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ハンドマン現象 2


『だから嫌だって言ったのに……』


 夜明け前の曇り空みたいに暗い顔をした幼い男の子は、派手に転んで擦りむいたのか、血だらけの右膝を抱えてすすり泣いている。


『もう泣いちゃだめだよ。指切りげーんまん!』


 今度は、男の子と同い年くらい女の子。やがて小指を絡める感触。あぁ。これは記憶か。あまりにも鮮明だったから違和感がなかった。

 これは……子ども会で行われた肝試しの夜、集まった大人がこっそりお化け役をしていたとは知らず、わけの分からない奇声を発して追いかけてくるお化けから、無我夢中で逃げているうちに……まぁ。よくあることだ。

 思い出せないほど底のほうで眠っていたはずの記憶。

 こうもリアルに当時の状況を再現されると、恥ずかしさが込み上げてきた。しばらくはベッドの上でのたうち回ることになるだろう。

 それとは別に、懐かしく思う気持ちもあった。

 もう二度と、過ぎ去ってしまった時間の中に入ることは許されない……。寂しさに呼応するかのように、胸がひどく痛んだ。

 どうして、今更になって思い出したのか。ここは一体何処なのか。

 ……そうだ。

 僕は――。

 瞬間、コンクリートのように灰色のまま固まっていた背景が鮮やかに色づいた。公園の近くにあるどぶ川の、酸っぱい臭いがツンと鼻を刺す。

 もうすぐ夢が終わる気がした。

 途端に懐かしさが抑えきれなくなって、最後に、互いの小指を絡め合う二人の横顔を、この目に焼き付けようとした。

 しかし、黒い影が二人の表情を覆い隠してしまっている。

 あと少しで見えるのに……。

 やがて遠ざかっていく影色の光を、ぼんやりと眺めるしかなかった。



☆ ☆ ☆ 



 目の端が濡れている。それに気づいて、僕は目を覚ました。

 鉛みたいに重たい体を起こすと、僕を見下ろしている艶がかった黒髪の少女と目が合った。


「幽希。どうやらきみは、無事に自我崩壊の地平面(ロスト・ホライズン)を越えられたようだね」

「ゆうき……?」

「きみの名前だ。いつまでも寝ぼけているんじゃない……っ」


 少女はかがんで、僕の胸ぐらを掴むと、ぐっと引き寄せる。ほとんど密着している状態になり、少女の静かな呼吸まで聞こえてきた。

 お互いの顔がくっつきそうなほど近い。緊張のあまり、息をするのも忘れて、少女の薄いくちびるに釘付けになっていた。

 僕が生唾を飲み込むと同時に、右の頬に強烈な痛みが走った。突然のことで、どんな音だったのか、憶えていない。


「いたっ! いきなり何するんだよウィスプ!」

「いきなりとは何だい! きみがぼくの目の前で涎を垂らしているものだから、気持ち悪くて殴りたくもなるだろう」

「そうなのか……って垂れてないじゃねぇか!」


 立ち上がり、愕然とした。


「これ、何だよ」


 歪んでいる。見えているもの全てが。地面も、草木も、空も、何もかもでたらめに描かれていた。

 クレヨンで何色も何色も上から重ねて、徐々に画用紙を塗りつぶしていけば、こうなる。空白を色のついた線で塗りつぶしただけの世界、というのが最も当てはまる表現だ。


「心だよ。人間の、心」


 僕らのいる場所だけがちゃんとした道になっていて、ウィスプに促されるまま、奥へ進む。

 途中でヘドロのような色をした雲が、僕らを指差して笑っていた。ひとしきり笑うと、泡のように弾けて消えていった。

 僕らの周りを、ナイフとフォークを持った影たちがたのしそうに踊り、カップルを囃し立てるやつらみたいなテンションで肩を叩いてくる。

 無視して歩いていると、影たちは消え、代わりに雨が降ってきた。

 濡れない、雨が。

 もう頭がおかしくなりそうだ。

 アリスが迷い込んでしまった『不思議の国』の方が、ずっとまともに思えてくる。心ってものがこんなにも混沌としているなんて、知らなかった。


「そこを見てごらん」


 ウィスプに指示された方を見やる。

 空間が裂けている。ここまではよかった。よくないけど。ウィスプから話は聞いていたから、予想はついていた。

 だとしても。


「……は?」


 あの裂け目から巨大な腕がはみ出ているなんて、ごく普通の幽霊である僕に想像できるわけがなかった。

 衝撃のあまり言葉を失った。

 助けを乞うように突き出された、焼け爛れた赤い腕。表面からはゼリー状の液体がぼたぼた落ちていた。


「〝ハンドマン〟とぼくらは呼んでいる、欠陥因子の本体だ。きみはどうやらギリギリのところまで引っ張られていたようだね。ロストしてしまう寸前だった」

「全部知ってたって顔してる」

「うん。だからきみに案内してもらったのさ」


 離れたところから、よう、と手を振っているケイさんが見えた。


「空間が汚れてしまっているのは、悪霊をいくつか吸い込んでしまったせいだね。ハンドマンの初期はとても小さいが、他の存在を吸収しながら肥大化する。死者が生者を吸い込んで成長していく様子は、まさにブラックホールだよ」

「星の死骸……」


 ブラックホールはとても大きな星の死骸だと、本で読んだことがある。


「そう、ハンドマンは人間が生み出した極小のブラックホールと言える」

「これが敏樹さんの死体?」

「いや……。このハンドマンは何年も前にロストした人間のものだね。敏樹は恐らく巻き込まれてしまったのだろう。滑落事故によって致命的な傷を負った敏樹が、偶然にも、自我崩壊の地平面(ロスト・ホライズン)を越えてしまい、そこで命を落とした……と考えなければ、ここまでふとったハンドマンを説明できない」

「また偶然かよ……」


 僕らは、どこに行っても偶然に翻弄されてばかりだ。何もかも無駄な気がしてくる。

 吐き捨てるように言った僕を心配してくれたのか、ウィスプが頭を撫でてくれた。


「運命に対して嘆く気持ちは分かるよ。可能性に振り回されるくらいなら、最初から全て決まっていればいいと思うこともある。なかには偶然は起きてしまえば必然だって言う人がいるけれど、ぼくはそうは思わない。必然というのはね、膨大な数の偶然同士によって作られた、ほんの一握りのルールなんだ」

「励ましのつもりかよ、それ」


 思わず笑ってしまった。

 どういうわけか、僕の隣で頬を膨らましているウィスプに癒されてしまったようだ。


「おーい! 全部見てきたけど何もなかったぞ! たぶんそいつだけだ!」


 ケイさんが大声で言った。ウィスプは了解のサインで応じると、すでに灯りの潰えた手燭を僕に押し付けた。

 道中拾ったとおぼしき木の枝の先端に布を巻きつけただけの、簡素な松明たいまつを取り出し、冷えても固まらずドロドロとしている蝋をすくい取って、布に塗りたくった。

 

「今から言うことは、決して理解しようとしてはいけないよ。過去追いの蝋燭(ヴェルダンディ)の炎によって、ぼくらが敏樹の過去を視ることができたのは、意識を過去に飛ばす力があったから。意識の次元でその性質を適用させると……蝋は再び燃え始める」


 松明に明かりがともる。

 タイミングの良さに背筋がぞわりと震えた。後になって考えてみると、ウィスプには未来が視えていたので、当然のことだった。


「ハンドマンは見た目こそ怪物のようだが、因子のバランスが崩れた人間に過ぎない。焼き払ってしまえばそれで終わり。……といっても、〝意識の中で燃えている炎〟を見つけるのは簡単なことじゃない。嫉妬や憎悪に狂った人間を連れてきたら同じ現象が起きるかもしれないけれど、アレに向かって飛び込ませるのは、流石に気が引けるだろう」

「まぁ、そうだね」


 意識の中で燃えているという条件は、思っている以上に厳しい。ウィスプが言ったように、負の感情は比較的燃えやすいだろう。

 恋の炎ってのは……。

 恋焦れるって表現するくらいだし、強すぎてダメなのか? 自我崩壊の地平面(ロスト・ホライズン)? を越えた瞬間に自分が焦げたら意味ないだろうし。

 情熱や憧れも、イメージとしては燃えているけれど、僕もウィスプもケイさんも……誰も持っていないみたいだ。

 持っていたとしても、燃え上がるほどではない、と蔑まれているように思えてならなかった。


「すまない。きみたちに何もできなかったぼくをどうか……ゆるしてくれ。奇蹟が起きたら、また会おう」


 ウィスプは燃える松明を掲げ、祈りを捧げていた。


「ウィスプ……あっ」


 声を掛けようとした時、顔を上げたウィスプが、赤く爛れた巨大な手の中に収まるよう、松明を放り込んだ。

 みるみるうちに赤い腕がさらに赤く光り、灰になって崩れていく。

 夢の終わりに似ている気がした。


「祈っていたんだ。ぼくたちは彼らを忘れてしまうことになるから、ぼくが彼らを憶えているうちに」

「忘れるって?」

「ロストしてしまった人間は、ぼくらのように時間や運命に守られていないから、存在を空間に保存することができない。ハンドマンが消滅すると、同時に、死んでからロストするまでの時間が失われてしまう。つまり、ぼくが敏樹と会っていたことは、なかったことになる。ただ、依頼をされた……その事実だけが残るんだ」

「それって、悲しいな」


 やっぱり。夢と同じだ。夢を見たことは憶えているけど、それがどんな夢だったのか忘れている。幽霊にとってロストは夢なのかもしれない。

 最後の灰が、落ちた。

 見えている景色がぐにゃりと曲がり、僕らも、揺れる。

 視界から色が剥がれて真っ黒になった。頭がぼうっとして言うことを聞かない。

 超常現象?

 違う。

 これは眩暈めまいだ。



☆ ☆ ☆



「あれが幽霊のやり方だよ」

 

 蒼佑さんが運転している車内で、ウィスプは誇らしげに胸を張っていた。

 

「結局何だったんだろう。怖かったし、よく分からないことばっかりだったけど……やっぱり分かんないし、怖かっただけだ」


 とにかく疲れた。

 僕が何かをしたという実感が湧かず、虚しさだけを抱え、蝉の抜け殻みたいな恰好でシートに身を任せる。

 スマホが表示している時間は一八時二十四分。タイムリミットらしき十八時を超過している。

 鹿跳山から下山する最後のほうには、暴言を吐きながら追いかけてくる悪霊から逃げることが、おおよその目的になっていた。

 ホラー映画さながらの逃走劇だったよ。一番怯えていたのがウィスプなんだけどね。おかげで半分くらい恐怖を克服できた。

 それと、ケイさんがとにかく凄かった。あちこちで遭遇する悪霊を殴りつけて昏倒させていく姿に、危うく惚れそうになってしまった。

 念を押しておくけれど、僕はノーマルだから。そういう趣味はない。


「敏樹が何を伝えたかったのかというのは、もう分からない。けれど、ここに一つだけ真実がある」


 切り抜かれた新聞の記事を渡される。そこには、四月三十日に鹿跳山で起きた滑落事故について載せられていた。

 ある一行が目に留まる。敏樹さんを背負った状態で、遺体として発見された、杉野憲一すぎのけんいちという人物。

 一緒に亡くなったというのなら、彼もロストしているはずだった。


柏敏樹かしわとしきが伝えたかったのは、もしかしたら彼のことかもしれないね」

「そうだね……」


 ロストした敏樹さんが、妻である智恵さんに何を伝えたかったのか。

 分かるはずもなかった。

 僕らは、可能性を摘み取ってしまったから。四月三十日に、ロストという現象は起こらなかったことにしてしまった。

 現在だけでなく過去までも変えてしまったのかもしれない。実感がない。それがかえって怖かった。


「ぼくは探偵ではないから、その辺りについては管轄外。そして、ぼくの魂の案内人としての仕事はこれで解決した」

「解決ってことは全部終わったんだ、ね」

「報告や依頼料といった現実的で大して面白くないことが残っているが……ひとまず、お疲れ様と言っておこう」

「そりゃどうも」


 嫌味ったらしく言ってくるものだから、労いも暴言も大して変わらなかったりする。


「おいッ! 最寄りのコンビニに寄ってくれ。なんか猛烈にトイレ行きたくなってきた」

「はぁ? 最寄りってここから十五分はかかるんだけど」

「マジか……じゃあ公園でもいいから頼むわ。うんこがやべぇ」

「圭吾! ぼくの前で汚い言葉を使うんじゃない! もっと上品な生き物に生まれ変わるべきなんだよきみは!」

「それ、録音してウィスプに聞かせてやりたいんだけど、怒る?」


 またやってしまった。なるべく目を合わせないよう、額を窓ガラスに擦りつけた。


「怒るに決まっているだろう!」

「ですよね……」

「いいかい? きみはきみが思っている以上に存在価値がないのだから、ぼくの好感度を下げるといよいよロストするかもしれないよ」


 なんていうか、生きててごめんなさい。

 ウィスプに好感度という概念があったのは驚きだ。一つでも選択肢を間違えば、バッドエンドの未来しか想像できない。

 僕には未来が視えないけれど、それくらいの予測能力は備わっていた。

 五分くらい経ち、鹿野子かのこ公園にある『飛び出し注意』の看板前で、ケイさんの帰りを待っているときは、珍しく会話が弾んだ。

 会話に花を咲かせる……とまではいかないけれど、新芽が芽吹いた程度には。

 あの眩暈は運命の揺らぎだということも教えてもらった。運命の変動が大きければ大きいほど、感じる揺れが比例して大きくなるのだとか。 

 

「そういえば敏樹さんは、誠実すぎて騙されやすいってウィスプが言っていたけど、憲一さんみたいないい友達も居たってことだよね」


 亡くなってしまった人のことを語るのは、不誠実かもしれないと思ったけれど、褒められて嫌がるような人はいないだろう。

 第一、それを言い出したらアリストテレスの名言を使っている人は不誠実になるし、歴史学者はみんな犯罪者のように扱われるはずだ。


「それはぼくが言ったのかい?」

「言ってたけど?」

「……そうなんだね。ぼくには憶えがないのだけど」


 疑いの眼差しを向けられる。

 ムッとなったけれど、なかったことになる、というウィスプの言葉を思い出し、行き場のなくなった感情を飲み下した。 

  

「まずいな……このままでは遅れてしまう」


 南極が沈むところを目撃した皇帝ペンギンみたいな顔して、ウィスプは呟いていた。


「ウィスプも、ぐあッ!」


 トイレ? って訊こうとしたら、殴られた。しかも思いっきり。痛いから。


「幽希、すまないがここで降りてくれ。そして今すぐ七海の家に向かうんだ!」

「なんで、ナツが出てくんの」


 帰りに寄ろうとは思っていたけど……どうして、七海?


「きみの鈍感ぶりには呆れを通り越して感心するよ! きっと腹の上でテルミット反応を起こしても気にしないだろうね!」


 わけの分からない貶し方をされた上に、車から追い出されてしまった。


「いいから走れ! 絶対に寄り道してはいけない。真っ直ぐ七海の家に行けば全てが分かる。未来を視たぼくが言うんだから、間違いない!」


 言われるがままに、走った。

 日が沈み、辺りは薄明りになっていた。真夏のトワイライト。くそ暑い夕方って訳したくなる。それに何となく響きが好きだ。

 くだらないことを考えてないと、やってられなかった。

 運命の揺らぎによる眩暈よりも、暑さと疲労によって引き起こされる眩暈のほうが、僕にはずっと応えた。

 

 

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