ロスト 2
智恵さんに教えられた通り、この家に住んでからずっと使っていない部屋を訪れた。
部屋の中にいるのは僕、ウィスプ、蒼佑さん、ケイさんの四人だけ。智恵さんはこの部屋に来ることを頑なに拒み、説得に応じる気配が微塵たりともなかったので、居間で待ってもらっている。許可は得ているので後ろめたいことは何もない。
「ようやくここまできたね。ぼくの視た未来があまりにも正確なものだから寒気がするよ」
これから捜索を行う、という熱の入った空気の中でウィスプの顔色は悪かった。
「どうしたの?」
「なんでもないさ。それよりぼくは、未来のぼくに背負わされた役目を果たそうと思う」
「……うん?」
ダメだ話がまったく嚙み合わない。そもそも話し合う気すらないよな。
何度も言っているように、僕はコミュ障を患っていて、幼馴染の七海しか積極的に話しかけてくれる友達がいない。なので、たとえ会話にならずとも話しかけてくれることがちょっぴり嬉しかったりする。なんて惨めなんだろう。
「この部屋で、きみの抱えている、もしくはこれから抱えることになる疑問に答えることさ」
部屋と聞こえたので、壁に沿って一周だけ見る。……僕の疑問ってなんだ?
「ええと、綺麗に片付いて……」
そこで口をつぐんだ。
八畳くらいのちょうどいい広さの部屋からは、綺麗すぎるせいか寂しい印象を受けた。……何かがおかしい。
床には物が一つも落ちておらず、珍しいかたちをした照明器具が乗せてあるデスクの上には紙が一枚もなかった。
どれだけ気を付けていようが、ふつう、生活をしているうちにだんだん汚くなってくるものじゃないか? 昨日読もうと思っていた小説とか、これからやろうと思っていた課題とか、僕にはまだ関係ないけど会社の書類とか。そういうものが置きっぱなしになっている方が自然で人間らしい。
不自然なんだ、この部屋は。
「柏敏樹、彼と出逢ったのはもうひと月も前のことだ。きみはまだ半信半疑かもしれないが、ぼくの特異な体質に起因するのか、ぼくはすれ違う死者に直感的に気づくときがある。昨日も述べたように死者と幽霊は同義じゃない。これについてはまた後で話すが、ぼくはたまたま彼に出逢った。そして、彼はぼくに気づくとこう言ったんだ、『私は何だ?』とね。これはロストの前兆で、存在因子√I改変の始まりさ」
ウィスプの瞳は僕を真っすぐ捉えて離さない。ゾクリ、と背筋に冷たいものが伝った。
「ごく一部の死者は、幽霊になるか消滅することが分かっている。前者の典型的な例はきみだ。これは言うまでもないね? 次に後者のロストだが、これを口頭で説明するのは非常に難しい。まずきみが理解できるのかどうか怪しいからね」
咳払いを一つした。
「そこで、数多くの作品に登場する有名な『シュレディンガーの猫』という命題がある。ぼくはエヴェレット解釈の方を好むし、未来を視ることができるぼくにこの命題が意味を為すのか不明だが、そんなことは置いておく。この命題では『箱の中に存在する猫』を扱っている。ロストを説明するのに必要なのは量子力学ではなく、死んだ猫さ。たとえば、猫の入った箱を三つ用意する。何者かが猫の未来を一つに絞った――つまり必ず死ぬように細工を施したとしよう。プログラムされた死だ。何も知らない哀れな観測者は蓋を開ける。しかし、その結果は何者かの思惑から大きく外れてしまう。一つ目の箱は猫の死体が入っていた。二つ目の箱には猫の死体だけでなく全く同一の姿かたちをした猫が入っていた。どうやら他の人間には視えないらしい。観測者はこれを幽霊と名付けた。さらに三つ目の箱には生きたままの猫が入っていた。餌もよく食べるし、他の人間にも認識される。だが、しばらくすると猫は消えていた。誰もその猫は知らないらしい。そもそも箱は二つだったじゃないかと言い出す始末だ。この現象を存在の消滅と名付けた――ここまではいいね?」
「まぁ、うん」
「あとは設定の規模を広げればいい。何者とは神であり、箱は世界で、猫は人間、観測者はぼくだとすると、きみは幽霊となり、ロストはその人の存在がはじめからなかったことになる一種のバグだ。その前兆が彼には現れていた」
ウィスプが呼吸を整える僅かな時間を待ちきれず、湧き上がってきた「それで」という言葉を飲み下した。徐々に興味が引き立てられていく。
「ぼくは彼に伝えたよ、『きみは死んでいるんだ』ってね。はじめは呆気に取られた顔をしていたけれど、次第に納得したような表情をしていた。餞別として〝最期の日〟を教えてあげたら、彼の人生を語ってくれたよ。きみはあからさまに顔を歪めたが、人生の終わりを振り返っている人の言葉っていうのはね、色々な想いが詰まっているものなんだ。……彼の話を聞いていると、敏樹という人間はどうも誠実すぎることが分かった。とにかく擬態が下手なんだ。周りと同じように生きていくことができないから、相当な苦労をしたようだよ。そのせいで上司に怒鳴られたり、同僚に騙されることが多かったようだ。他にも趣味は山登りで、妻との思い出は山にあるのだとか、娘に彼氏ができたらしく複雑な心境だ、とかね」
憐れむように、目を伏せた。
「しかし、彼の存在はすでに√I改変の終端点を通過し、存在因子が負となった。ロストしたんだ。それによってぼくの中にある柏敏樹の記憶が偽りのものとなり、この世に彼を知る人間は一人としていなくなった」
「あの」
か細い声だったがウィスプには聞こえたようで、会話が中断される。彼女の非難するような視線を浴びながら、僕はもごもごと口を動かす。「頭がこんがらがってきたからもっと丁寧に」なんて面と向かって言えるはずがなかった。完全に怖気づいているな、僕。我ながら情けない。
「……きみの心情を代弁するならば、『分かりやすく言えよクズ』かな?」
「そこまでは思ってないよ」
「そうかい」と言ってウィスプは笑った。
そして窓際に置いてあるベッドに腰かけた。他人の部屋だというのに遠慮の欠片もない。ずうずうしい、というより慣れているの方が似合う。不思議なやつだ。
ウィスプは浮いている足をパタパタさせつつ、
「ぼくにとっては、きみにこの話をしたのは二回目。でもきみにとっては初めてだよね。今度は分かりやすく話せるように努めたつもりなんだけどなぁ……」
懐かしそうに遠くを見つめた。
「そうそう、きみはライトノベルを好んで読んでいたね。過激な内容のものは七海にバレないように隠しているのだとか」
「うっ、そのっ……はい」
恥ずかしながら事実だった。別にラノベを読んでいることが恥ずかしいわけではないよ。ただ、ほらね、七海にバレるとヤバいやつがあるわけで。
具体的に挙げるとハーレムとか。やっぱ男の夢でしょ。七海だってイケメンにちやほやされたい願望の一つや二つ……美少女だもんなぁ。困ってないよな、友達多いし、泣けてくる。
「ドイツの小説家であるジャン・パウルは人生は一冊の書物に似ていると言った。人生たる書物の、血で綴られたページには、さまざまな歴史があり人間模様があるだろう。きっとタイトルには緋村幽希、藍田七海、そして柏敏樹、他にも数えきれないほどあって、それぞれが類似したジャンルに分けられて本棚に並べられているだろうね。人によって内容も、厚みも全然ちがう。若くして亡くなった人のものは短編小説だろうし、記憶を失くした人のものはどこかのページが破れてしまっている」
人差し指で空間をなぞり、指揮するようにリズムをとる。
「幽霊になったきみの小説は上下巻だったのだろうね。人間としての上巻が終わり、幽霊としての下巻が始まった。これに当てはめると、ロストとは、何かのはずみでタイトルが消えてしまうことを指す。この本が誰のものなのか分からなくなってしまうんだ」
耳にスッと入ってくる話し方だった。内容もさっきとは違って分かりやすい。小説に馴染みのある僕にはこのたとえの方が理解しやすかった。
ロストとは何か。
輪郭はまだぼやけているけど、繋がってきた。
存在がはじめからなかった事になる。考えただけでも虚しくなってしまう現象だ。
「そうなると当然、他の書物にも影響が出るよね。登場していたはずの名前が空白になってしまう、或いは大事なセリフの部分が消えてしまい一人語りをしているページが出てきてしまう。第三者から見れば明らかに歪な小説になるが、それでも気づけないんだ。存在しないことになっているのだからね」
それだけでは終わらないことは分かる。存在しないものに名前は付けられない。ウィスプが『ロスト』と名前も付けたのだから、と。
「そう。〝いなくなった人〟に気づける人たちがこの世にはいる」
いやらしいほど自信に満ちた顔で、言い放つ。
「それは幽霊だ」
やっと分かった。少しだけ。ウィスプが魂の案内人と名乗る理由も、依頼の意味も、幽霊の役割も、うまく説明できないけど直感的に理解できた。
「柏敏樹というタイトルを見つける。それが今回の依頼なんだ」
「それって……」
普通に考えたら不可能だ。探偵っぽく聞き込み調査を行うにしても、存在しない人を探すなんて馬鹿げている。
「それが不可能じゃない。現にこうして、妻である柏智恵が空白に違和感を覚え、ぼくに依頼をしただろう。人の記憶とは不思議なものでね、ロストしたはずの人を幻影や幻聴を伴って思い出すことがある。ぼくはこれを想起と呼んでいる。今回は捜すべき人が分かっているかなり例外的な依頼だが、きみに経験を積ませるには絶好の機会と言えよう」
「えっ、僕は巻き込まれる前提なの?」
「当たり前だろう」
「……はぁ」
「ま、強制はしないよ。ぼくらが捜そうとしているものは、存在しない者、すなわち空想に過ぎない。このまま帰ってオンラインゲームの続きをやるもよし、ぼくらと共に彼が残した足跡を辿るもよし。好きにするといい」
そう言われると無視してはいけないのでは、と思えてくる。このまま帰れる勇希なんてヘタレな僕にあるものか。どうせ帰っても暇だし。端から選択肢とかあってないようなもんだ。
「やるよ、やればいいんだろ!」
「きみは素直じゃないね」
「どっちがだ!」
ウィスプは大きく伸びをしながらベッドに寝転ぶ。くたびれた。大の字に投げ出されてた手足がそう言っている。ほんとうに大丈夫なんだろうな。
「くくくっ」
笑い声。しかも重なってる。した方を見ると蒼佑さんとケイさんだった。あぁこの人たちも来てたな。すっかり忘れてた。
どうやら二人はウィスプを笑っている?
「いやー面白かったよ。ウィスプは幽希くんが話を真剣に聞いてくれるから、たくさん話すぎて疲れちゃったんだよねー」
「そうだな。普段はあんまり喋る方じゃねーし」
「ななっ! ぼ、ぼくを二人して馬鹿にするのか!」
「そんなことないよ。おれらは喜んでんの」
「成長ってやつだな」
二人に突っ込まれて顔を真っ赤にしているウィスプは可愛かった。笑っていてもどこか悲しい雰囲気があったから、こっちの方が何倍も魅力的だと思う。
「う、うるさい! 幽希! きみも嬉しそうな顔をするんじゃない!」
「してないしてない」
ウィスプはベッドの上でじたばたした後に、崩れ去った威厳を取り繕い、
「とにかく! これより追跡を開始する、Wir mussen wissen ! Wir werden wissen !」
高らかに宣言した。




