれたとか。
それっぽく言い直すと、死者が蘇ったのではなく、死と同時に生まれた、ふつうには観測できない生命体を幽霊って呼んでいるんだ……なんてね。正解かどうかなんて気にしたらいけない。重要なのは僕が納得できる解答だってこと。納得できると喜びが生まれる。そうすると幽霊になったことくらい何ともないじゃないかって思えてくる。実際、ちょっと楽しくなってきた。
僕は幽霊。だから何をしたって怖くない。
ほら見ろ、クーラーをガンガンつけてソファーの上でだらりと寝そべって過ごせるんだぞ。生前と何ら変わりないな。
自分の部屋を散らかせばポルターガイスト現象を引き起こせるぞ。生前と何ら変わりないな。ええと。
普通の人には視えないし、触れられないし、聞こえないからコミュニケーションの機会が極端になくなるよね。生前と何ら変わりないな。
「なんか死にたくなってきた」すでに死んでましたね。
もう考えるのが面倒になってきた。とりあえずスマホを弄る。MAKEを開けてトークを眺めた。
家族のグループに『僕は生きてます』とでも送っておこうか。混乱するだけかな。でも憂さ晴らしにちょうどいい。
ええい、送信を押した。応答なし。しばらく経って『送信されませんでした』と通知が来る。
何度やっても無駄だった。メールも電話も届かなかった。
触ったものがまともに機能しなくなるのか? 普通に使えてるぞ。まさか連絡だけできないとか。嫌がらせかよ。
もっといいことを考えるんだ。幽霊は永遠に夏休み。それってつまりニートだよね。生きてても同じことができるじゃん。
何度目かのため息が出た。寝よう。寝て起きてそれから考えよう。問題の先送り。何とでも言え。
まどろみに落ちていると七海の顔が思い浮かんだ。七海は僕の姿が視えたし、声も聞こえたし、たぶん触れることもできるはず。
七海は自分の母親と会話をしていた(あれを会話と呼ぶのか分からないけど)ので生きているのだろうか。
本当に? 無傷で?
僕が幽霊になったのだから七海にも何か起こったと考えるのが当然だろう。
――その通りだった。
もっと真剣に考えておくべきだった。七海がなぜ幽霊になった僕を視ることができたのか。
幽霊にまつわる説は色んな場面で聞くことがあるだろう。霊感が強いから視えるとか、幽霊を視たら呪われて死ぬとかさ。
そうじゃないんだ。
幽霊が視えたから死ぬってわけじゃないんだ。
もうすぐ死ぬから幽霊が視えたんだ。
まだ僕は知らなかった。