存在しない彼女 2
鹿野宮市は危機的状況に陥っていた。
燃え上がる炎は恐ろしい速度で成長し、飢えた肉食動物のように見境なく建物を喰らった。さらに熱風が火の粉を運び、僕の肌をじわじわと焼いていく。進行方向に対して右にも左にも火の手があり、僕は虫かごに入れられた昆虫みたいに悲痛な声を出して逃げ回った。
しきりに何かが破裂した音が聞こえ、遠くの方からどす黒い煙が流れてくる。爆発しそうな工場があるルートはなるべく避けて自転車を走らせた。
あちこちで噴き出る炎や、奈落に引きずり込まれたかのように崩落したアスファルトが、僕の行く手を幾度となく阻んだ。
ジャック・オー・ゴーストから総合病院まで普通に行けば三十分もかからない距離のはずなのに、到着まで一時間以上も要してしまった。
その間、人とすれ違うことは一度としてなかった。不審に思ったけれど、普通の人は自我崩壊の地平面の内側で存在を保っていられないのだろう、と推測を立てて自分を納得させた。僕の推測は正しかったのだけど、この時点では正解を求めていたというより、余計な思考のせいで取り返しのつかない事態を招かないように気を付けていただけだった。
総合病院もロストの被害に遭っていた。外装は煤で汚れきり、激しい炎に包まれている。特に五階よりも上の階は、とてもじゃないけど立ち入ることができなかった。
足を踏み入れることが可能な範囲でくまなく捜索した。でも、いくら探しても光の足跡は見つからなかった。
十七年前の六月二十三日、七海は病院に居なかったことになる。
「足跡……見つからなかった」
と、ウィスプに電話で報告した。
『なるほど。これで何もかも解った』
「なにが?」
『最悪の可能性はゼロになった』
総合病院を出て、あまり被害の出ていない鹿野宮駅の支柱にもたれかかった。
「よかった……」
安堵から腰が抜けたみたいになってしまう。七海が暴行された挙句に殺されたという可能性はなくなったらしい。
僕が答えてから数十秒間、ウィスプからの返事はなかった。不審に思ってスマホを見ると、『通信が不安定です』と表示されていた。
通信不良の表示が消えた直後に、ノイズ混じりでウィスプの声を聞き取った。『より最悪――』
最悪よりも悪いこと?
「どういうこと?」
今度はすぐに返事が来た。
『ぼくらは一般的に母親の胎内から赤ん坊が出てくることを〝産まれる〟と呼んでいる。だが出産とは生命を生み出すことではない。人間の場合なら、生命の誕生は受精の瞬間であるはずだ』
「うん」
『産まれるよりもずっと前から生きている。ぼくが分からなかったのは、七海がどうしてこれほどのエネルギーを溜め込むことができたのか。彼女自身が死に無自覚だったのか。もし、殺されたのだとすれば、明確な殺意を身に受けたことになる。すると何かの拍子で思い出す確率が非常に高くなってしまう。彼女は特別勘の鋭い女性だからね。気づかないはずがない』
だから、とウィスプは間を置いた。
『そもそもの前提が間違っていたんだよ。絶対に自覚できない死があるとすれば、それは自我が芽生えるよりも早くに命を落とした場合だ。キーワードは七海の誕生日だった。彼女の両親は本当に一カ月も出生日を勘違いしていたのだろうか? 藍田七海は七月二十三日に生まれる予定だったのではないだろうか?』
ウィスプの問いに鳥肌が一斉に立った。
過去追いの蝋燭が映すのは生者の足跡。死者の足跡は映さない。
七海の誕生日が六月二十三日に変わってしまった理由は……。
「……死産?」
スマホを握る手が震えていた。
『うん。七海は生まれて来なかった人間だった。始めから藍田七海という人間はこの世に存在しなかったのさ』
「そんな……」
『生まれて来なかったという表現には誤謬があるがね。母親の腹から出ることなく胎児のまま生を終えたとはいえ、彼女が立派に生き抜いたことには変わりない』
「違うッ! ナツはちゃんといるじゃないかッ!」
『……ロストした。ロストは死者に起こる現象だ。胎児の時点でロストしたことにより、七海は自覚することがないまま現在まで幻を維持することができた。したがって、彼女が想像を絶する苦しみを味わって命を散らしたという可能性はゼロになる。オーディンが生み出すこの炎は殺意のように禍々しいものではなく、生命のスープたる原始の炎だったというわけだね』
倒れてしまいそうになる体に無理して力を込める。
非常識にも程があった。なんて、幽霊になってしまい、ロストという現象を直に経験した僕に言う権利はないのだけど。
おかしい部分はある。仮に今まで七海が死んでいたとして、七月二十四日の夏祭りの夜、僕は彼女が死ぬところを目撃している。
『空を見たまえ』
燦々と降りかかるはずの真夏の陽差しはそこにはなかった。紫がかった妖しい光で染まる空は、地上から突き上げた火柱に炙られ、めくれあがり、剥がれ落ちた。
空が落ちた。
決して交わることのない天空と大地が、自我崩壊の地平面の内側で交わってしまっていた。
隕石が落下したかのような轟音が響き渡り、地響きが僕のところまで伝わってきた。空の落ちた場所は悲鳴を上げて燃えていた。どうなっているかなんて知りたくもない。
『本来ならば発散するはずの存在因子が収束している。七海の二度目の死に起因するのか、莫大なエネルギーが内側に向いている。このままでは自我崩壊の地平面は崩壊する』
「崩壊すると……どうなるの?」
『何もかも消える。鹿野宮市が日本の地形から消えてしまう。世界から十万人もの運命の糸が断ち切られ、人々からは永遠に忘れ去られ、ぼくたちは想起の機会すら与えられないだろうね。途方もない規模の運命の揺らぎが世界を襲い、未来を大きく改変する。そんな偽物の未来は絶対に回避しなくてはならない』
電話越しに聞こえるウィスプの声には決意が満ちていた。七海を何としてでも止める気だろう。そして、僕に選択を迫っているんだ。
七海を見捨てるのか。十万人の命を見捨てるのか。
僕がどちらを選んでもウィスプは動くだろう。結果は変わらない。でも確実に僕の未来が変わる。七海を殺すことと、七海が殺されることでは意味合いが違う。
『きみに彼女のために祈る覚悟はあるかい?』
祈り……?
たった一言を引き金に記憶がフラッシュバックする。ウィスプは言っていた。
――ロストした人間は存在を空間に保存することができない。消滅すると死んでからロストするまでの時間が失われてしまう。
死んでからロストするまでの時間だって? 七海が死んだのは十七年前の六月二十三日だとすると、そこから歩んだ全ての時間が失われることになる。
どちらにしろ、藍田七海という存在は消えてなくなって――
「嘘だろ……嘘だって言ってくれよ」
否定の言葉が薄っぺらい端末の向こうから聞こえてくることはなかった。
『きみに残された選択肢は少ない。ぼくはこれから十万人の未来と引き換えに七海を殺し、世界を正しい姿に導く代償として、彼女の存在全てをこの世から葬り去る』
そうなれば世界中の誰もが七海の存在を忘れてしまう。幽霊でさえも。生まれて来なかったことになるのだから。
『不服であるなら、せいぜいぼくを見つけて止めることだ。ただし、十万人の未来が犠牲となり、ぼくらも重力崩壊を起こした星の運命を再現するかのごとく圧縮するこの空間に飲み込まれるがね。どちらにしても七海が消えることには変わりない。〝消える〟の意味が異なるが……』
言い返せる気力もなかった。
ロストを食い止めることができれば、七海が消えることはない。そんなふうに誤解していた。
僕らの歩いていた道はスタートラインから歪んでいたなんて誰が思っただろうか。
もともと生まれるはずのなかった人間が、ロストのおかげで生まれてくることができた。偽りの歴史。
今やロストのせいで〝人間〟の存在が消えようとしている。多くの人を巻き込んで。ロストを食い止めれば、偽りの歴史は修正される。〝人間〟は生まれない未来へ移動する。
頭がこんがらがって沸騰寸前になっていた。理解できないという意味ではない。ぐちゃぐちゃになった感情を制御することができなくなっていた。
七海を救いたい。鹿野宮市の十万人なんて、自分の命なんて、どうでもいい。これが本音だ。けど、二択のうちのどちらを選んでも七海を救えなくて……どうしろって言うんだ?
こんなとき、ナツならなんて言うだろう。迷うことなく皆が助かるほうを選ぶだろうな。想いだけを遺して死ななくて良かった……って。
七海のことは僕が誰よりも分かっている。優柔不断な〝僕〟は要らない。七海になりきるんだ。彼女なら、どうするか。
「僕に手伝えることはある?」
『ない』
それは、ウィスプが口にした最も短い言葉だった。
僕が呆気に取られていると、
『きみが居ても邪魔になるだけだ』
冷たく突き放される。
「そうだろうけど……」
『決心がついたならそれでいい。きみは無神経さだけが取り柄なんだから、家でのんびりと寝ていたまえ。目を覚ましたときには全てが元通りになっている。全部、夢だったのさ』
「寝るの? こんなときに?」
すると電話の向こう側から「ふっ」と声が漏れた。
『デカルトは言った。我思う、ゆえに我あり。七海のフリをしているきみはただの木偶だ。きみはきみであることを忘れてはいけないよ』
社会科で習った格言だ。あらゆるものを疑え。夢さえも。
『疑って、疑って、しかし最後には自らの手で未来を選ばなければならない。いいかい幽希、確かなのは自分の意思だけだ』
突然通話が切れた。ネットワークも圏外になっている。ロストの影響を受けたのかもしれない。
僕は糸の切れた人形のようにへたり込み、放心していた。
二十四時の鐘が鳴り、魔法が解けた灰かぶりの少女に、僕は似ている。魔法の力がなければ、一人では現実に立ち向かうことができない、どこまでも無力な人間だった。
確かなのは自分の意思だけ。
そう言われて、自分を信じて行動に移せる人はそんなに多くない。僕はもちろん多くないほうの人間だった。もし、僕がやるべきことを見極めて行動できる性格だったら、前世でぼっちなんかしていなかったと思う。
ぐずぐずしているだけの自分が嫌い。僕は〝僕〟という人間が大嫌いだ。
ウィスプからの電話が切れた後、僕は一縷の望みをかけて『仲直りのカフェ』を訪れた。ひょっとすると、七海が何食わぬ顔して座っているんじゃないか。そんな淡い期待を胸に抱いて。
しかし、現実は妄想のように都合良くはいかない。ジャック・オー・ゴーストよりもさらに寂れた通りに店を構えているだけあって、誰一人として座っていない空席だらけの店内にはある種の貫禄すら感じていた。
期待していただけに落胆は思いのほか大きいものだった。諦めて引き返そうとした時、店の奥から「いらっしゃい」と嗄れた声がした。
僕は一番近くの席に座った。だがいくら待っても何者かは姿を現さない。痺れを切らして立ち上がると、
「座って話しなさいな」
それは心を直接掴まれるようなトーンだった。体が勝手に命令を聞き入れて座ってしまう。僕は瞬時に理解する。この人は普通の存在じゃない。
僕と七海のことを話してもいいのかと葛藤したけれど、一人でも多く彼女のことを憶えていて欲しいという思いから、一つ一つ話していった。
不思議と言葉に詰まることはなかった。堰を切ったように溢れだした感情が、僕を流暢に喋らせていたのかもしれない。
「そう……大変だったねぇ」
セリフの裏側に一抹の寂しさが秘められているように感じられた。
「七海ちゃんと会わなくていいのかい?」
「会いたいですよ。でもどこにいるのか全く分からなくて……」
「案外、二人の思い出の場所にいるかもしれないよ?」
思い出の場所。
七海との思い出の場所なんて、ありすぎて絞りようがない。それだけじゃない。七海は未来を視せてもらったと言っていた。
未来を知っているのなら、思い出の場所は必ずしも過去にあるとは限らないじゃないか。未来にあってもおかしくないのだ。
まだ僕の知らない思い出を捜すことなんて……。
「僕に友達がいたら」
もっといい考えが出せるに違いない。僕の性格ではどうやっても思考が悪いほうへ流れていく。それを軽く吹き飛ばしてしまえるような、そんな友達が隣にいたらどんなに心強かっただろう。
七海を失った僕はもはや、真の意味で価値のない人間に成り下がっていた。ただ意思のある屍だ。
「幽霊だと思ってたのだけどねぇ」
「どっちでも同じ意味ですよ。僕は友達のいない幽霊だから」
「おや、友達ならもういるじゃないか。ほら――」
扉が勢いよく開かれた。血相を変えて飛び込んできたのは、メアリーと、そして見るからに弱った蒼佑さんを抱えたマスターだった。
メアリーの金色の髪の隙間から見える麗らかな碧い瞳が、僕をじっと見据えていた。マスターは顔の右半分に酷い火傷を負っており、赤黒く焼け爛れた組織がハンドマンを思い起こさせた。
「みんな?」
「圭吾くんが、お兄さんはここにいるって言ってたから」
ケイさん? そういえば、地縛霊だから他人の居場所が分かると言っていた。しかし、肝心のケイさんの姿が見えない。
「ケイさんはどこに?」
今にも泣きだしそうな顔で、メアリーは首を小さく左右に振った。
「空が落ちてきたときに私たちの家が巻き込まれて、圭吾くんは潰れた家に閉じ込められた私たちを逃がそうと……最後まで、戦いました」
業火に身を焼かれながら咆哮を上げ、したり顔でメアリーたちの背中を見送る、そんな勇敢な男の姿が脳裏を過った。目の前で起きた出来事のように鮮烈な映像だ。
理解の範疇をとっくに超えてしまい、ついていけずに狼狽えている僕の肩を、息も絶え絶えの蒼佑さんが叩いた。
「はぁっ……幽希くん、君に言わなければならないことがある。ウィスプがおれらのところから去るときに、七海ちゃんの話はしていたけど、君については一切触れることがなかった。動向なんか気にする必要がないって感じだった」
苦しそうにうめいた。ヒューヒューと喘息の発作を起こしたみたいな掠れた呼吸音が耳に残る。
蒼佑さんは歯を食いしばり、言葉を紡いだ。
「そこで、おれらなりに考えてみたんだけど、この空間は少なからず七海ちゃんの心を反映してる。七海ちゃんが君だけは傷つけたくないって願ってるとしたら、どうすると思う?」
「安全なところに遠ざける?」
「やるね。おれらもそう思った。事実、幽希くんはヤバいことになってる北区から、ほとんど被害の出てない南区に来てる。七海ちゃんが誘導してるように思えてならないんだ」
七海が誘導してる? 僕を? まさかそんな仮説があるなんて。
いや、待てよ。
もう二度と七海に会えないかもしれないっていうのに、どうしようもないくらいに膨れた不安が破裂してしまいそうだっていうのに、行動を抑制されているような感覚が確かにあった。たった今、気づくことができた。
ウィスプの望む未来にとって、危険因子であり不確定要素の僕を真っ先に止めなかったのは、僕の行動が七海に操られていることを知っていたからか。
でも、自分が操られていることに気づけたところで何になる? 薬物依存を自覚しながら抜け出せない人と同じで、操り人形に自由はない。
「おれがいるから大丈夫だよ。ドッペルゲンガーの力で幽希くんに成りすます。七海ちゃんが混乱している隙に、幽希くんはマスターたちと北区に行って。おれの体がいつまで持つか分かんないけど、できる限り時間を稼ぐから」
「なんで僕のために……そこまでしてくれるんですか」
蒼佑さんは爽やかな笑みで言った。「友達だからに決まってるじゃないか」
心に稲妻が走り、鼻の奥がつんとした。
手首で目元の汗を拭っていると、蒼佑さんは白いチノパンのポケットから手鏡を出し、鏡面に僕の顔を映した。
「急いで」
僕と瓜二つの顔をした蒼佑さんが微笑みかける。物凄く気持ち悪かった。それは黙っておこうと心に決め、蒼佑さんを店に残したまま、僕とマスターとメアリーの三人で車に乗り込んだ。
運転手はマスターだった。悔しいけど運転席がよく似合っている。
エンジンがかかり、車体が小刻みに振動を始めた。やがて遠ざかっていく『仲直りのカフェ』を見やる。
蒼佑さんは僕のことを友達だと言ってくれた。メアリーもマスターもいる。何もかも上手くいく気がしてきた。
まるで奇蹟が起きたみたいだ。何もしていないのに、いいのだろうか。
「いいんだよ。奇蹟を前借りしちゃいけないって決まりはないからね」
どこからともなくあの声が聞こえた。
「それから、あの子に言っとくれ。『魔女ごときがでしゃばるんじゃない』とね」
少しだけひねくれているけど、僕への激励のつもりなんだろう。笑いそうになるのを堪えて、七海との過去に思いを馳せる。
僕と七海の思い出の場所。一つだけ、心当たりがあった。




