エピローグ
七月二十三日。
連日のように降り続いていた雨が止んだ。
天気予報によると、また午後からぽつぽつと降ったり止んだりを繰り返すらしい。画面が割れて使いづらいスマホを群青色のジーパンのポケットにねじ込み、しっとり汗ばんだシャツに湿っぽい風を招いた。
ふと後ろを見れば、最近になって借りたアパートの一角が灰色の空をくり抜いたようにしてそびえていた。その喩えようのない空虚さに、少しばかり魅入ってしまった。僕はどうかしている。そう思い直し、傘を持つ手に力を込めた。
夏祭りが近づくと、わけもなく胸が締め付けられることがある。苦しくて、もどかしくて、切なくて、そのどれでもない。
失恋にも似た心の痛み。花火の後の、硝煙が尾を引く夜空のような寂しさ。そういったものが、絶えず呼びかけてくる。だから、今日は墓参りに行くと決めている。
僕が七海のことを思い出したのは、幽霊になったことがきっかけだった。記憶は日に日に明瞭になっていき、今では嘘だらけの世界のことを昨日のことのように憶えている。
行きつけの花屋で購入した二対の菊を供えて、線香の微かな匂いが残る墓石の前で手を合わせる。それから、綺麗好きだった彼女を思って掃除をしておいた。
「――ところで。きみは正しい世界でも幽霊になっているのかい」
懐かしい声がした。背丈の小さい少女がおぼつかない足取りでこちらに向かってくる。魔女のようなドレスにすっぽりと埋もれて、つばがやたら大きい帽子をかぶった、僕のよく知っている幽霊だ。
「うん、久しぶり」
奇しくも偽りの世界と同じく、僕は夏祭りの夜に幽霊になった。交通事故だった。その日は、三つ下の藍田冬華と夏祭りに行った。
冬華はさらさらとしたロングヘアーの清楚な顔立ちの女の子で、幼少の頃から家族ぐるみでの付き合いがあり、本当の兄妹以上に仲良くさせてもらっていた。
僕は前々から彼女のことが気になっていた。運命的な何かを感じていたからだ。この子だけは守らないといけない。抗いようのない強い使命感とでも言えばいいのだろうか。しかし、あくまで恋情とは異なる範囲だった。
冬華にとってみれば、〝運命〟とは恋情だったのだろう。夏祭りの帰り道、九丁目の廃れた商店街で、彼女は僕に告白した。歯車が回り出したような感覚があった。
この瞬間、急に飛び出してきた人とぶつかり、すれ違うはずだった対向車に轢かれてしまうことを知っていた。自分でも驚くほど冷静に、僕は冬華を突き飛ばした。そして、僕は幽霊になった。
「今回はしっかり守れたみたいじゃないか」
「死んだけど満足してるよ。心置きなく成仏できそうなくらいに」
「幽霊は死者ではないから、成仏はできないよ」
「それ聞くのたぶん二回目」
少女は、ふふっ、と小さく笑う。
「どういうわけか、きみは藍田七海のことを憶えているみたいだね」
「ウィスプだって憶えてるじゃん」
「未来のきみが教えてくれたからさ」
ウィスプ――紫怨冥も数分前の僕と同じように手を合わせた。彼女もまた、生まれてくることなく命を落とした女の子を知っていた。
「きみはそういう力を持った幽霊なんだろうね」
七海のことも、敏樹さんのことも、僕は憶えていた。二つの世界を同時に視ているような気分。それはウィスプの未来予知と似通っているのかもしれない。
僕だけが知っていて、誰も知らない物語。
この十七年の記憶は未来だったのだろうか、過去だったのだろうか……あるいは、可能性の平行世界で実際に起こっている現在なのだろうか。ただの空想という線も大いにあり得る。
何にせよ、僕が幽霊になってしまったことと、彼女は存在しなかったこと。これだけはどうやっても変えられない運命のようだ。
「三日前くらいにジャック・オー・ゴーストから採用通知書が『幽便』で届いたんだけど、あれどういうこと?」
「ぼくが勝手にバイトの申請をしておいたのだよ。喜ぶといい。これからは毎日カフェで働ける」
「真面目にいらないんですけど」
「何を言ってるんだい。きみはぼくに借金があるだろう?」
「架空請求の亜種だったり?」
「きみのプロポーズのためにわざわざマリッジリングを用意したと言ったじゃないか」
「あっ……!」
何言ってんだよ未来の僕。こうなることくらい分かるはずだ。敢えて伝えたのかもしれないけど。
しかし、これ以上ないくらい自慢げに胸を張っているウィスプには、永遠に頭が上がらない気がしてくる。
まぁいいか。こいつとなら楽しそうだ。なんて思っている自分に可笑しくなってきて、ついつい笑ってしまう。
彼女も笑っていた。
お互いにひとしきり笑い終えると、ウィスプはどこか胡散臭い表情を作って空を見上げた。
「ぼくの名はウィスプ。未来予知の幽霊であり、魂の案内人でもある。そして、ぼくは言霊の魔女だ。彼女を蘇らせる禁じられた魔法を教えよう」
すると、一陣の風が吹き抜けた。
「ナツミ」
まるで呪文を詠唱するかのように言う。
「これからは七月二十三日に鹿野宮市で吹く風のことをナツミと呼ぼう」
七月二十三日に吹く風。不覚にも涙が出そうになった。こんなことで泣くわけにはいかないと、僕は精一杯の強がりを見せる。
「禁じられた魔法って言うわりには大したことないな」
「おや。言葉が魔法だというのは、きみの持論だっただろう?」
ずるい。少し下に傾けただけで、大きすぎる帽子のつばがウィスプの顔を隠してしまう。その奥でどんな表情をしているのか、僕には知りようがない。
「何か言いたげだね」
返答に困った僕は、ほんのちょっぴり勇希を出すことにした。自分から歩み寄ることが大事。偽りの人生で得た教訓だ。
「明日さ、一緒に祭りに行かない?」
ナツミが吹いた。空の彼方で喜んでいるように思えるほど心地よい風だ。僕は、いつの間にか晴れてしまった空に向かって手を翳した。そして、裏返す。
今から反対のことを言います。――二人だけの不文律。
僕はナツが大っ嫌いだ。
〈了〉
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地に落ちた麦が死んで実を結ぶとは限らない。彼らにはそのまま幽霊になるという選択肢がある。――『Jack-o'-GHOST』
〈 Dear you 〉
ゆうぼく完結! ここまで読んでくださってありがとうございました。実を言うと、本編には回収されておらず、続きをほのめかすような伏線(のような何か)があります。
①幽霊が住む八丁目
②幽霊のように現れた男の正体
③七月三十二日
④アイス・パラドックス(どうしてアイスを買うことができたのか)
⑤悪魔たち
⑥双生ホムンクルス現象
⑦悪霊について
⑧それぞれの生い立ち
すぐに執筆に取りかかるわけではありませんが、「ゆうぼく」シリーズとして一つ一つ解決していきたいと思っています。




