泡沫のような夜 1
七月二十四日、夏祭り。
僕らが住んでいる鹿野宮市では、毎年、七月の第四土曜日になると大規模な祭りが催される。鹿野宮の夏祭りは全国的にもそれなりの知名度があり、ネットでも鹿野宮市のHPに歴史と共に大々的に公開されるほどの勢いを持っていた。
まぁ、都会に挟まれて交通の便が良いだけの田舎に過ぎない鹿野宮では、このくらいしかアピールできるものがないっていうのが実情なんだけど。
他に挙げられるイベントといえば、神ノ宮神社の初詣くらいだろう。それでも、大晦日の間際になって、ひっそりと更新されていることに気がつく程度だ。
これ以外には本当に何もない。特に名産があるわけでもなく、観光名所も高層ビルもほとんど見られないし、PR活動も行っていない枯れた町だ。
そして悪いところもない。ここの市長は、『影が薄い鹿野宮市』を基本理念として動いているのではないだろうかと疑いたくなるほどゆるりとした政治を執り行っている。が、今日だけは違う。
夏祭りが開催されるこの日は、普段の鹿野宮とは思えないほどの活気に満ち溢れていた。押し寄せる人々が成す行列によって、公共交通機関が麻痺してしまう光景を目にするのは年に一度きりだろう。
屋外では夏の風物詩が勢ぞろいしている中、僕は渋々と着替えをする。もちろん、今日の夏祭りに参加する為だった。
「はぁ……」
憂鬱な気分がため息となって零れてくる。
予定通りに支度が終わり、夏用のパジャマを洗濯機に放り込み、玄関のドアを開けた。街路灯の下で立っているうざったい蚊柱を睨んでやる。
どうして浮かない顔をしているのかって? 外出をすることが苦手だからに決まっている。考えてみろよ。外を歩けば、二十四時間体制で働き続ける蚊の大群に襲われるし、むせ返るような熱気で意識が朦朧とする。まして、今日なんか酔うほどの人混みを掻き分けながら進まなくちゃならない。
いいことなんて、一つもないじゃないか!
だったら、参加する必要なんかないって普通は思うよね。
僕だって出来るものなら家でゴロゴロしていたいさ。快適な環境下でスマホを片手にアイスクリームを食べていたいよ。こんなクソ暑いだけの行事なんてまっぴらごめんだ。
ろくに友達もおらず、家族ともぎくしゃくしてきた上に、周囲だけでなく自分に起きた出来事にさえ興味を持てない、堕落に身を委ねる高校二年生。
こんな僕でもね。行かなきゃならないときがあるんだ。
それは想い人が誘ってくれたとき。
これを断るようなヤツは男じゃないなって思う。むしろ、無理矢理にでも予定を空けて行くものだろ。
僕は、MAKEを通して送った『今から出るよ』というメッセージに既読がついてすぐに、『私も』と返事が来たのを確認し、スマホを大事にジーパンのポケットに入れる。
僕という人間は随分と現金なもので、足は驚くほど軽くなっていた。
二丁目の突き当たりにある角を抜け、やたら長い信号が待ち構える交差点を右折する。七丁目の鹿野宮駅からここまで連なる屋台に挟まれ、ひしめくように並んで賑わう人々の姿が見えた。
人の波に飲み込まれないよう避けて通りつつ、七海との待ち合わせの場所に向かう。小さく聞こえてくる祭囃子は、夏休みを告げる妖精たちの足音だ。
ここから五分ほど歩けば、待ち合わせ場所の鹿野子公園が見えてくる。子どもの足では少しばかり遠い小学校からの通学路にあるので、帰り道によく立ち寄っては遊んでいた。
今でも、待ち合わせで『いつもの場所』って言えば大体ここを指す。鹿野宮っ子にとっては馴染みのある公園なのだ。
僕は、広いだけでパッとせず、どこか哀愁を漂わせる殺風景な景観を再生しては胸を躍らせた。七海にもうすぐ会えると思うと、体がそわそわと落ち着かなくなっていることを自覚する。
彼女は幼馴染のよしみで誘ってくれたのかもしれないが、僕にとってこれは一大事である。
今日こそは七海に……! という思いを胸に秘めて前を見れば、七海が手を振りながら向かって来ていた。
「ユウくん遅いよーっ! 待ちきれなくてここまで来ちゃったじゃん!」
くっきりとした美しさが際立つ淡い色の浴衣を着こなしているのは、僕の幼馴染にして意中の乙女でもある藍田七海だ。
七海は昔から人懐っこい笑顔に恵まれ、黒色のショートヘアがよく似合う活発な女の子である。また、すらりとした手足を染める滑らかで艶のある白い肌には、ついつい守ってあげたくなるようなか弱さが内包されており、無意識のうちに男心をくすぐる様は反則的と言わざるを得ない。
少し控えめな胸が浴衣の良さを上手い具合に引き出し、持ち前の天真爛漫な性格に美しい華を加えていた。
「ナツのほうが家から近いから仕方ないよ。それに、約束の時間より早いと思うんだけど」
「うわぁっ、珍しいこともあるんだねぇ~」
「僕を遅刻魔みたいに言うのやめてもらえるかな」
「……ユウくんがよく寝坊して私がわざわざ起こしに行くことについては?」
わざわざ、の部分を強調させて七海はニヤニヤと笑っていた。
「弁解の余地もありません」
それを言われてしまっては強く出ることができなかった。
意志薄弱な僕にとって、朝早く起きることはまさしく試練のように立ち塞がる巨大な壁に等しい。早寝をしても見事に寝坊してしまう厄介な体質をそろそろ改善しなければ手遅れになりそうだ。
仮に起きられなくても、七海が起こしに来てくれるから、という甘えもあるかもしれないが。
「素直でよろしい」
七海は勝ち誇ったような表情を作り、頭半分くらい身長の高い僕を見上げる。こちらが見下ろす側なのに態度では酷く負けているように思えた。
休みに入っても何一つ変わらない七海を眺めていると、ふっと笑みが込み上げてきた。それを悟られないよう、日が落ちれど鳴き止む気配のない夏虫の声に耳を傾けていると、肩を軽く突かれる。
僕は七海に視線を戻した。
彼女は袂をひらひらとさせながら、瞳の中に期待を込めていた。
ただでさえ可愛らしく整っている七海が、ひたむきに頑張る子どものようにあどけなく見えてしまい、口を半開きにしたまま見惚れていた。
「ねぇねぇ、それよりさぁ、これ似合ってると思わない?」
「う、うん、似合ってると思うよ」
声を掛けられて我に返ったばかりの僕は、しどろもどろになって上手く言葉を出せなかった。
道中で何度も行っていた脳内シミュレーション内の自分は、ドラマの俳優とも張り合えるくらいにすらすらと言葉を並べ立てる一流の役者を演じていたのだが、いざ質問をされると台本が白紙へと舞い戻っていた。
僕の素っ気なくも取れる回答に満足しなかったのか、七海は拗ねたように口を尖らせて。
「えぇーっ、それだけ? もっとほら、『可愛いね』とか言うことあるでしょ」
「えっと、可愛いよ、すごく。さっきはその……ナツに見惚れててごめん」
素直に謝ると七海の動きが完全に止まった。
最初はどうしたのか分からなかったが、間を置かずしてその原因に思い至る。僕はなんて阿呆なんだ。「君に見惚れていた」なんて気持ち悪いセリフ、世にごまんといるイケメン達ですら容易に言えようものか。
折角の機会を始まる前から台無しにする僕の恋が実る見込みはなさそうだ。実る前に腐って使い物にならなくなる未来の方が遥かに濃厚である。
頬が暑くて暑くてたまらないのは夏のせいではないだろう。ここが薄明かりの下で本当によかった。
「あ、ありがとう……ございます」
七海はぎこちない笑みを浮かべて顔を伏せる。
予想に反して引かれてはないようだが、ガラリと変わった空気にどこか気まずさを覚えた。
恥ずかしそうに、ちらちらと僕に視線を送る七海がどうしようもなく可愛らしくて。一日中でも見続けて居たいけれど、流石にこの雰囲気には耐えられないので打開しようと思案する。
ちょうどいい具合に、ぐぅ、と腹が唸った。
「お、お腹空いてきたなぁ……。そ、そろそろ行こっか!」
「そ、そうだね」
僕らは赤提灯に彩られた街路に向かって歩き出した。