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存在しない彼女 4


 僕は夢を見ていた。十七年もの長い夢。

 ひょんなことから異能に目覚めるアニメの主人公のように、僕の思考の中では不思議なことが起こっていた。

 たとえば、七海と初めてデートした日のこと。

 告白して振られたせっかちな僕。公園でキスをしなかった臆病な僕。もしくは、こぢんまりとしたテーマパークで観覧車に乗った予定調和の僕。

 たとえば、今日のこと。

 誰の助けも借りずに一人でロストに立ち向かった孤独な僕。真実に気づけなかった愚かな僕。心が折れて逃げ出した哀れな僕。過去追いの蝋燭(ヴェルダンディ)を捨てた浅はかな僕。

 色んな世界の〝僕〟を同時に体験したような感覚だった。

 これらは可能性の一ページ。〝僕〟の選択によって消えていき、『もしも』という言葉の内に封じ込められてしまった。

 今、アスファルトを踏みしめている〝僕〟は、最も正しい選択をした僕だろうか。神様に問うてみたけれど、当然のことながら返事はなかった。

 

 ――きみがきみであることを忘れないで。


 ウィスプの警告が聴こえる。大丈夫だよ。僕が僕であることは忘れてない。可能性に惑わされたりなんかするものか。

 やがて酸っぱいにおいが立ちこめるどぶ川を横切り、ロストの被害により無残な姿となった『鹿野宮ニュータウン』と呼ばれている住宅街に足を踏み入れた。

 鹿野宮市は大規模な都市化などと謳っているが、古くさいマンションが息苦しそうに突き出ているだけだし、いつまでも終わらない工事を見ているのに嫌気が差していたというか……こうして破壊してしまうのも案外スッキリするもんだなぁ、と暢気な感想を抱いていた。

 ひょっとすると、七海が()をしてくれたのかもしれない。そういえば――。

 

「光ってる」


 逆さまの蝋燭が妖しい光を放っている。分かってるよ。七海がいるんだろ。

 高鳴る鼓動と比例させるように足を早めた。

 五分も歩かないうちに、思い出が埋もれた交差点の中央で、うずくまっている鹿野高の制服を身に着けた少女を発見した。 

 神秘的に輝く半透明な六対の翼を地に下ろし、むせび泣いている。

 怒り狂える死者(オーディン)焼け爛れた死者(ハンドマン)のような異形ではなく、ちゃんとした人の形をしていた。話し合えそうなことにひとまず安堵する。 

 交差点の信号はありえない方向に曲がっていたり、根本からへし折れていたり、不規則に点滅したまま歩道に転がっていたりした。

 僕が七海の目の前まで来ても、彼女は気づくことなく泣いていた。恐らく、真下にある思い出に向かって。

 都市開発……なんて都会に住んでいる人に言ったら鼻で笑われてしまうだろうけど、それが本格的に始まったのは僕が小学校低学年のときだ。

 当時、ここら一帯は小さな林道になっていて、戦時中に焼けた神社が放置されているという背景も重なり、夏の子ども会で行われる肝試しでは定番の場所となっていた。

 恐怖を楽しむことができない僕は、保護者同伴であっても絶対に参加しなかった。しかし、高学年になると都市開発の影響が著しく、親子が入り混じって肝試しが行えるのもその年で最後になった。僕は七海の『今年で最後だから』という言葉に押し通されて嫌々参加した。

 まぁ、転んで泣き喚くハメになったんだけどね。それまで七海とは仲が良い幼馴染というだけで、それ以上の意味を持ってなかった。



「だから嫌だって言ったのに……」


 化物のような速度で成長を遂げる暗緑がひしめく路の途中で、ひりひりと痛みを訴える膝を抱えながらボヤいた。皮膚に付着した尖った砂利を払い除けると、いくらかひんやりとした風が傷口を撫でる。

 自然の笑い種になっているようで腹が立った。そして、無理やり誘ってきた幼馴染に苛立ちが募る。なんだよ。最後だからって、絶対楽しいからって……嘘ついて。

 恐ろしいお化けの姿もすっかり見えなくなり緊張の糸が切れたのも相まったのか、気づけば涙が止まらなくなっていた。


「ユウくんどうしたの? もしかして転んだ?」


 倒れている僕を発見した七海が血相を変えて近寄ってくる。転んで怪我をして泣いているだなんて、同年代の女の子に一番見られたくない姿だった。かといって一度流れ出した涙が簡単に引っ込んでくれるわけもなく、羞恥心とのせめぎ合いから折衷案として無視を決め込んだ。

 七海はいくら話かけても僕の反応がないと見るや、事態を深刻に捉えたのか「どうしよう……」と取り乱していた。

 ここで騒がれるとさらに恥ずかしい思いをすることになるので、仕方なく顔を上げる。


「うるさい」


 一刻も早く消えて欲しい。もしくは黙れ。苛立ちと痛みから僕は完全に平常心を失っていた。


「……ユウくん?」

「だからうるさいって。どっかいけよッ!」


 声を荒らげると、七海の華奢な身体がびくりと震えた。それから悔しそうにくちびるを噛み締める。自分に向けられた悪意に対応できなかったのだろう。

 彼女はこの場を離れて大人を呼んでくるか、隣にいるかを逡巡する素振りを見せた後、不自然に力のこもった僕の拳に両手を添えた。


「血ぃ、いっぱい出てるよ」


 丁寧に折りたたまれたハンカチを持つと、刺激しないように注意して傷口にあてがった。明らかに慣れた手つきで手際よく縛ってしまう。

 すぐに手縫いの花びらが血の色に染まり、その可愛らしい柄が台無しになっていた。僕はいたたまれなくなって顔を背けることしかできなかった。

 僕の心情を知ってか知らずか、七海は困ったように笑って手を握ってくれた。握る、よりも乗せるの方が近いかもしれない。

 

「人は支え合う生き物なんだって」


 へぇ。間の抜けた声を返していたと思う。七海はむくれた顔で睨んでくる。その瞳はいたずらっぽく揺れていた。


「せっかく真面目な話をしようと思ったのに!」

「ナツが真面目な話をするって、お化けよりも怖いんだけど」

「なにおう。ユウくんこそビビって泣いてたじゃん」

「そ、そんなことで泣いてない! 擦りむいたのが痛かっただけ!」


 言ってから、これは泣いてたことを認めてるようなもんだな、と頭を抱えたくなった。実際に抱えていたのは膝だったけど。

 

「しょうがないなぁ」


 どこか作り物めいた苦笑で呟いたのは、果たして七海だったのか、僕だったのか。どちらでも構わない。手足の震えはいつの間にかなくなっていて、思い出したみたいに彼女の温度を伝えてくれる。それだけが僕の記憶している全てだ。

 

「はいっ!」


 七海がそっと小指を差し出した。指切りげんまん。嘘ついたら針千本。僕はこれから一万本くらい飲むことになる。


「もう泣いちゃだめだよ。指切りげーんまん!」


 仲間はずれの柳の下で、二人の小指が絡む。いつか見た影色に隠されてしまった夢の続き。 

 このたった一つの出来事で、僕の世界が根本から覆されたんだ。

 彼女の無邪気な声が頭から離れなくなったのは。彼女の優しい香りで心臓が飛び上がるようになったのは。彼女の柔らかい肌に戸惑いを覚えるようになったのは。

 恋だと知るには余りに幼かったけれど、間違いなく、僕の世界に『藍田七海』という名前が記された思い出の夜だった。



 それは七海にとっても同じだったのだろう。残念なことに、甘美な思い出はニュータウンと呼ばれるようになったコンクリートの丘の下に埋没してしまったけれど。

  

「ナツ」


 優しく声を掛ける。いつも七海がしてくれるみたいに、優しく。彼女はハッと顔を上げ、すぐさま薄い桜色のくちびるがぐにゃりと曲がった。


「ユウくん……なんで……」


 僕がここに立っていることを信じられないのか、泣き腫らした目を擦っている。


「そりゃあ、遠ざけようとしていたヤツが急に現れたら驚くよな。でもさ、僕が七海を遠ざけようとしたとき、七海は僕の傍にいてくれたよね」

 

 何年越しの恩返しだろう。いや、恩返しなんか関係ない。僕が命を懸けてまで七海を探す理由なんて、一つしかない。

 

「ナツが泣いてたから」

 

 好きな人が泣いている。それ以外にどんな理由が必要なんだ?

 突然に、風向きが変わった。淀んだ空気が一掃されたような気がした。今こそ、失くした言葉を伝える時がきたんだ。 

 

「一度言ってしまったら、二度と言うことができない言葉ってなんだと思う?」


 意味のない問いかけ。だから、答えは言わせない。考えさせる時間なんて与えない。僕が何千、何万、何十万という時間をかけた末に辿り着いた答え。さんざん悩んで決めた答え。

 泣きそうになるのを堪えて、大きく息を吸い込んだ。


「結婚しよう」

 

 そして未来からの〝忘れ物〟を七海に手渡す。一粒のダイヤモンドをあしらったシンプルな指輪。マリッジリング。つまり結婚指輪だ。

 僕の人生を左右するほどの価値を有した〝忘れ物〟。

 七海が消えてしまってから、少しずつお金を貯めて、本当の誕生日にこっそり渡そうと決意していた。未来を視た少女が持ってきたということは、僕はしっかりとやり遂げたのだと誇らしく思う。

 しかし、指輪はここにある。

 僕が立っている場所は、運命の外側にある世界。可能性の延長線上。そこで、一人の少女の力によって運命は確かに変わった。

 きっとこの世界に住んでいるほとんどの人にとってはどうでもよくて、僕と僕の手の届く範囲にいる人にとっては切実な変化だ。

 愛しい彼女の目が見開いた。息を呑む音さえ聴こえてくるように感じられた。

   

「七海、結婚しよう」


 人の数だけ愛の形がある。世界には七十億の愛が満ちている。どこかで耳にしたことがあるかもしれない言葉。

 たぶん、それは理不尽なくらい正しくて、色んな形の愛があってもいい。他の誰にとっても意味のない結婚をしたっていい。

 橋と結婚した人、犬と結婚した人、猫と結婚した人、木と結婚した人、壁と結婚した人、塔と結婚した人、アニメのキャラクターと結婚した人……死者と結婚した人。

 そう、冥婚という言葉がある。愛が生死を超越することができるのならば、死者同士が結ばれたところで何の疑問もないだろう。いいや、おかしいなんて言わせない。

 

「ほんと……ばっかじゃないの」


 雨が降り出したかと思えば、七海が大粒の涙を流して笑ったように泣いていた。自我崩壊の地平面(ロスト・ホライズン)が彼女自身の心を表しているというのは、こういうことなのだろう。

 迷子の子どもが母親とばったり出くわした、ちょうど驚きと嬉しさと寂しさが複雑に絡み合って、どの感情を表に出していいのか分からず泣いてしまっている、そんな不器用さが愛おしく思えた。


「涙、止まらなくなっちゃったじゃん」

 

 拭っても拭ってもそれ以上に涙が溢れてくる。ほんと。わけわかんないくらい涙が止まらない。

 また針千本追加だな。なんて、この期に及んで冗談めかして言ってやる。最後に、過去追いの蝋燭(ヴェルダンディ)の炎を彼女に向けた。

 七海は目を瞑り、いつかのように翳した手のひらを裏返した。


()()


 この日、思い出は偽物になった。



☆ ☆ ☆



 こうして物語は終わる。

 藍田七海という幼馴染の少女は、世界のどこにも存在しなかった。

 僕は妄想に恋をしていた。ただ、それだけの話。 



  


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