指切りげんまん 3
僕と七海は、一日かけて精一杯の無駄を満喫した。
ランチはファミレスで、電車は二回も乗り過ごしたし、目当ての店は混雑していてまともに回ることはできず、オープンしたばかりのケーキ屋は二時間待ち。おまけに新作の映画は死ぬほど詰まらなかった。ポップコーンが喉を通らなくなるのは流石に初めての経験だった。
デートとしては最悪だったと思う。
それでも、七海から笑顔が絶えることはなかった。「最悪だよ」と笑っている彼女がこんなにも魅力的だなんて知りたくなかった。
もしかすると、明日は当たり前のような顔をしてやってくるのではないかと期待してしまう、まさに学校帰りのような一日だった。
今朝はだらしなく膨らんだ腹を見せていた雲は、日が暮れるとすっかり薄っぺらくなっていて、月の光が隙間を抜けて差し込んでいた。
帰り道は二人で自転車を押しながら、実に他愛もない、ありふれた会話をしている。今日、明日、明後日という日常を、一か月後、一年後まで(或いはその先だって)普通に生きて、普通に泣いて、普通に笑って過ごせる人たちのように。
僕らの関係は変わらなかった。変われなかった。……変わらなくて良かった。
もしも、僕らを隔てている透明な壁が壊れてしまった――二人の心の距離が近づいてしまった――としたら、直にやってくる永遠の別れに耐えられず、破滅してしまうことを知っていたのだろう。
しかしながら、望んでいたものを手放すのは容易ではなかった。何年もの間、滑稽に思えるほど一方的に七海との関係が縮まることを望んでいたのだから。
七海の笑顔を見るたびに胸はどうしようもなく高鳴って、もっと笑って欲しいと願ってしまう。或いは、その笑顔がもっと特別な人のために向けるものであったら、と願わずにはいられなかった。
僕らがしていることは、腐りかけた現実を直視してしまわないように、掛け替えのある日常を演じるという稚拙な逃避に過ぎなかった。
鹿野宮駅周辺を照らすネオンの光から遠ざかり、鹿野子公園まで繋がる路に差し掛かると、夏虫の声が途切れ途切れに聞こえてきた。
もうすぐ七海と「さよなら」をしなくちゃならない。少しでも長く一緒に居たくて、わざと足を遅くする。七海は黙ってそれに合わせてくれた。
そうまでして作った、ほんのわずかな時間でさえも中身のない会話に費やした。告白する機会なんていくらでもあったのに、何故そんな選択をしたのか自分でも分からなかった。
「これからどうする?」
公園の入り口にあるU字をひっくり返した形の車止めに腰かけ、七海が訊いてくる。
「せっかくだから公園に寄ろう」
返事を待たずに公園に入った。ややあって、七海の足音が聞こえてくる。
長年にわたり風雨にさらされていたベンチは、色褪せた木材が剥き出しになっていて、手を乗せただけでも壊れてしまいそうだった。上にはビールの空き缶が二つ置いてあり、片方は潰れて横になっていた。
ベンチの前に自転車を並べて置き、何がどうしてそうなったのか説明することができないけれど、一回ずつすべり台で遊び、砂場に手足を投げ出して寝転んだ。夜の魔法でテンションが上がっていたせいか、馬鹿みたいに笑えた。
背中に付着した細かい砂を交互に払い落し、今度は微かに錆びのにおいが立ちこめるブランコに座った。
しばらく漕いだ後に、振り子のように揺れる体が自然に止まるのを待った。完全に止まるとまた地面を蹴る。意味もなく繰り返した。
回数を重ねるごとに月の位置がゆっくりと変わっていき、それは失われていく時間を意味するのだと心の中で嘆いた。
僕はどうすればいいのか。嘆くばかりでは何も解決しないことは分かっていたけれど、僕一人の力では運命を覆すことなど到底できない。
七海の消える原因が未来にあるのなら、まだ可能性はあった。しかし過去に原因があるというのだから、手の打ちようがなかった。希望は絶望の波にさらわれてしまっていた。
僕は未来が視える少女に思いを巡らせる。この世でただ一人、あらゆる物語の結末を知る少女は、僕がどのように行動することを望んでいるのだろうか。
「……ユウくんに黙ってたことがあるんだ」
ふわふわと漂っていた意識が現実に引き戻される。七海はブランコから立ち上がり、夜空を見つめて浅く息を吐いた。
嫌な予感がした。
「昨日になるのかな。私ね、全部知ってたんだ。今日起こるはずだったことも、ユウくんのこれからも、冥ちゃんに見せてもらったから。……だから今日は少しだけ未来を変えてみたんだよ? ほんとは今日のデートはもっと、うわぁあって感じだった」
嘘を吐いてはなさそうだけど、飛躍しすぎた内容と大雑把な説明に頭がついていけなかった。いくらなんでも雑じゃないか?
「私が説明するの下手だってユウくんは知ってるでしょ?」
「分かんないときは分かんないから」
七海は「そうだね」と言って笑った後に、「どうしようかなぁ」と言葉を探っていた。やがて言葉がまとまったのか、七海の真っすぐな瞳が僕を映した。
その表情は喜怒哀楽ではとても表せないような複雑なものだった。
「ユウくんが私に告白してきても、私は断ったと思うよ」
今日、僕が七海に告白する。そして呆気なく振られてしまう。なるほど、恐ろしいくらい現実味を帯びていて、さして驚くこともなく頷いていた。
「それは」僕は七海の思考と至るであろう結論を先読みして答えた。「つまんないから?」
「うん、つまんないから」
七海は上出来だと言わんばかりに微笑んだ。
「私は今日のことを知ってました。これからのユウくんのことも知ってます。一生分の記憶を持ってます。だからね、同じことをしてもつまんないでしょ?」
「知ってるけど……めちゃくちゃすぎるだろ」
呆れを通り越して笑えてきた。流石はナツ。僕がずっと好きだった初恋の人らしい。
「私の頭はあんまり良くないけど、ユウくんのことを憶えているのは得意です。もうすぐ私が消えて、次にユウくんと会うときは、私は暇で暇で死にそうだと思います。ユウくんにはその時にたくさん話を聞かせて欲しい。私が知っている記憶と違うところを見つけるのが今から楽しみで仕方ないの。もう一度言うからね、同じことしてもつまんないから、ユウくんは私の期待に応えてね」
ついに声を出して笑ってしまった。未来の視えない僕に、同じ物語は飽きるから聞かせるな、なんてめちゃくちゃな要求をしてくるのだから仕方ない。
「善処するよ。それにしても……ロストって何で起こるんだろうな」
七海の存在そのものがなかったことになる。同時に運命が揺らいで過去から現在までの全ての事象が改変され、誰の記憶にも残らない。その一連の現象に、果たしてどれほどの意味があるのか僕には分からなかった。
ロストが起きても起きなくても七海は死んでしまったのだから、存在まで消す必要はないのではないかと思ってしまう。
「誰かが思ったんだろうね。どうして人は想いだけを遺して死んじゃうんだろうって。こんなにも悲しいのなら、最初からいなければいいのに。そしたら誰も悲しむ必要なんかないのに……って。多くの人が願ったんだよ。だから、きっと、神様に届いたんだ」
今更ながら僕が七海に惹かれていた理由に気づいてしまった。僕も、ウィスプもロストに否定的な感情を抱いていた。先日のハンドマンに対してウィスプが述べた、『死者が生者を吸い込んで成長していく様子は、まさにブラックホールだ』という言い回しに感心していたくらいだ。
だからこそ。
七海が視ている世界はこんなにも美しいのか。そう思わされてしまった。何でもないように理想を言葉にしてしまえる、無垢な彼女から目を離すことができないんだ。
「約束しよう」七海は小指を差し出した。
「約束?」
「これからユウくんは何があっても泣いたら駄目だよ」
白くて細い小指に、僕の小指を絡める。
ちょうど雲の切れ間から顔を出したばかりの月が、絡み合う小指を幻想的に照らしていた。
「言っとくけど守れる自信はないよ。あと参考までに訊くけどナツは何を守るんだ?」
七海が消えたら大泣きする自信がある。一緒に過ごした時間と同じくらい泣いてもまだ足りないだろうな。
「ユウくんが約束を破るまで私は消えないっていうのはどう?」
気休めにもならないことを言ってくる。まったく……。
「いいね、ナツの嘘吐き」
ギュッと小指に力を込めて引っ張ると、七海は不満気にくちびるを尖らせた。「私、ユウくんに嘘吐いたこと一度だってないのに!」
こうして、嘘まみれの約束を交わした。
「一つだけ、教えてくれない?」僕は肩を竦めて訊ねた。「本物の今日のこと」
七海は小指を離して、束の間の迷いを見せた後、片手で僕の両目を覆い隠した。もう片方の手は肩を強く掴んでいた。
咄嗟に開こうとした口を、彼女のくちびるに塞がれてしまう。夜風に靡いた彼女の髪がちくちくと頬に触れていた。
そっと七海を抱きしめる。僕らはくちびるの端から吐息を漏らして密着した。
刹那にも永遠にも感じる時間を経て、彼女のくちびるが離れ、目隠しも解かれた。
「ありがとう、今日は凄く楽しかった」
七海はぎこちない笑みを作ると、逃げるように公園を立ち去ってしまった。僕は追いかけることもせず、呆然とその場に立ち尽くしていた。
夏虫はもう鳴いてはいない。七月と八月の境目にある夜は、僕の体温と変わらないくらい暑かった。
☆ ☆ ☆
ところが、この物語は多方面に可能性の糸を伸ばしながら、結局のところ、始まりに収束する。
帰宅した僕は、久しぶりに自室のノートパソコンを開き、運命に導かれるようにしてその小説と巡り会った。
それは、とあるSNSサイトでトレンド入りを果たすほどの猛烈な人気を誇っているネット小説だった。ニュースにもなったとか。
興味が湧いたので、載せられているURLをクリックすると、個人のブログに移動する。僕は驚きのあまり「あっ」と声を上げて画面に食らいついた。
運命のいたずらだと思えるほどの偶然だった。小説が掲載されている個人のブログは、七海のものだったのだ。
七海が小説を書いているのは知っていた。厳しい言い方をすると普遍的な恋愛小説。お世辞にも上手いとは言えない文章だったし、本人もそれは自覚していた。彼女の気まぐれにより始まった物語は、半年くらい未更新の状態だったのに、息を吹き返したように更新されて……今しがた完結したばかりだった。
タイトルも変わっていた。七海が消えてしまう前にどうしても読まなければならない。という念に駆り立てられ、一話から読み直していった。
最初から最後まで僕が知っている小説とはまるで違った。……小説だと誤解していたんだ。これは日記だ。
僕と七海の思い出が詰まったノンフィクションの物語。とすると主人公の心理描写は七海の……。
エピローグを読み終えて、タイトルまで一気にスクロールする。
『Dear you』――ユウくんへ。
大好きとか、愛してるとか、幸せだったとか、生きられなくてごめんなさいとか……そういう言葉だったなら、僕も耐えられたかもしれない。嘘にまみれた約束を律儀に守ることができたかもしれない。
「ずるいだろ……こんなの」
マウスを掴んでいる手は震えていて、キーボードには水滴が垂れていた。
なんで……。
なんで最後に書いてあるのが、
――私は満足でした。
なんだよ。ふざけんじゃねぇよ。こんなんで満足してんじゃねぇよ。たった十七年しか生きてないんだぞ。満足できるわけないだろ……。
「ナツっ、ごめんっ、やっぱり約束守れそうにないや」
どこからか透明な水が止め処なく溢れてきて、僕はみっともないくらい大声で泣いてしまった。冷たい涙は何時間も止まらなかった。
胸が張り裂けてしまいそうなほど激しく痛む感情に支配されながらも、僕が七海の家に向かわなかったのは、思春期にありがちなつまらないプライドだけではない。まだ時間が残されていると思っていたんだ。
僕の認識していた時間と、世界との間に二十四時間もの時差があることを知らなかったから、自分を見失わずに冷静になることができた。
ある意味では不幸なことだろう。しかし、僕には精神的に追い詰められるほどの時間すらなかったことは、ある意味では幸いだった。
ベッドに寝転がると、くちびるが熱くなった。公園でのキスを思い出す。そして今までの思い出が走馬燈のように次々と浮かんでは消えた。
MAKEを開き、『おやすみ』『僕も楽しかったよ』『また明日』と七海に送り、また少し泣いた。
今日に「さよなら」をする前に願いを掛ける。明日が明日でありますように。
☆ ☆ ☆
七海から返信が来ることは、二度となかった。




