存在しない彼女 1
浅い眠りについていた僕を起こしたのは、目覚まし時計の爆音ではなく、地震のような激しい揺れだった。
金縛りにあったかのように、僕はベッドの上から動くことができなくなる。
揺れはすぐ収まった。体が自由に動くようになると、頭痛と共に胃の内容物がせり上がってきた。一階にあるトイレに駆け込み、食べ物がどろどろに溶けて濁った液体を吐き出し、不快な汗がべったりとへばりついた額を手の甲で拭った。
ずきずきと痛む頭部をさすりながら自室に戻る。ぞっとするくらいの静寂が部屋を満たしていた。
いつものようにカーテンを開き、そして、背筋が凍りついた。
「どうなってるんだ……?」
そこにあるはずの日常が跡形もなく消えていた。
鹿野宮を鳥かごのように囲っていた山々は消えており、代わりに天を衝くほどの火柱が上がっていた。空は焼けた鉄のような赤光を放ち、降りしきる黒い雨が家屋を汚していた。
これは夢かもしれない。
ベッドの上でじっと夢が醒めるのを待っていたが、一向に醒める気配はなく、窓の向こうの景色を見るたびに火柱が迫ってきているような気がした。
鹿野宮市が燃えている。というより、炎の壁に閉じ込められている。緊急事態だということは、まさに火を見るより明らかだった。
僕は枕元に置いてあったスマホでMAKEを開き、七海に報せようとする。が、昨日から返信が来ていなかった。電話をかけても繋がらなかった。
七海に何かが起きている。
窓の向こうで起きている現象と関係しているかもしれない。ふと、尊大な態度をとる少女の姿が脳裏を過った。
「あいつなら」
分かるかもしれない。悩んでいる時間もなさそうだ。
僕は居ても立ってもいられなくなり、着替えもせず家を出た。陽炎に歪んだ景色からは想像もつかないほどアスファルトは冷えている。
生憎の向かい風で黒い雨が顔にかかる。よく見るとそれは雨ではなく煤だった。
まもなく、僕はジャック・オー・ゴーストに駆け込んだ。
ぬめりと汗が零れ落ち、全身は煤にまみれていた。けれど、そんな些細なことを気にしている余裕はない。
暗い店内には場違いなほど爽やかな鈴の音が響き渡る。
「やぁ、遅かったね」
やけに凛とした声が掛かる。
明かりのない店内でも一目でそれと分かるくらいに深い漆黒のドレス。つばの大きな帽子の下に、片目を隠した包帯の白が浮かんでいる。
小柄な魔女はいつもと変わらない態度で僕を迎え入れた。
「先ほど圭吾から電話があった。蒼佑の容態が良くないらしい。ぼくはこれから蒼佑に因子安定剤を投与しに行くのだけれど……」
「何が起きてるの?」
会話を遮って訊ねる。
「そうだね」
どこか上の空みたいなため息を吐くと、ウィスプは右手を斜めに上げ、虚空を引っ搔くように下ろした。
「きみも気づいているだろうが、ぼくらはすでに自我崩壊の地平面の内側にいる。……時間切れってことさ」
時間切れ。自我崩壊の地平面。それらの意味を訊きかえすほど愚かではなかった。
肺が潰れた気がした。現実はすでに取り返しがつかないほど腐り果てて異臭を放っていた。
少し考える。
ついさっき経験したばかりの激しい揺れの正体は、おそらく運命の揺らぎ。しかし敏樹さんの捜索の時に感じた揺れよりも桁外れに大きい。
まだ疑問が残る。ウィスプは確か『七海に残されていたのは、七月二十五日から七月三十一日まで』という言葉を使っていたはずだ。
僕の記憶では今日はまだ七月三十日。全てが終わったと決めつけるには早い。などと無意味に近い希望的観測で心の安定をはかっていると、ウィスプはうんざりした表情で首を振った。
「七月二十八日の朝になる」ウィスプは強い口調で言った。「七海がぼくにした依頼は全部で三つ。まず一つは、彼女にきみが経験する未来を教えること」
僕は黙って耳を傾ける。
「もう一つは、きみの時間を二十四時間だけ遅らせること。これに関しては簡単だった。幽霊のための調味料である〝スツルム・リウヴィル・ペッパー〟は、非常に美味だが多量に摂取すると眠気を誘発する作用がある。さらに〝二日前の水曜日〟は調味料ではなく劇物だ。因子安定剤の原料であり、ごく少量を服用するだけで知覚を鈍らせてしまう……ほらね。きみの脳では今日が七月三十日だと認識されているだろうけど、本当の世界は一日も進んでいる。彼女のデッドラインは今日になるんだ」
がらりと世界が変わった。
幽霊になってから四日目。ラタトゥイユを食べ終えた僕は、いつの間にか眠っていた。あの夕暮れは二十八日のものではなく二十九日だとすれば、昨日の七海の言動に納得がいく。
でも何のために? 僕の時間を遅らせる必要があったのか? 七海の意図を吞み込むことができずに混乱する。
「それが七海の狙いだったのだろうね。きみの心が壊れてしまわないように……誤解のないように言っておくが、彼女はただきみのことだけを考えてぼくに依頼をした。存分に自惚れるといい。きみにはその権利がある」
「……最後の一つは?」
「三つ目の依頼は――うん。落ち着いて聞きたまえ。七海の最後の依頼は、ぼくが彼女のロストを滅びを以って食い止めることだ」
直接的な表現に言い換えれば、七海を殺すということだろう。
意思とは関係なく膝が震え出した。待て、落ち着くんだ。七海が僕のことだけを考えて依頼をしたというのだから、隠されたメッセージがあるはずだ。
「それは七海が見せてもらったっていう、未来と関係してるんだよね」
「否定はしない。未来といっても漠然としたものだろうし、果たして七海がどこまで知ることができたのか……ぼくには分からないがね。それと、自我崩壊の地平面の内側は時間と運命から隔絶されている。つまりぼくの力は頼りにならない」
「視えないの?」
「全くね。まぁ、七海に未来を見せてしまった時点でぼくの力は失われているから、気にすることではないが」
見ているだけで痛々しい包帯を指で叩いた。
代償だとでも言いたげな表情をしている。ウィスプという少女の人間性から考えると、自分に不利益を被るような依頼を易々と引き受けるだろうか。
七海は知り合いだとしても、依頼料が払えなければ即座に突っぱねるだろう、という信頼があった。
「きみが心配する必要はない。七海はいとも容易く依頼料を支払ってしまった。何十年も続く未来へ相当する対価をね」
おおよそ金額の話ではない口ぶりだった。
ウィスプはそれ以上何も語らなかった。二人の間でどのような取引がなされたのか、僕が知り得る機会は金輪際ないのだろう。
不意に、ウィスプの纏う雰囲気が変わる。研ぎ澄まされた刃物みたいに危険で、体の芯から熱を奪われるような、どこまでも冷たいオーラをひしひしと感じた。
「さて、情報には価値がある。その対価として、きみにはぼくに情報を開示する義務が発生した。ぼくはきみから教えてもらわなければならないことがある」
次いで、鋭い眼光が全身を穿つ。
「ぼくは〝過去追いの蝋燭〟を使って七月二十四日の七海の足跡を調べてみた。しかし、不可解なことに彼女の足跡を発見することはできなかった。過去追いの蝋燭は生者の歩んだ過去を映し出す。逆に言えば、死者の足跡を映すことはできない……ここまで言えばもう分かるよね?」
七海は死んでいたことになる。僕が知っているよりも前に。
「ナツは死んでいたなんて……そんなっ」
でたらめだ。
ウィスプは何を言ってるんだ? 夏祭りよりも以前に七海が死んでいた? 軽くパニックを起こしかけている僕を一瞥し、
「幽希、よく思い出してくれ。七海が本当に死んだのはいつなんだい?」
諭すように問いかけた。
店内が赤々とした光で満ちる。窓の外から差し込んだ光だ。九丁目の廃れた商店街が炎に包まれていた。エンドレスに流れるクラシック音楽だけが、この世の全ての音だと思えるくらいの静寂。同じ曲を聴き続けていると時間が止まったように思えてくる。
あぁ、本当に止まってしまえばいいのに。急速に鼓動を速めた心臓がうるさい。
七海の命日。いつだ、いつなんだ……。蓄積された思い出の中から違和感を探る。おかしい部分はなかったか。僕らの間に致命的なズレはなかったか。
最悪なことに、思い当たる出来事があった。それも昨日のやり取りで。
「ナツが変なことを言っていた。南区にあるユウレイランって店。その店が建っていた場所は昔から空き地になっていて、幽霊になってから突然視えるようになった。でも……ナツは『ずっと前からあった』って言っていた」
そこまで言うと、ウィスプは納得したように大きく頷いた。
「なるほど。ユウレイラン……きみたちは死者の店を訪れたわけだね。理解したよ。きみが感じていた認識の齟齬は非常に重要なものだ」
窓の外へ向かって指を差した。
「七海が生み出した自我崩壊の地平面は鹿野宮市全域にまで展開されている。前日のハンドマン現象での自我崩壊の地平面は山の一部だけだと考えると、その差は歴然だ。つまりそれだけ七海が心の内に抱えていたエネルギーが大きく、また自らの死に気づかなかった時間が長いということになる」
おもむろにスマホを取り出し、電話をかけ始めた。
「やぁ、メアリー。ぼくだ。今すぐジャック・オー・ゴーストに来てくれ……おっと仕事が早いね。幽希とは違って優秀な人材だよ」
言い終わる前に金髪の少女が店内に現れた。瞬間移動の能力を使ったのだろう。
僕が驚いて身を引いたのに構わず、メアリーは言った。
「どうしたの?」
「藍田七海を怒り狂える死者と断定した。推定される被害者の数は十万人以上だ。四年前の災厄が再び起ころうとしている。ぼくらはそれを何としてでも阻止しなければならない。まずは蒼佑のところに連れていってくれ」
「わかった」
メアリーがウィスプの腕を取ろうとする。
僕は彼女の手首を掴んで止めた。
「待って。全部話してからでも遅くないだろ」
一瞬、ウィスプの目が泳いだ。彼女のあからさまな動揺を目にするのは初めてだった。しばらく見つめ合うと、やがて観念したように口を開いた。
「ロストには種類がある。ハンドマン、双生ホムンクルス、そしてオーディン。七海のものはオーディン型に分類される。オーディン型の特徴は怒りを表したような炎だ。最奥部から動くことのないハンドマンとは違い、自我崩壊の地平面内を移動するといった性質がある。移動というより彷徨うの方が正しいがね」
「彷徨っている……」
「そう。宛てもなく彷徨ってしまうのは、命を落とした場所を彼女の魂が憶えていないのだろう」
すると、ウィスプは僕に背を向けた。
「これはあくまで最悪の喩えだ。七海が何者かに目隠しをされたまま誘拐されたとしよう。もしかすると聴覚も遮断されたのかもしれない。そして集団で暴行された上に殺害された……とすれば、全てを焼き尽くそうとするあの炎も、彼女が棺桶の置かれている場所を知らずに探し回っていることも納得できるだろう」
最悪の喩え。僕は怒りよりも先に恐怖で震えた。ありえないことではないからだ。七海は可愛い。僕の目からは世界一だと思っているくらいに。
だから、無理矢理にでも襲ってしまおうと考えるやつが居てもおかしくはない。仮に真実だったとして、七海の心にどれだけ凄惨な傷痕を残したのか。それを今日までひた隠しにすることによって、どれだけ心が疲弊したのか。僕には想像もつかない。
――死にたいって思ってた。七海の声が聞こえた気がした。僕は思わず耳を塞いだ。
「可能性があるんだね?」
「平和な日本ではいささか非現実的な確率だが、世界では当たり前のように起こっている事実ではある。もっとも、今からきみに頼むのは〝最悪の可能性〟をゼロにすることだ」
振り返ると逆さまの蝋燭を取り出した。
蝋燭の火の穂先が風もないのに揺らいでいた。
「七海の誕生日はいつだい?」
「六月二十三日だけど……」
七海の両親が揃って日付を一カ月間違えていたという話を、彼女から聞いたことがある。
「十七年前の六月二十三日……よし」
生年月日を書き記した紙を燃やしていく。過去追いの蝋燭の儀式のようなものだろう。
「もしかすると、真実は最悪よりも悪いかもしれない。ぼくは魔女だから、きみの心を容易に踏みにじる。覚悟はいいね?」
覚悟か。意気地なしと言われた僕に覚悟を求めるのか。
「ふふっ、いい目ができるじゃないか」
ウィスプの虹彩が紅く輝いたように見えた。
「鹿野宮総合病院に向かってくれたまえ。真実はそこにある」
【ちょっとだけ解説】
①スツルム・リウヴィル・ペッパーの元ネタ。
『スツルム=リウヴィル型微分方程式』という線形微分方程式から。(ジャック・シャルル・フランソワ・スツルムとジョゼフ・リウヴィル)要するに意味はない。
➁Ignis-Atlanta理論の元ネタ。
前述の二人によるSturm-Liouville理論っぽく。シュタゲのアトラクタフィールド理論も混じってたり混じってなかったり。ちょっとカッコよかった。




