ロスト 3
蒼佑さんが運転する黒塗りの車は、いくつか田んぼ道を抜け、鹿野宮を大きく横断するように流れる川沿いを走る。
僕が住んでいるのは北区。この川の向こう側が南区だ。
鹿野宮市には十数年前に北区にあたる神木町と、南区の小野宮町が合併して生まれたという、需要のない歴史がある。
二つの町の境に位置する山の麓には神ノ宮神社があり、神木と小野宮という地名はともに、神社に由来するというさらに需要のない歴史がある。
おまけに鹿野宮市の名前に含まれている『鹿』の字に深い意味はない。合併した当時、市長を務めていた人が鹿好きだったとか。
そんな事なら素直に神ノ宮にしろよ、だいたい紛らわしいんだよ、という声も上がったという。当然だ。この無駄な知識を教えてくれたのは社会科の先生だったっけ。
車の窓ガラスに映っている、ウィスプの色のない横顔。運転席には蒼佑さん。助手席でいびきをかいているケイさん。昨日まで顔も知らなかった人たちと車に乗っている。緊張はしなかった。何となく居心地がよいとさえ感じていた。
ガタンガタン、車が上下に揺れ、浮遊感にもてあそばれる。脇道に逸れたみたいだ。と、思っているうちに鹿野宮高校を示す看板が見えてきた。
高校か。そういえば夏休みだったな。僕が死んだってこと皆はまだ知らないだろう。進学クラスは課外授業があるから案外知ってるかも。
……あれ? どうして鹿野高に行くんだ? という疑問が浮かび上がったが、解決されるまえに着いてしまった。ウィスプに手招きされたので従って降りる。次いでケイさんが瞼を擦りながら降りると、再びエンジンがかかった。
「じゃっ、おれは警察署に潜り込んで探してくるから、あとで迎えの連絡いれといて」
「分かった。それほど時間はかからないと思うよ」
蒼佑さんは返事する代わりに手を振り、ドアを閉める。坂を下りきるところまで見送った後、僕はわれに返った。
「なんでここに来たんですか?」
校門前で堂々とパチンコ雑誌を広げているケイさんに訊ねる。
「あー、なんか調べるんだってよ。俺もよく分かんねーけど」
この人に訊いたのが間違いだった。
「柏敏樹の過去を調べるためさ。ぼくには未来が視えるが、過去を視ることはできない。だからこうして自らの足で縁ある地へ赴く必要がある」
おおぅ。どっちが答えても変わんないや。それはそれとして。
「それ目立つよ?」
ウィスプの恰好はどこからどう見ても魔女。職員に見つかれば即座に追い出されるだろうし、生徒からの好奇の目に晒されるに決まってる。
本人は気にしないだろうが、一緒にいる僕が恥ずかしい。たとえ他の人から視えてなくても。
「気にすることはない」
「僕が気にするんだけど」
「きみの羞恥心をぼくの言葉で表すと∆⁻²だよ」
「ラプラシアンのマイナス二乗……?」
「どうでもいいってことさ」
「そうですか」魂が抜けてしまいそうなくらい大きなため息が出た。幽霊だけど。
「ウィスプは敏樹さんを探すって言ってたけど、鹿野高に来てどうするの?」
すらりと出てきたセリフに、ウィスプの名前が含まれていたことに気づく。昨日も、今日も、名前を呼んでいた。
僕は高校に入ったあたりから他人を名前で呼ばなくなった。もっと正確に言うと、呼びかけが曖昧になっていった。具体的には「なぁ」や「ねぇ」など。話しかけられる機会が少ないせいか、それだけで会話が成り立ってしまっている。
七海以外の名前を呼ぶのはいつぶりだろう、と驚いている自分がいた。
「幽霊には幽霊のやり方があるんだ」
ウィスプはおもむろに僕の手を握った。柔らかい……じゃなくて。
「えっ、ちょっと」
「ほら来るんだ。早く」
引っ張られながら馴染みの校内に入る。パチンコ雑誌に夢中になっている約一名を置き去りにして。
鹿野宮高校。皆からは鹿野高という略称で親しまれる市内唯一の高校で、南区から隣町へと繋がる坂道の途中にあり、自転車で坂を上るのがひたすらキツいことで有名だ。
駅からも距離があるし、スクールバスも三十分に二台ずつという田舎ぶり。全校生徒が三百人足らずなので意外にもバスの本数は間に合っていたりする。
学校帰りに遊びに行くなど夢のまた夢で、周辺にあるものといえば、田んぼ、畑、案山子とバス停。それはもう絶景。言葉すら出てこないよ。
こんな田舎の王道を突き抜けている鹿野高にもいいところがある。
なんと屋上が生きている。鍵なしだ。もともと鍵を紛失してしまったのが原因らしい。今でもそのまま放置されている。
鹿野高は坂の上にあるというだけあって、屋上の給水タンクによじ登れば鹿野宮市を一望できる。はじめに北区と南区を隔てる川が見えて、そこから先は僕の視力の限界だ。目を凝らしても四角いブロックの集まりにしか見えないけれど、特徴的な外観の建物は雰囲気で分かったりする。
まぁ悪くはないところ。高校に対する率直な感想だ。
グラウンドで練習する野球部の声に、静かな校内、独特なニオイが立ちこめる廊下。死んでから来ることになるなんて思いもしなかった。
「……反応はないみたいだ。少し記憶が古すぎるのかな」
「夏休みだからね」
「そんなわけないだろう。寝ぼけるのもたいがいにしたまえ。それと浅はかな発言への対処により、ぼくの貴重な時間が割かれるようであれば速やかに帰宅してもらう」
適当に答えたらもの凄い剣幕で怒られた。むやみに歩いて地雷を踏み抜かないように黙っておこう。返事代わりに敬礼をする。
「ふざけているのかい?」
僕はあわてて首を全力で振った。
それからは何の説明もないまま校内を歩かされた。手を繋いで。
僕には七海という片思いの相手がいるけれど、だからといって七海以外の女性にドキドキしないわけないよな。
ウィスプは僕に構うことなく職員室の卒業アルバムを漁っている。もちろん手は繋いだまま。そういえば、さっきから何人もすれ違っているのに誰もウィスプに注目していない。こんなにも怪しい服装なのだからあっさりと見つかってもおかしくないはず。
机一つ隔てたところで二人の先生が全国模試について討論してるのに、気づかないなんてどういうことだろう……。
ウィスプが何も教えてくれないから、職員室を出入りする顔見知りの先生と視線が合うたびビクビクする羽目になっている。なんだか馬鹿らしくなってきた。くいっくいっ。移動するのかな。
「行こう」
辛うじて聞き取れるくらいに音量が調節された声だった。その手にあるのは一冊の卒業アルバム。かなり古いものらしくうっすらと埃がかぶっていた。
三年分の学校生活が詰まった分厚いアルバムは、ウィスプの細い腕で持つにはかなりの重量なのか、プルプル震えている。おいおい大丈夫か。
「それ持つよ」
アルバムをひょいと取り上げる。本人は顔色一つ変えていないつもりだろうが、明らかに唇をわななかせている姿は見るに堪えなかった。
するとウィスプは長いまつげを瞬かせて僕を見上げた。小さく開かれた口元は、あっ、という形をつくったきり、声にならないでいる。
なんだろう。無性に恥ずかしくなってきた。普段から気を利かせるキャラじゃないから、意外な反応をされると自信を保てなくなる。
「見直した。きみもたまには役に立つようだね」
「他に言い方ないのかよ……」
息を切らして入ってきた他の生徒との入れ替わりで廊下に出る。
今まで飛び交っていたひとの声が蝉の鳴き声にかわった。僕はこれがとにかく好きだ。圧迫された空間から一気に解き放たれたような気分になるから。とはいえ、暑さで吐きそう。うわぁ。
喉元あたりまで酸っぱいものが上がってきていた。クリーム色の廊下なんていうのを小説でよく見かけるけれど、鹿野高の廊下は煤をまぶしたみたいに黒ずんでいた。
「なっちん今日も来てないね」
「それなぁ。けっこう参ってんじゃないの」
二階にある職員室から出てすぐ左手にある階段を、喋りながら降りてくる二人組。『なっちん』という渾名には聞き覚えがあった。おそらく七海と仲のいいグループのメンバーだろう。
「ほら、べったりだった男子が事故で亡くなったって言ってたじゃん」
「あー! 何て言ったっけほら……空気?」
幽希だよ! 目の前で言われると普通に傷つくわ!
「……元気を出したまえよ」
「そこは笑ってくれ!」
なんでこういう時だけ優しくするんだよ。涙が出てきた。遠慮のない笑い声を背中で聞きながら、冷たい壁にもたれかかった。時間が経つにつれじわじわと生ぬるくなっていく。汗と混じって気持ち悪い。耐えられなくなって体を離した。
「安心するといい。きみは幽霊の中ではとりわけ存在感がある」
「慰めてんの?」だとしたら全然嬉しくない。幽霊のなかでは存在感があるって何だよ。特にその『では』って何だよ。
ウィスプは肩をすくめて、
「どこかで休もう」と言った。
事前に配られた進学クラス向けのプリント通りなら、あと五分で課外授業が終わる。
ようやく解放された学生たちの、学校は糞だな、夏休みを返せ、といった怨嗟の声で廊下がざわつくだろう。
もしも僕が生きていたら、遊びの予定を立てはじめる連中を横目に、廊下の隅っこを歩いて帰るところまで容易に想像できた。こんな気分の下がる妄想に対して〝もし生きていたら〟を使わないといけないあたり、死人ってめんどくさい。
「それなら――」
屋上がある、言いかけて止める。目の前にいる変な名前の少女。未来が視える幽霊。こいつにはもう分かっているのだろうか。
「外に出よう、あそこはうるさくて敵わないからね」
天井を指差しているウィスプの表情が暗かった。しかし、それについて深く考えようとはしなかったので、結果的には見逃してしまったと言える。
「ここが空いていてよかったね」
学校の自販機でジュースを買わされた僕が戻ってくると、ウィスプは職員室から盗み出した古いアルバムを広げ、小さな手で顔をパタパタと扇いでいた。
ここ、とは校舎の影になっている場所に誰かが置いたカフェ風のテーブルのことだ。反対側の校舎に設置されている自販機から離れているし、椅子がちょっと汚いし、冬は寒いし、夏は蒸し暑い。日陰なので虫が多いのか、横に積んであるコンクリートブロックの上に市販の虫よけスプレーが散乱している。
「ぼくが向かう先にはかならず空席があるよ。この猛暑の中できみが椅子に座ることができるのは他でもないぼくのおかげだ。感謝したまえ」
「その椅子を座れる状態にしたのは僕なんだけど」
使っていない椅子の背もたれにかけてある汚れた雑巾を指差してやる。むしろ感謝されるのは僕であるべき。
「ふむ、ご苦労」
「だけか!」
「それ以上に何を求めると言うんだ……ぃ」
ウィスプは、僕が買ってきたアップルジュースを手に取ろうとしてしかめ面になった。
「言っとくけど、鹿野高の自販機でまともなやつそれぐらいしかないからね」
言わんとしていることに気づいて釘を刺しておく。インドカレーが飲みたいならどうぞ。ていうか、なんで自販機にインドカレーがあるんだろう。「つめたい」って表示だし。絶対買いたくないんだけど。
「時間があまり残されていないから、本題に移ろうか」
ウィスプの冷え切った声に、僕は、まるで鋭利な刃物を突き付けられたかのようにこわばった。そして周りの温度も嘘みたいに寒く感じた。このときの心理は上手く説明できない。言葉にしてしまうと現実感がなくなって、でも本当にウィスプのことが怖かった。
「ぼくらの目的はロストしてしまった柏敏樹を見つけ出すこと。そのためには、きみ自身が存在についてよく知っておく必要がある」
ウィスプは額に右手を当てるとすぐにため息を吐いた。
「――しかし、存在を理解することが極めて難しいことは、ドイツの哲学者であるハイデガー自らが著した『存在と時間』から読み取ることができる。存在するとは時間的であるということ。では時間とは何か? そもそも時間とは何の単位なのか? それぞれの時代によって多くの解釈がなされてきた。今から数十年も先の話になるが、とある無名の学者によって提唱される『Ignis―Atlanta理論』では、存在了解半径における存在因子√Iのふるまいによって、過去・現在・未来という時間内での存在が確定する、と述べられている」
真剣な面持ちで僕を見つめてくる。だから僕も真剣に返した。
「意味わかんないんだけど」
「ふふっ、そうだろうね。……もう少しだけ続けていいかい?」
断ったら泣き出してしまいそうに思える口調で確認してきた。そんな寂しそうに言われたら頷くしかないって分からないのかよ。
「うん……聞くぐらいなら別にいいけど」
跳ね除けれずに了承すると、ウィスプの表情が明るくなった。
「……この理論では、ロストについても事細かに記載されていた。ロストは死の瞬間に特定の条件が重なることで偶発する√I改変という現象によるものであり、きみには『タイトルがなくなってしまうこと』だと説明したはずだ。√I改変の始端点にあたるのは『死の直後』であり、まさにその瞬間、√I改変が起きた人間は時間から独立する。まだこの時点では普段と何も変わらず過ごすことができるんだ。人によっては何年もね。それが死を自覚すること――意識の次元の覚醒によって√I改変は急速に進行していく。期限は約一週間。やがて終端点を通過し、存在因子が負となれば、存在了解半径の向こう側に行ってしまう。この時、時間から独立した存在が向こう側に引っ張られてしまうので、人間の意識の中では存在しなかったと書き換えられてしまう」
背筋が凍った。どうしてか分からないけれど、それを聞いて、何か大切なものが失われてしまうような錯覚に陥ってしまった。
ウィスプの言っている内容の百分の一も理解できていないのに、得体のしれない喪失感に胸を締め付けられ、痛みすら感じていた。
「このようにロストという怪現象について言及している理論の登場によって、存在への理解は深まり、双生ホムンクルスやハンドマン現象の解決へと……」
「ウィスプ?」
一人で考え込んでしまったウィスプに声をかける。すると顔を上げ、「そういえば」と切り出した。
「きみは幽霊だから存在因子は正でも負でもなくゼロだ。掛け合わせることで他の存在をゼロにすることができる。ぼくは中途半端な幽霊であるがゆえに人間にも視えてしまうが、きみと肌を触れ合わせることによって視えなくなっていたんだよ。つまりきみは触れたものを一時的に消すことができるんだ。あくまで人間の目からだがね。この〝幽化現象〟を憶えておくと今後役に立つだろう」
「あぁ……そう」
手を繋ぐことに素粒子の半径程度は期待していた僕は一体……。そりゃまぁ出会ってから二日目だし。そんな深い意味はないと思ってたけどさぁ。
「死んだ魚の方がまだ美しい目をしているね」
「だいたいウィスプのせいだけどね」
「そうなのかい? それよりもこれを見たまえ」
ウィスプはアルバムのとあるページを開いて、僕に手渡した。
「なにこれ……気持ち悪い」
僕が見たページは、三年B組の名簿と卒業写真が貼ってあるところで、その中の『柏 敏樹』と書かれた写真だけが異様なものだった。新生児、幼少期、青年期、そして老年期……すべての時間の顔が同時に視えている。よくあるパラパラ漫画のように目まぐるしく進んで、戻ってを繰り返していた。
「これが存在了解半径を越えてしまった人間の時間の流れだ。ロストした先にあるのは楽園かそれとも果てしなく続く無か、どうであろうと構わない。ぼくらは幽霊にしかできない仕事を始めようか」
と言って、ウィスプはスマホを取り出した。待っていたかのように電話が鳴り出す。慣れた手つきで電話に出ると、「蒼佑か。ぼくのほうは終わった」「なるほど」「迎えをよろしく頼む」といった短い返事だけで会話を済ました。電話だとあまり喋らないようだ。会って話すとどこから言葉が出てくるのか疑いたくなるほど饒舌だけど。
ウィスプはメモ帳に四月三十日と書いて、魔女のようなロングドレスの内側から枝付きの銀の燭台を取り出し、机の上に置いた。
次に、絶えず変わり続けている不気味な卒業写真を鋏で切り取り、真ん中の燭台の蝋燭に火を点けると、四月三十日と記した紙と写真を一緒に燃やし始めた。
「ぼくは未来予知の幽霊であり、魂の案内人でもある、何の変哲もない魔女。このつまらなくてたまらない世界で、ほんのささやかな魔法をお見せしよう」




