運命への問いかけ 3
「ユウくん、帰るよ」
七海に体を揺さぶられて、意識にかかっていた靄が霧散する。
何事かと身を屈め、
「痛って……」テーブルの角に肘を打ち付けてしまった。
電撃が走ったような感覚に身震いをしながら顔を上げる。
店内にある窓を通して外を見ると、琥珀色の光が飛び込んできた。寝起きにはいささか強烈な刺激により、再び目を瞑ってしまう。
僕はいつから眠っていたのだろう。昨日の疲れと寝不足のせいだろうか。可能性としては十分にあり得たが、普段の話なら、という条件付きだ。
この瞬間にも七海の存在が蝕まれている。それに較べたら疲れや寝不足なんかどうでもいいことくらい、わざわざ説明するまでもないと思う。
眠るまでの記憶を持っていないという妙な感覚と、全身にしなだれかかってくる気怠さが尋常ではないことが気がかりだった。
「……ウィスプのそれっていつから?」
視界の端で、優雅にコーヒーを啜りながら読書に勤しんでいるウィスプの右目が、包帯で隠されていることに気づいた。
目のすぐ下あたりの部分には浅黒くなったシミが付着している。おそらく、血だ。
「未来を視すぎたせいで目が疲れてしまったんだ」と答えて本のページを捲った。
余計な詮索はするな、と言われているように思えた。
「早くしないと置いてくからね」
同時に鈴の音が鳴る。重たいドアが開けられていて、既に体を半分くらい外に出した七海の横顔が見えた。僕が立ち上がった時には、遠ざかっていく踵と目が合った。
急いで七海に追いつこうとして、鈴を鳴らす寸前で立ち止まる。今になって重要なことを思い出したからだ。
「ウィスプは、全部知ってたんだよね」
感情を入れすぎたせいで掠れてしまいそうになりながらも、喉から声を絞り出した。
「何の話だい?」茶化すような口調で返してくる。「だから、七海がロストするってこと」
ややあって、椅子を引く音が聞こえた。後ろを向くと、僕らは自然と向かい合うかたちになる。
「知っていたよ。敢えてきみには黙っていたがね」
「どうしてッ!」
「どうしてだって? 言ったところできみは信じなかったから黙っていたのさ。うじうじと希望的観測に縋りついて……最後の日にきみがどのような結末を迎えていたか想像できるかい? ぼくには未来が視えることを忘れているんじゃないだろうね?」
束になった感情が、鋭利な刃物に切り裂かれるような気がした。
「でもっ……それなら、七海をっ」
「七海を救えるとでも言いたいのかい? 残念ながら不可能だ。七海は死んでいる。ロストは死者に起こる現象であるから、仮になかったことにしたところで、今度は七海の死という現実に直面するだけだよ」
死んでいる。その言葉が僕の心を容赦なく打ちのめした。
「七海に残されていたのは、七月二十五日から七月三十一日までの一週間だけなんだ」
だから諦めたまえ。そう追い討ちをかけてくる。まるで他人事のように振る舞うウィスプに、僕は、心の奥底からどす黒い怪物が這い上がってくるのを感じていた。
憤り、という名前の怪物。
いいかげん黙れよ。
「……諦めろなんて簡単に言うなよ」
僕にとって七海がどれだけ大切な存在なのか分かってないくせに。
「言うさ。ぼくに守れるのは生者だけだからね。幽霊として生きているきみや、鹿野宮に住む大勢の人びとの命を天秤にかければ、七海なんてどうでもいいよ」
ウィスプの言っていることは正しい。ロストした人間が及ぼす影響をこの目で見た僕は、頭のどこかでは理解していた。
ただ、感情という強固なフィルターが言葉の意味を歪めてしまう。どうでもいい。七海を否定された。それがどうしても許せなかった。
「そんなのおかしいだろ! 七海はウィスプにとっても知り合いだろ? それなのにっ、他と較べてどうでもいいなんて……おかしいよ」
「きみは自分とは違う考えを許せないのかい? ……おかしいのはきみのほう、冷静になりたまえよ。七海はこれから死ぬのではなく、もう死んでいるんだ。彼女の生は終わっているんだよ」
「でも……」「一週間というのは」
ウィスプは苛立ちながら、強引に切り出した。
「七海の幻が消えるまでの時間だ。いくら足掻いても覆すことはできない」
唯一の希望が、原型を留めないほど惨たらしくへし折られた。どうやったって無理だ。諦めろ。僕の周りを取り囲むようにして幻聴がきこえてくる。
何だよ、皆して。僕から七海まで取り上げようってのか。
「……ふざけんなよッ! それでも何かできるかもしれないだろッ! 何もやってないのに決めつけるんじゃねぇよ!」
耳が痛くなるほど大声で叫んでいた。感情を爆発させたのはいつぶりだろう。もしかしたら人生で初めてかもしれない。
そんな風に思えるほど冷めている感情と、抑えがきかなくなった感情の奔流が奇妙なコントラストを成して、心の中を駆けずり回っていた。
興奮しすぎたせいで息が荒くなった。震えながらも呼吸を繰り返し、感情の昂りをどうにか落ち着かせる。
僕とは対照的に、ウィスプの肩は小刻みに震えていた。
「なにも……ぼくが何もやってないだって? どれだけっ、ぼくが一体どれだけの失敗を積み重ねてきたと思っているんだい!」
目にいっぱいの涙を浮かべて、ウィスプは感情を吐き出した。
「未来が視えていてもっ、消えてしまう日を知っていたとしてもっ……運命を変えることができずに傍観することしかできない……その辛さがきみには分からないだろうッ! 何十人、何百人というロストの被害者。何千人、何万人という数の救えなかった命。ぼくは人が死ぬたびに思っていたよ。知っていたのに何もできないぼくのせいだって」
ダムが崩壊するようにボロボロと涙がこぼれた。
「いつからか何も感じなくなり、ぼくは人の命に折り合いを付けるようになっていた。限界だったんだよ。……それでも、ぼくをおかしいと思うかい? 何もしない薄情者だと蔑むかい? いいや、軽蔑すべきなんだ。未来が視えるくせに何もできない役立たずってね」
一言でまとめてしまうと、僕は圧倒されていた。
これを言うのは自己弁護に過ぎないけれど、僕には本来なら成長の過程で養われるはずだった、他人の心に対する機敏さが致命的に欠けていた。
もっと多彩な人間関係を持っていたとしたら、気づくことができたのかもしれない。ウィスプの深淵のような瞳に宿った悲しみに。
たぶん、人と関わろうとしてこなかった罰だ。
無知は罪。知らないことは罪だということ。僕は他人を知らなさすぎた。
見て見ぬふりは罪。知っているだけでは罪だということ。ウィスプは他人を知りすぎた。
僕らは、似ている。
面白いほどに反対なのに、おぞましいほど似ている。
知らない僕と、知りすぎた彼女は、コインの表と裏のような関係性を持っていた。
「……ごめん」
僕の中の怪物はもういなかった。後悔だけがしこりのように固まり、僕の口を勝手に動かしていた。
「藍田七海は助からない。これはもう、定められているというよりも、彼女は過去に完結してしまったからだ。……ぼくには彼女のロストを止められない。救えるだけの知識と力が足りていないから。現代における記憶と存在に関する理論では、未来が視えるぼくでも、ラプラスの悪魔でも、存在因子の暴走から彼女を救い出すことはできない」
逃げ出してしまいそうになるのを、ウィスプの濡れた瞳が引き留めていた。
「――でもね。もしも世界が反転して、絶対に起こり得ないような、奇蹟の雨が降り注ぐのだとしたら。七海が差している傘を閉じてやれるのは、他の誰でもない、きみだけだと思う。七海のことをこの上なく大切に想っているきみが、理不尽に囚われた姫を救う英雄に選ばれなければ、割に合わないだろう?」
にやりと笑うウィスプを見て、僕はほとんど泣きそうになってしまった。知っていたんだ。何もかも知った上で突き放した。
彼女なりの優しさだったのかもしれない。
「七海を救うことができるのは、幽希、きみしかいない」
言われなくても。
僕は七海を救おうと決意している。……というのは、嘘だった。ウィスプのおかげで決意することができた。
「僕にできるのかな?」
答えなんかないけれど、訊いてしまう。
「知っているかい? リンゴは木から落ちるんだよ」
「なんだそれ」
ウィスプはそっぽを向いたきり、会話を続けようとはしなかった。
☆ ☆ ☆
店の外では夜の帳が下りていて、寂れた商店街の物悲しさを余すことなく覆い隠していた。
『Jack-o'-GHOST』と書かれた看板の周りで輝くチカチカとした光だけが、僕の足下を照らしている。左右にあるのは、くたびれたようにして闇に沈む建物たち。
これらを岩場に例えてみる。穏やかな夜風に耳を澄ませ、波の音を聴いているのだと思い込む。そうすると、暗い海の底を一人で歩いている気分になれた。
だからこそ。
驚いてしまった。
七海がそこに立っているなんて思いもよらなかったから、世界から僕の時間が切り離されたような錯覚に見舞われた。
「聞いてたの?」
七海は夜空に向かって指差した。
「ここからは星が綺麗に見えるね」
つられて真上を見る。確かに、言われてみると星が多いかもしれない。息を呑むほどの光景ではないけれど、藍田家の玄関で見た夜空のおよそ三倍くらいは星で埋まっていた。
視線を戻すと、七海が何も言わずに僕を見つめていた。
笑っているようでも、泣いているようでも……はっきりと判断するために大切なところは闇の向こう側にあって、ずるい、と思ってしまった。
「ユウくん」やけに透き通る声で言った。「明日、デートしよう」
七月二十九日の出来事だった。




