存在しない彼女 3
「鹿野子公園に向かってください」
僕の発した言葉をメアリーがマスターに伝えたきり、車内での会話はなかった。
楽しくおしゃべりができるような精神状態ではなかったし、ましてや暢気に会話を交わせる状況ではなかった。
一週間前は退屈な日々の中に取り残されていた。僕は、自分が生きているのはつまらない世界だと思っていた。今なら、僕がどれだけ恵まれていたのか分かる。唯一無二の幼馴染と一緒にくだらない会話で盛り上がれることが、どれだけ幸せだったのか分かる。
求めていたはずの非日常に遭遇して、やっぱり日常を望むだなんて、自分勝手な話だけれど。
そっと、変わり果てた街に吹きすさぶ風に耳を澄ます。
生きたい。
生きたい。
感情を押し殺して泣いている少女の声が聴こえた。
私を助けて。
私を忘れないで。
七海が泣いてる。僕が慰めに行かないと。
恩返し、しないと。
ロストの被害は鹿野宮市の北区だけに止まらず、南区まで拡大していた。細かい空の破片が家屋に突き刺さっているところを何度か目撃した。
マスターの運転技術はハリウッド映画に出てきてもおかしくないほど卓越していて、爆風で飛んできた飲食店の看板を華麗なドリフトで躱したり、横転したトラックや公道に散らばった突起物を縫うようにして避けてしまった。
この人は一体何者なんだ、と思わざるを得ない。もっとも、後にも先にも彼が素性を明かすことはなかったけれど。
南区と北区を隔てる川を抜けたあたりで、アスファルトの地面にぽつりと影が浮かんだ。その影は瞬く間に膨張し、一帯を飲み込んでしまった。
まるで何かが落ちてくるみたいに……。
「マスター! 空が落ちてくる!」
大陸と見紛うほど巨大な空の塊が僕らを押し潰そうしていた。マスターは全力でアクセルを踏み込んだ。ほとんど最高速度に達しているはずが、しかし影の端が見えることはなく、どんどん影の濃度は増していった。
「このままじゃ間に合わないよ!」
メアリーが叫んだ。
急ブレーキがかかり、シートベルトに体がきつく締め付けられる。こんなところで車を停めるなんて自殺行為に等しい。
驚いてマスターのほうを見ると、彼はハンドルを握りしめたままの体勢で息を吐き出した。眼下には火の海が広がっている。
彼は、ちょうど身を乗り出してきたメアリーの頭を優しく撫でて、
「行きなさい」
低い声で言った。
直後、小さな空の破片がフロントガラスを突き破る。僕らは急いで車の外に出た。しかし、マスターは運転席から動こうとしなかった。
「マスター……?」
彼は軽く会釈をすると、高級そうなパイプ型の煙草に火をつけた。これが最期の一服だとでも言いたげに。
手首に痛みが走る。
そこでようやく、メアリーが僕の手首を掴んでいることに気づいた。突き立てられた爪で皮膚が破れてしまっていた。
けれど、僕よりも遥かに辛そうに顔を歪める彼女を見ると、何も言い出せなかった。
視界が激しくぶれる。
メアリーが瞬間移動の能力を使ったのだろう。その瞬間に見た映像――地上に降り注いだ空の塊が黒塗りの車体を破壊する映像――は脳裏に克明に焼き付いた。
背後で聞こえる爆発音に耳を塞ぎ、よろめきながらも二人で走り出した。メアリーは涙で顔がぐしゃぐしゃになっていて、それでも折れずに前を向いていた。
「お兄さん。あなたのせいよ。マスターは死ななくてよかったのに!」
彼女の怒りに染まった目が僕を睨みつける。すぐに怒りは褪せていった。
「……ごめんなさい。お兄さんは何も知らない。だから、悪くない」
「僕のせいだよ」
僕が無能なせいだ。嫌になるほど知ってる。
どうしたらいい、どうすればいい、分からない……こうやって壊れたオルゴールみたいに自問するだけの屑なんだよ。
メアリーが苛立つのも無理はない。正しい怒りだと思う。
「……ウィスプさんみたいなこと言うのね。似てるよ、自分のことばっかり責めてるところ」
「そうかな」
メアリーは「似てる」と繰り返し言うと、
「……聞いて。ここではあんまり力が出せなくなってるから、瞬間移動はあと一回しか使えない。この一回はお兄さんの分だよ。マスターがあなたの為に残してくれたんだよ」
衝撃の事実に息を呑んだ。
たぶん、僕はメアリーと同じ顔をしてる。煤を乗せた熱風よりも、目頭の熱さのほうが気になった。
「どうして……」
僕なんか放っておけばいいのに。ぼっちでいさせてくれないのだろうか。
「ほら、マスターは間違ってなかった。お兄さんは誰かのために涙を流せる強い人だから……まぁいっかって思えるんだよ」
言葉は魔法だ。僕はそう思う。
「あああああああああああああああッ!」
生まれて初めて、心の底から叫んだ。
それだけで力が湧いてくる。言葉は魔法なんだ。
ここからは二年も登下校に利用した通学路。さらに北区は十七年も遊び倒した地元だ。公園までのルートは全て把握している。
やっと、パンドラの箱の中に埋もれた希望を見つけることができた。
田んぼ道を走り抜け、四体目の案山子の背中側にある細道をひたすら進めば、ぽつぽつと建物が見えてくる。
しかし建物はどこにもなかった。代わりに、至って予想通りな範囲で最悪の光景が広がっていた。
巨大な火柱がうねり、北区の住宅街が蹂躙されている。
時間が狂ってしまった腕時計に視線を落とす。高校生になったお祝いも兼ねて、七海から貰ったちょっと高めの誕生日プレゼントだ。
この狂った時計こそが、七海の生存を確かに示してくれるものだった。
七海の存在が消えてしまうと、彼女から貰ったプレゼントも消滅するだろう。時計があるということは、まだ七海とウィスプは接触していないことになる。
「こっちは行き止まり!」
空が落下した衝撃でバラバラになった建物の瓦礫、陥没したり地割れが起きたアスファルト、分厚い炎で造られた壁、天を焦がすほどに隆起した火柱が結託して僕らの足を止める。
目的地に近づけば近づくほど抵抗は激しさを増している。焦燥感を抑えて、急いでいながらも慎重に、危険な場所は迂回して進んだ。
そして、やっとのことで公園まで一直線に繋がった坂の上にやってきた。この坂道を下りきれば公園だ。
僕もメアリーも相当の体力を消耗したためか、肩を上下に動かして息をするのがやっとだった。
「もうすぐ公園だね」
「うん」
「公園に七海さんがいるの?」
「居ないよ」
公園には思い入れがある。もしも自分を見失ったとして、鹿野子公園を選ぶかと言われると微妙だった。微妙というより、行かないだろうな。
七海がそうするように、僕もあの場所に行く。
「でも公園の近くにいる」
公園と伝えたのは、鹿野宮市に住んでいる人なら誰でも知っていて、単純に分かりやすい目印になるからだった。
「あと少しだから頑張ろう」
自分自身を奮い立たせ、一気に坂を駆け下りた。
もっと速く。速く動け。
一秒でも早く七海に会いたい。僕を支えるたった一つの希望だった。
五十秒、四十秒、三十秒……!
そこら中に散乱した破片を避けながら、闇雲に走る。公園は目と鼻の先にあった。――だから、油断していた。
あらゆる災厄を詰め込んだパンドラの箱にどうして希望が入っているのか。とても簡単なことで、希望は災いなんだ。
最初は蝋燭の火のように小さな希望が、やがて醜いほどに肥大化し、大切なものを根こそぎ奪ってしまう。
僕の場合、希望の代償に失ったものが注意力だった。希望と絶望が紙一重であることを、すっかり忘れていた。
希望がそこにあるせいで。
「えっ――」
急に地面の感覚がなくなった。僅かに遅れて、自分の足が宙に浮いていることに気づく。アスファルトが崩れ落ちたんだ。
いつの間にか、道路にぽっかりと巨大な穴が空いていた。
前のめりになってしまった僕は、重力に逆らうことなど出来るはずもなく、真っ逆さまに空洞の中に落ちていった。
真下から全身にかかる風圧が死を連想させる。これで終わりだ。引き攣った笑いしか出てこなかった。
思えば、車に轢かれて幽霊になってしまったり、外出する予定だったのに間違えて部屋の掃除をしていたり、本当に間の悪い人間だったなぁ……。
やり直せたら、いいのに。そんなありふれた絶望が心を満たした。僕に友達ができたこと、七海に自慢したかった。
何もできなかった。やり切れない気持ちが溢れかえり、自然と涙が出てくる。すると柔らかいものが背中に触れた。誰かに撫でられているみたいだ。
首だけを後ろに回すと、金糸の髪が視界の端で舞っていた。
メアリーだ。
僕が名前を呼んだときには、重力も風圧も嘘みたいに消えていた。叫ぶことすらできなかった。
「僕は」
顔を上げる。公園まで数メートルの地点。人生で一番よく見たT字路。
手のひらは煤で真っ黒に汚れていた。
「もう、逃げない」
僕は振り向かなかった。後悔はいつでもできる。可能性がある限り、後ろを向いてはいけない。皆が僕に託してくれた想いを無駄にすることだけは、絶対にしたくなかった。
諦めなければ上手くいく。何とかなるさ。前向きな言葉だけを頼りに、僕はもう一度立ち上がった。
サイコロだって一の目ばかりを出すわけじゃない。振り続ければ六の目も出る。運命とはそういうものだと、どこかの魔女は言うはずだ。
噂をすれば影とでも言うべきか、炎の軍勢を背後に引き連れて、ゆっくりとこちらに向かってくる人影があった。
陽炎を搔い潜るようにして姿を現したのは、魔女の服装に身を包んだ小柄な少女だ。
「ウィスプ」
少女が自ら命名した仮の名を呼ぶ。
ウィスプはつばの大きな帽子を少しだけ下げて、うっすらと笑った。
「たまげたよ。まさかきみに先を越されるとは思いもしなかった」
「そう? 僕は先を越せるって思ってたけど」
強気に返すと、ウィスプはいよいよ戸惑いを見せた。こうして正面から対峙できることも、皆から少しずつ勇希を分けてもらったおかげ。僕一人の力じゃない。
「過去追いの蝋燭を僕に渡して」
「ほう。きみは七海のロストを止めず、十万人の命を巻き添えにするつもりなのかい」
「違う」
即答だった。
なぜなら、答えは決まっていたから。
「ナツのロストは僕が止める」
藍田七海。
笑顔が可愛くて、黒髪のショートカットが抜群に似合っているし、世話を焼きたがるのにどこか危なっかしくて、たまにあざとい、僕の大好きな幼馴染み。
十万人の未来? 鹿野宮市の存亡? そんなのどうだっていい。僕の愛した人にくらべたら何の価値もない。十億人でも釣り合わないくらいだ。
「僕はずっと七海と一緒に過ごしてきた。七海の両親が知らない秘密を山のように共有してきた。心置きなく何でも話せて、お互いに考えてることが何となく分かって、それでも喧嘩したりするけど、七海の隣で沢山の笑顔を見せてもらった。こんなこと本人の前では口が裂けても言えないけど、七海のことを誰よりも愛してる」
たとえ、幻だったとしても。
「僕は受け入れるよ」
恥ずかしさと興奮でどうにかなってしまいそうだった。
「奇蹟の雨はもう降ってたんだよ! 七海は生まれて来なかった。存在しなかった。でも、運命を捻じ曲げてまで僕に逢いに来てくれた。僕の人生のほぼ全てが七海なんだ! まるで神様が僕の為に寄越したみたいじゃないか!」
奇蹟に前借りをしてはいけない決まりはない。ついさっき教えてもらったばかりの言葉だ。僕はずっと奇蹟を前借りしていたのだ。
だがいつまでも借りているわけにはいかない。命一つ分という借金は莫大だ。僕が体験した様々な不幸で以ってしても、到底足らなかったのだろう。
「奇蹟の責任を取らなくちゃならない。七海の幻は僕が消さないと意味がないんだ」
僕には、神様に奇蹟を返す義務がある。誰にもその肩代わりをすることはできない。
「それに、もう逃げないって決めたから」
煤に塗れた手を差し出す。
ウィスプは、呆気ないほど大人しく過去追いの蝋燭を僕に手渡してしまった。
「未来を視たぼくが問う。それがきみの答えだね?」
隻眼の瞳が真紅に輝いていた。
足の指先から髪の毛一本に至るまで、ウィスプから迸る何らかの力によって貫かれた。輝きが消える。彼女なりの方法で言葉の真偽を確かめたのだろう。
「ぼくの命もきみに委ねるとしよう」
ウィスプは踵を返し、迫り来る炎の軍勢に向かって両手を広げた。と思いきや、彼女はくるりと体を反転させ、僕に目掛けて何かを投げつける。
それは綺麗な放物線を描き、僕の手元に落下した。二、三度くらい弾いて焦りながらもキャッチする。
「忘れ物だよ」
忘れ物?
身に覚えがなかったけど、念のために確認しておく。静寂に包まれた路の真ん中で、頓狂な声を上げてしまった。
まだ忘れてはいない、しかし紛れもなく〝忘れ物〟だった。未来予知の幽霊は、やはり最初から全てを見通していたのだろう。
「ありがとう」
感謝の気持ちを伝えたかった。
優しすぎる魔女はそれがお気に召さないようで、彼女の姿はそこになく、猛り狂う炎が生き物のように蠢いていた。




