運命への問いかけ 2
幽霊になってから四日目の朝は、僕が知っているどの夏よりも暑かった。
生ぬるい水で顔を洗い、腫れのひかない右頬の湿布を新しいものに取り替える。昨夜は眠れなかったのか、鏡の中に映る僕は見るからにひどい隈をこしらえていた。
ポケットにねじ込んだままのスマホを開き、おはよう、の連絡がないかを確認する。MAKEの通知に、七海からのものが十三件と表示されていた。
そのうち不在着信が十二件。最後の一件は、『先にお店に行くからね』というメッセージ。『今起きた』『準備ができたら行く』と続けて送り、無意識に入れていた肩の力を抜くため、鏡に向かって深く息を吹きかけた。
昨日、そして三日前に、記憶を遡らせる。
――私たち、死んじゃったんだよね。
七海は自分の死を自覚していた。
自覚してしまうと、√I改変は急速に進行する。たしか、猶予は一週間だとウィスプは言っていた。
ということは、七海が存在していられるのは七月三十一日まで。何十回、何百回も数え直したから、間違いない。
今週の土曜日に、七海は存在了解半径を越えてしまう。どうしよう。分からない。これを繰り返して何度目になるだろう……。
それでも、七海はまだロストしていない。終わりじゃない。
運命が僕に与えたのは、たった二つの選択肢だけ。乱暴に折りたたんで持っているメモ用紙に視線を落とす。
・七海のロストをどうにか食い止める方法を探す。
・残された時間で七海との思い出をひたすら作る。
僕には残酷すぎる選択肢だった。ふざけんなよ。こんなの選べるわけないだろ。
ウィスプのように未来が視えているなら……。
絶望という暗雲に覆われた心に、わずかながら希望の光が差し込んだ。ウィスプなら。未来が視える少女なら、他の可能性を見い出せるかもしれない。
ならジャック・オー・ゴーストに行こう。七海にも会えるし。今にも家から飛び出そうとした、その時だった。
「そこにいるの?」
心臓が止まりかけた。
母が蒼白な顔をして、幽霊の僕に声をかけてきたからだ。
葬式から帰ってきたらしい。果たして僕はどんな死に顔をしていたのか、葬式には誰が来ていたのか、体調は大丈夫か、聞きたいことが山ほどあったけれど、咄嗟に思いつく言葉がなかった。
「……なんて、気のせいね」
そのまま通り過ぎてしまう。どうやら視えていなかったみたいだ。ホッとする気持ちと、ここには居場所がないという思いが混在する。
落ち着いたら、家を出よう。
帰らぬ人がいつまでも居続けるべきじゃない。僕の気配を感じさせてしまわないよう、離れて暮らそう。その方が僕のことを忘れられると思うから。
☆ ☆ ☆
店内に入ると、何やら騒がしい様子だった。
「あっ! ユウくん来たよ! 冥ちゃん、早く出してあげて!」
七海の声がしたかと思えば、魔女の服ではなくエプロン姿のウィスプが、厨房から顔を出した。赤色と黄色の花が縫ってある可愛らしいエプロンは、かつて七海が使っていたものと同じだった。
「ぼくはウィスプだ! その名を呼ぶなと何度言ったら……まったく、きみの記憶を失くしたアルパカのような顔を見ていると、全てがどうでもよくなるね。ここに座りたまえ」
なんか七海への文句が僕の悪口にすり替わらなかった? と思いつつも、指定されたカウンターに腰かける。
ウィスプからグラタン皿が差し出される。
濃厚なトマトの香りが引き立つ、夏野菜がふんだんに使われた煮込み料理を、僕が忘れるはずがなかった。
「ラタトゥイユ……だよね?」
夏が来るたび、七海が振舞ってくれたフランスの郷土料理。高校に入ってからは一度も食べる機会がなかっただけに、感動で泣きそうになってしまった。
「ほう、よく分かったね。今朝、七海に教えてもらった料理だ。綺麗な仕上がりだろう? 冷めないうちに食べるといい」
よほど自信があるのか、きりりと吊り上がった口の端を隠せていない。
「じゃあ、いただきます……」
ウィスプが料理を作っている、厨房の裏側を見てみたくなったが、完成してしまっているので残念だ。手を付けずにいると怒られそうだったので、用意されたスプーンですくい取って食べる。
「うわっ、まずいな」
最初に出てきた言葉がそれだった。見た目も香りもほんとに美味しそうにできているから、期待していた味との落差が大きかった。
ラタトゥイユはかつて刑務所で出されるような粗末な料理であり、現在とはかけ離れた『臭い飯』という意味を語源に持つ、その真実に触れた気がした。
これはまずい。純粋に。味覚音痴とか料理下手とかそういうのではなく、料理自体が初めてという感じ。重要なポイントは吸収しつつも、しかし経験が不足しているせいで全てを台無しにしていた。
「なッ! きみはなんてこと言うんだ! ぼくの作った料理っ、たッ、たった一言で斬り捨てるなんて無礼にも程が――むぐぅッ?」
髪の毛が逆巻くのではないかと思うくらい激昂するウィスプの口に、スプーンを突っ込んでやる。百聞は一口に如かず。食べたら分かるよ。
荒っぽいように思わなくもなかったけれど、七海のことを黙っていた腹癒せも兼ね、このくらいはしてやりたかった。
「ふ……ふむぅ」
背後で燃え盛っていた怒りの炎が鎮火していく。ちょうどラタトゥイユの中のトマトみたいに、顔を真っ赤にして、うんうん唸っていた。
「……お世辞にも美味しいとは言えないね。同じ工程で調理しているというのに、どうしてここまで風味に差が出てしまうのか……」
と言いながら、ウィスプは謎の調味料をグラタン皿に振りかけた。毒々しい紫色の粉末が、具材に触れるたびに溶けて消えていった。
ウィスプがスプーン一杯にすくい、僕に差し出てきた。有無を言わせない雰囲気に、断るわけにもいかず、おずおずと受け取って口に運ぶ。
「普通に美味いんだけど」
予想外の美味さに面食らった。あの調味料一つで、こんなにも味が変わるものなのか?
「それはよかった。やはりこの〝スツルム・リウヴィル・ペッパー〟はきみの口に合うようだね」
胡椒の一種だと推測される複雑な名前には、聞き覚えが全くなかった。
「幽霊のための調味料の一つだよ」
「そんなものまであるのか」
「うん、これを舐めてみたまえ」と僕の手を取り、人差し指に白色の粉を摘まんで落とした。
言われた通りに、舐める。
「なんだろう、今にも忘れてしまいそうな味」
「それには〝二日前の水曜日〟という名前が与えられている」
納得してしまった。水曜日みたいな味がする。日付が木曜日に変わった瞬間の、あの何とも言えない虚しさを上手く表現した味だった。
「悪魔ですら通い詰めるこの店のメニューは、死者のために作られる料理だからね。人ならざる者の口によく合うのさ。〝嘆きの川〟や〝死恐怖症〟などの王道から、〝誇大妄想狂の燻製〟のような刺激的な料理、〝エドガー・ミッチェルのテレパシー〟や〝ヘレン・ケラーの三銃士〟といった難しい味のものまである」
「食べたら体を壊しそうな名前だね……」
「失礼な! 全部ぼくが考えた名前だというのに!」
「それは知ってるから」
ウィスプ以外に誰がこんな名前を考えるんだよ。聞いてるだけで食欲が失せてくる。
病院で『昨日、あなたが食べたものを教えて下さい』という質問が来たときに、「死恐怖症を三杯食べました」って答えるのか?
奇抜すぎる感性の患者を前にして、泡を吹いて倒れる担当医の姿が目に浮かんだ。
「……おっと。七海が後片付けを終わらせたようだね。ぼくは本でも読みながら静かにしているよ。せいぜいきみたちに残された時間をっ、きゅぅっ」
鳴き声のようなものを漏らしたウィスプ。厨房から飛び出してきた七海が犯人だった。
「何をするんだい!」
ウィスプは、七海の腕の中にすっぽり収まっている。いきなり抱き着かれたなら、変な声を出してしまったのも頷けた。
「冥ちゃん? あんまりユウくんをイジメたら怒るよ? 悪い子はこうしてやる~!」
と、ウィスプの脇腹をくすぐった。
初めは身を捩って逃げ出そうとしていたが、転んでしまい、逃げられない状況に追い込まれてしまう。
「ふふっ、やめるんっ、ふっ、ふっ、んーっ! んーっ!」
バタバタと手足を動かして悶えている姿を見ていると……そうだな、何故だかとても背徳的な気分になった。
「ユウくんにもお仕置きが必要かもしれないね?」
絶対零度の視線が突き刺さる。
「べっ、別にいらないと思いますけどぉ?」
体を二人とは正反対に逸らし、七海とは目を合わせないように徹した。背後にはメデューサがいる。そんな心境で。
なんだか猛烈にコーラが飲みたくなった。
「ま、冥ちゃんの気持ちはよく分かるけどね。ユウくんに食べさせてあげる自信作だって喜んでたもん」
唐突に、七海が呟いた。
「それを『まずい』なんて言っちゃうバカが悪いのは、私がよーく分かってるからね」
よしよし、と頭を撫でているのが分かる。
僕は背中で聞きながら、半分以上も残っているグラタン皿と向き合った。
冷めてしまったというのに、美味しい。美味しいに決まってた。
目には視えないスパイスがかかったラタトゥイユを、一口も残さずに完食した。




