泡沫のような夜 2
鹿野宮市は世間一般で言うところの『変わり者』が集う街だ、と僕は思う。そんな変わり者たちが開催する夏祭りなので、他では経験できない一風変わった屋台を味わうことができる。
例えば、コーラしか売っていない屋台に、競い合うように左右に十連続で並ぶ唐揚げの屋台、オーダーメイドで作ってくれる精巧すぎる飴細工、一箇所に店を構えるのではなく自ら動いてくる屋台まである。そして。
「おじさん、もう一回!」
「あいよ!」
淡い光を放つ赤提灯に導かれるようにして屋台を片端から巡っていると、見知った人が開いている金魚すくいの看板を見つけて立ち止まる。
今年も中々の盛況ぶりのようで、しばらく並んだ後に僕らの番がやってきた。
「おっ、七ちゃんと幽くんじゃないか! いつものように一回やってくかい?」
「はい、一回ずつでお願いします」
「僕もやるの……?」
「当たり前じゃん!」
水槽内で泳いでいる木の葉に似た波紋模様が見える魚群に、そこはかとなく不安を感じ、ぼうっと突っ立っている間に、七海がさっさと二人分の料金を払ってしまった。
五十代の半ばを過ぎたというのに、少しも衰えを感じさせないおじさんの浅黒い手から網を一つ受け取る。どうやら強制的に参加させられるらしい。
……待てよ。なんだこれ。
僕が知っている金魚すくいってのはさ、水槽の中で何百という鮮やかな赤を纏った金魚が優雅に泳ぎ回っててさ、網を入れると花火のように散らばって幻想的な光景を生み出すもののはず。が、さっきから尾びれを追いかけているのに速すぎて全然追いつけない。そもそも金魚はこんなに大きくない。
網だってそうだ。普通は円形のプラスチック枠に薄い紙が貼ってあって、水に浸すとすぐに破れてしまうから不器用な僕には鬼門だったりするお馴染みのアレ。だけど、僕が持っているのは網目の細いブルーでしっかりとした造りになっている。
「掬えるかこんなもん! 大体さ、なんで泳いでるのは金魚じゃなくてヤマメなんだ!」
そう、この『金魚掬い』という看板が立っているにも関わらず肝心の金魚が行方不明な屋台も有名である。ここでは水槽に泳いでいる魚の大半がヤマメだった。琉金くらいの割合でアユが混じっていた。一人一匹あげますって書いてなかったら詐欺で訴えるところだ。
「ハハハッ、こないだ釣りに行ったら大漁だったもんでな!」
「そんな理由で変えないでよ。今更だけど」
ちなみに去年はアジだった気がする。慣れない磯の香りが充満して困惑していた人も結構いたけれど、なんだかんだで大盛況だったような。
その場で捌いて刺身にしてくれたので新鮮なまま食べられるのは凄くいい。ただ、アジを金魚用の網ですくうのは無理があると思ったけど。
「見てみて、ユウくん、五匹も取れたよっ!」
若干呆れている僕に対し、七海は無邪気な笑みを浮かべてはしゃいでいる。
「え……あぁ、取れるんだね」
おじさんの悔しそうな顔を見ていると素直に褒められなくて生返事になってしまう。これも毎年のことなので微笑ましいのだろうか。
二人のやり取りに込み上げてくる笑い声を堪えながら、僕の隣で水槽を睨んでいる幼い子の身長に合わせて低くしゃがんで覗いてみる。こうやって純粋に楽しんでいる子どもがいるからこの屋台は嫌いになれない。
いつの間にか、水中に舞う瑞々しい黒に目を奪われていたようで、僕の左腕がグイグイと引っ張られた。言うまでもなく七海だろう。
「次、行こうよ」
「……うん」
立ち上がって答えるより先に七海が僕の手を取って歩き出した。いきなりの事にバランスを崩しながらも、人にぶつからないように配慮して歩くので、やむを得ずお互いの腕が密着してしまう。浴衣越しに伝わってくる柔らかい感触に緊張が走った。
思いのほか顔が近くて胸の高鳴りが止まらない。お互いの腕が触れるか触れないかの境界を彷徨っていることが余計に彼女を意識させた。
僕が勝手に舞い上がっているだけなのかな、と落ち込んでしまうことも多々あるけれど、この瞬間を七海と共有できることがこの上なく大切で幸せに感じられた。
肩を並べて歩けば揚げ物の香ばしい匂いに紛れ、すれ違う人たちからほんのりと漂う制汗剤や香水の香りが嗅覚を刺激する。
屋台を一通り見終える頃に、僕は、焼きそばとコーラとかき氷を抱えて歩いていた。適当に座れる場所を探しているとちょうどベンチが空いていたので腰を下ろす。
「そういえばさ、家でヤマメを飼う気なの?」
「違うよ。塩焼きにして食べようかなって」
「あぁ、そう……」
いかにも七海らしい答えに僕は苦笑いをするしかなかった。
溶けてしまわないよう、かき氷を先に食べ始める僕を見て、今度は七海が不思議そうな顔をしていた。
「やっぱり、かき氷にコーラをかけて食べる人ってユウくんだけだよね」
「これうまいよ。ちょっと薄くなるけど最高に冷たいコーラが飲めるから」
「絶対うそでしょ。それより練乳の方がいい!」
「いや、練乳って他の味を殺しちゃうからかき氷には合わないと思うんだけど」
思ったままに答えると七海は急に黙り込んだ。今の答えはまずかったのかな。一人で反省しかけた矢先、頬にひんやりとした冷たさが広がった。
驚いて身を引けば、七海がいたずらを成功させて満足そうに笑っていた。次いで差し出されたスプーンの存在に気づく。
一瞬、どういうことか分からなかったけど、七海の目は「早く食べなよ」と強く催促していた。想い人からの思わぬ行動に嬉しさと動揺が半分ずつ混ざって小さな躊躇いを生む。
あまりに優柔不断が過ぎると七海に恥をかかせてしまうので、意味のない頷きを一つ入れ、イチゴ味のシロップの上に練乳がかけられたかき氷をいただいた。
……これって恋人同士が行う所謂、『あーん』ってやつじゃないか? これはもしかして僕にも青い春がやってきたんじゃ……。うわぁ。今こっちを見てたの知り合いじゃないよな。これは想像以上に恥ずかしい。
七海の顔色を窺うと、ばっちり目が合った。家に帰って叫びたい。
「反応が面白いね。というかそんなに悩むこと?」
七海が首を傾げて半笑いになっている。僕を悩ませている当の本人は、大方、かき氷の味について指しているのだろう。
かき氷の味……そんなの分かるわけないよね。ナツに踊らされている間に溶けてなくなってるからさ。思春期の真っ只中にいる男子高校生の妄想力を舐めないで欲しいよ。隙あらば味覚どころか五感にまで介入してくるっていうのに。
「これは悩むね」
僕は即答した。頭の中で考えていることは話の流れと一致しないけど、言葉だけに焦点を当てれば問題ない。
七海は、「じゃあ」と言って右手に持ったスプーンを垂直に立てる。その動作に合わせて浴衣の袂がふわりと舞った。
「もう一口だけ食べてみる?」
「あ、はい、お願いします」
「なんでいきなり敬語になるの」
「あはは……」
答えに詰まったので曖昧に笑って誤魔化した。いくら仲が良い幼馴染とはいえ、ご褒美ですから、とまでは言えない。そんな勇気があるならとっくに告白してる。
あぁ、そういえば、今日こそは言うんだっけ。思い出すと途端に思考がそれ一色に染まり、すっかり頂点が欠けたかき氷の山をすくい取る七海の手から目を離すことができなかった。
音が漏れているのではないかと心配するほどドクドクと心臓が速く脈打ち、脳裏では悲観的な未来を構想してしまう。
瞬く間に膨れ上がる緊張を抑えるため、肩が震えるくらい瞼を強く閉じた。努力の甲斐なく加速する鼓動を聴いて待つうちに、程よい冷たさと柔らかい感触が両目に伝わり、僕はびくりと身体を震わせた。
「そのままにしてて」
真っ暗な視界の中で七海の声が聞こえた。おそらく空いている左手を使って目隠しをしているのだろう。
肌が触れあっていることも相まって、いよいよ最高潮のテンポを刻み始めた心音に四苦八苦する。そんな僕の心はいざ知らず、七海の手はすぐに離された。しかし離れてしまえば、名残惜しさが心に引っ掛かかり、ぬるくなったコーラのように後味が悪かった。
「くち開けていいよ」
七海に言われるがままにゆっくりと口を開ける。舌の先にスプーンが触れた。
そのまま口を閉じる。
あれっ? 何もない?
不審に思って目を開くと、七海がスプーンをひょいと持ち上げて笑っていた。
「あははっ、ヘンな顔してるー!」
「完全にやられたよ……」
無意識のうちに僕をもてあそぶ七海を恨めしく思い、夜空に向かって盛大なため息を吐き出した。おかげで緊張はどこかに吹き飛んでしまった。僕の期待を返せ。
それでも、いつもとは違う浴衣姿の大人っぽい見た目に反した行動は、どうしようもなく可愛さを感じさせる。結局、何をしても七海なら正義なんだ。
「まいったなぁ」