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指切りげんまん 2

 

 店内には誰もいなかった。

 黄ばみで汚れきった天井に、剥き出しのコンクリートの壁は黒く煤け、所々でひび割れが目立つ赤いタイルの床が敷かれており、時間の流れを一切感じさせない独特の雰囲気が深夜のゲームセンターを彷彿とさせた。

 実際、ここはゲームセンターだったのだろう。ずらりと並んだアーケードゲームの筐体はどれも『故障中』と書かれた紙が貼られていて、当然のことながら電源は入っていなかった。スロットも、自販機も全部傷だらけで使い物にならない状態だった。

 奥に進むと、埃がかぶった商品棚が規則正しく配置されていて、そこには時代遅れのゲーム、ゼンマイ式の蓄音機、箱型のブラウン管テレビなど、人々に忘れ去られてしまったもので溢れかえっていた。

 僕らが生まれる頃には姿を見せなくなったものが山ほどあり、新鮮な刺激に興味をそそられてしまう。


「わぁ、凄い! カセットテープがたくさん積んであるよ」


 七海は雑に積み上げてあるカセットテープを一つ手に取り、僕に渡してくる。


「カセットテープって初めて見たんだけど」


 ビデオテープなら物置になっている部屋の押入れから出てくるかもしれないけど、デジカメくらいの大きさのカセットテープと呼ばれる代物を見るのは初めてだった。


「私が幼稚園に通ってた頃かな、お母さんが休みの日に古い曲を流してたんだ。一番大事にしてたカセットのテープが切れちゃってから、もうずっと聴いてないみたい」

「修理はしなかったの?」

「新しい時代に乗り換えるいい機会だったんだと思う。それまで持ってなかったCDを集めるようになったし」


 修理せずにCDを買うのなら、壊れるまで聴く必要はなかったんじゃないか? と思っていると、七海が首を左右に振った。


「……怖かったんだよ。今の自分はここにいるべきじゃないって、ユウくんは思ったことない?」

「あるよ。それも自分の家にいるべきじゃないって思う」


 幽霊の僕が住んでいてはいけない。まだ具体的な目処は立っていないけれど、近々家を出るという決意だけはした。


「それはユウくんにとって、家族が過去のものになってしまったからじゃない? 過去を切り捨てるためにユウくんが出て行こうと考えているのと同じで、お母さんも前に進むために、未練を捨てたんだと思う」

「待って、僕が出て行こうって思ってること……知ってたの?」

「ユウくんの考えてることなんてお見通しだよ、うりうりっ」


 いたずらっぽく笑いながら、頬をつねってくる。


「でも、なんだかおかしいよね。過去に戻りたいって言ってるのに、本当は過去に戻るのが怖くてたまらなくて、思い出を捨てちゃうなんて矛盾してる」

「そうかな?」

「そうだよ」

「……笑われるかもしれないけどさ、思い出を目に見える形として残す必要がなくなったんじゃないかな? なんかこう、心の整理をつけるためじゃなくて、心の整理がついたから捨てるんだ。『懐かしさ』って言葉にしてしまう覚悟が出来たから、人は形ある思い出を捨てられるのだと思う」


 七海はきょとんとした顔をしていた。

 何か言ってくれよ。恥ずかしくて死にそうなんだけど。


「……そんな考え方もあるんだね」


 口元をほころばせた。

 僕は、考えごとをした後にふっと力を抜く七海を見るのが好きだった。なのに、涙が出そうになるのは何故だろう。

 今週の土曜日に七海の存在が消える。そればかりが頭にこびりついて離れなかった。心がひしゃげて無くなってしまう気さえした。

 笑え、笑うんだよ。七海を退屈させるわけにはいかないだろ。何度も自分に言い聞かせた。 


「なに、私のことバカにしてるでしょ?」

「そんなことないよ!」

「おらおらっ、白状しなさい」

 

 夏服のネクタイを引っ張られる。強制的に目線が同じくらいになり、への字に曲げられたくちびるを見ていると笑いが込み上げてきた。


「なんで笑うんだよう」


 七海は少しも嫌がる素振りを見せなかった。


「ナツらしいと思って」率直に答えると、いよいよ得意気に胸を張った。

「でしょう!」

「まさかその胸……ロストしたの?」


 七海の眉毛がピクリと動いたと思った瞬間、側頭部あたりに鈍い痛みを覚えた。視界が九十度傾いている。遅れて、殴り倒されたのだと気づいた。


「ユウくん……私だって怒ったら殴るんだからね?」

「それは殴る前に言って欲しかったよ」


 近くて遠い、このくらいが心地よい距離感だと思う。友達としてなら。

 僕らを隔てるのは透明な薄い壁。言葉の一つで壊れてしまうほどもろい壁。七海と恋人になるには、この壁を壊さなければならない。

 時どき、壁の向こう側にいる七海のことが分からなくなる。僕が壊したいと思っている壁を、七海はかたくなに護ろうとしているように見えるから。

 僕のことを異性として意識していないとか、そういう意味ではなく、何に代えても護りたいという意思が垣間見える。

 だから、分からない。七海は僕のことが好きなのか、そうでないのか。

 夏祭りの夜は、雰囲気に流されて告白しようとしたけれど、後になって考えてみると間違いだったのではないか、と思えてくる。

 じゃあ、いつ告白すればいいんだ? なんて言われても僕には答えられない問題だ。分かっていたら苦労なんかしない。

 一つだけ確かなことがあった。

 デートして、手を繋いで……幸せな思い出を積み重ねていけばいくほど、七海を失うことが途轍もなく怖くなってゆくこと。

 何もかもが不確かに揺らめいている世界で、恐怖だけがはっきりとした輪郭を持っていた。

 

「ここで行き止まりみたいだな」


 店の奥まで来てしまったらしい。

 ユウレイランという不可思議な店の疑問が解けることはなく、諦めて引き返そうとしたその時、僕は見てしまった。

 薄汚れた壁の中央にある『希望』というタイトルの絵画。王室に飾られていてもおかしくないほど豪華な縁取りの額に入っている、何も書かれていない白紙の紙。

 もう一度、タイトルを確認する。


 希望は、ない。


 目の前が真っ暗になった。僕らの未来と結びつけてしまい、無意識のうちに身体が震え出した。立っているのもやっとなくらいに。

 ぐっと力を込めると、床が抜けたような浮遊感があった。足の感覚までなくなっていたらしい。倒れてしまわないように意識しつつ、七海の顔色をうかがった。彼女はいつになく真剣な面持ちで絵のない絵画を睨みつけていた。

 

「これ……よく見ると後ろに絵が描いてあるね」


 七海は険しい表情を緩めずに言う。

 がくがくと震えていた足に感覚が戻った。僕は下唇を噛んで感情を押し殺し、『希望』の絵画に近寄った。


「何も見えない」


 やはり裏側も白紙だった。


「うそ、ほらこっちから見てみなよ」


 真正面から見ると絵画に変化が起きた。薄く描かれた女性のシルエットが背面に浮かび上がる。驚きよりも安堵が先行した。


「……女の人?」

「違うよ、男の人だって!」


 隣を見ると、七海の端整な横顔があり得ないほど近くにあった。鼓動が一気に加速する。七海に聞かれてしまうのではないかと心配になるほどうるさかった。

 僕は七海のことが好きだ。好きで好きでたまらない。恥ずかしくて絶対に言えないけれど、この世界中で誰よりも。

 感情を受け入れた途端に、速くなっていた鼓動はあっさりと治まる。まるで七海への好意を、僕自身に再確認させることが目的だったかのように。

 震えていたくちびるから漏れた息がかかってしまったのか、七海に「くすぐったい」とたしなめられた。

 視線を絵画に集中させると、ぼやけていたシルエットが画用紙の表側に染み出したのかと疑うほど鮮やかになっていく。浸食されるみたいに四隅から中央に向かって色付き、やがてシルエットは似顔絵に変わった。

 それは、僕がとてもよく知っている人の似顔絵だった。思わず声が出そうになるのを、空気と一緒に飲み込んで抑えつけた。

 

「ナツだ」「ユウくんだよ」


 僕らはしばらく視線を絵画に吸い込まれていた。

 どれくらいの時間が経ったのか分からないけれど、呼吸を合わせて顔を上げた。

 僕と七海で認識が食い違っている理由。誰に聞かせても呆れられてしまうほど、とんでもない仮説を立ててみる。


「僕にとっての希望がナツってことかな」


 言ってから、僕らしくないなと思った。もっとこう、悲観的に物事を捉える人間だと自負していたのに。 

 この絵画が心の写し鏡のような性質を持っているだなんて信じてはないけれど、僕にとっての希望が七海という解答は、ストンと胸に落ちてくる感覚があった。


「私にとっての希望がユウくんか……」七海は照れくさそうにはにかんだ。「私たち、両想いだね」


 たとえ、本来の意味からどれだけ歪められた言葉だったとしても、僕は一生忘れないと心に誓った。時間を感じさせないこの店の雰囲気が、時間のない僕らに背伸びをさせていたのかもしれない。

 過去を愛した誰かに感謝したかった。仮初かりそめの幸せをありがとう、と。


「……皮肉に聞こえるかもしれないな」

「どうしたの?」

「何でもないよ、いつもの独り言」


 それから、どちらからともなく手を握った。


「次のところに行こう。長居してると時間が経つのを忘れそうになるし」

「いいよ。ユウくんはどこに行きたい?」

「ナツの好きな場所でいいって」

「んー、ネットで話題のこの店に寄りたい!」


 背景が騒がしいスマホの画面を見せてくる。その店は如何にも女子に人気な要素をぎっしり詰め込んだ複合施設のようで、それぞれのトップページは目が痛くなるほど煌びやかだった。


「鹿野宮にあると思ってんの?」

「だから今から行くんだよう。文句があるなら提案しなさい」

「……行こう、とりあえず何時の電車?」

「えっとね――」


 これでいい。残された時間を無駄にしようとしている愚かさこそが、醜くわらう運命に対する、僕たちの答えだった。

 ――本当にいいの? 

 白紙に戻っている希望なつみの絵画が問いただしてくる。

 僕は想像する。二人で遊園地に行き、絶叫マシンに乗って腹の底から恐怖を吐き出し、観覧車で夜景を眺め、豪華なディナーを振る舞う。告白は静かな海辺で行い、成り行きのままホテルに駆け込み、夏よりもアツい一夜を過ごす。

 ひょっとしたら叶ったかもしれない夢。

 僕の隣で電車の時刻調べている七海と、妄想を比べてみる。どう考えても妄想の方がよかった。

 ――構わないよ。

 しかし、今の僕を誘惑するには足りない。最後の最後になって、不毛さが生み出す美しさに憑りつかれた僕らには、誰もが憧れる甘美なデートはあまりにも甘すぎた。

 世界の終わりの歩幅は、僕たちのそれよりもずっと大きい。どうせ追いつかれてしまうのなら、えて逃げずに抱き合おう。

 どうやら救いようのない馬鹿が、二人もいた。




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