ジャック・オー・ゴースト 2
ウィスプの本名は冥なのだと、蒼佑さんはこっそり教えてくれた。
「普段はウィスプって呼んであげて。冥ちゃんって呼ぶとすごく怒るからさ」
「はぁ……」
複雑な理由でもあるのだろうか。自分の名前が嫌いとか。まったく見当がつかない。
「冥ちゃん、可愛い名前なのにもったいないなぁ」
「その名前で呼ぶんじゃない! それと気安く撫でるのはやめてくれ」
「えぇ~、だって人形みたいで可愛いんだもん。あとウィスプって言いにくいよ」
「なんだい、七海はぼくのネーミングセンスに問題があると言いたいのかい?」
「問題あると思いますよ」
「ユウくん! 声にでちゃってる!」
「きみもか! そもそも名前なんていうのは存在を認識するために割り当てられた単なる記号に過ぎない。気に入らなければ変えればいいんだ。この、ウィスプ、はぼくを表すのに最も相応しい言葉だっただけさ。語感や血統などといった何一つ価値のないものを基準にするよりよっぽどセンスがいいと思うけどね」
清々しいセリフだった。よく噛まずに言えるな。喋ることが苦手な僕は、三日間みっちり練習しても言い間違える自信がある。
「おまえらは知らないと思うが、ウィスプもけっこう準備してたんだよ。昨日なんて、『明日は来客がある』とか言って店の掃除してたし、今日着てくる服を真剣に悩んでたんだ。いつもなんて髪はボサボサのパジャマ姿だからな」
「そうそう、ウィスプはあれでも普通の女の子だよ」
ケイさんと蒼佑さんが意外な一面を暴露する。
「なッ!」
七海の腕の中におさまっているウィスプが肩を震わせていた。
こういうやり取りを輪の外から聞いているのは嫌いじゃない。積極的に会話に参加するのは苦手だけど、会話を聞くこと自体はけっこう好きだ。
「ユウくん、なんか嬉しそう」
「そうかな?」
「うん、昨日の事があってから一番いい顔してるよ」
七海も嬉しそう。だけど、わざとらしく口を尖らせてるのが気になった。
「ナツ、なんか僕に言いたいことあるの?」
「べつにー? なんでもないですぅー」
「ふん、この愚鈍な生き物に女心を理解させようと思っているのなら諦めた方が賢明だ。未来を視たぼくが言うんだから間違いない」
ウィスプは容赦なかった。ムッとしたけれど、他人の心情を察するのも苦手なので、反論できなかった。
「未来予知って便利なんだね」
「そうでもない。未来予知と言っても万能じゃないんだ。まず予知することができるのは、ぼくに関係する幽霊もしくは死に限りなく近い者のみだ。自然災害や生者が行う犯罪なんかは未然に察知することはできないよ。そして予知できても全てじゃない。何もできないことだってあるんだ。運命を変えるってのは、開きっぱなしの蛇口を捻るみたいに簡単な作業じゃないんだ。でも――」
ウィスプは言葉を切り、柔らかく微笑んだ。
「感謝している。この能力のおかげでぼくは多くの魂を在るべき処へ導くことができた」
「在るべき処? どこに導くの?」
「いずれ知る機会が来るさ。その時によく考えるといい。もっとも、ぼくと関わりを持つことになればの話だけどね」
ウィスプは哀しみを込めた目で僕を見ていた。いずれ知る機会が来る。そんなことを言われても、この少女と同じ景色を視ることができない僕には知りようがなかった。
「マスター! もう一杯!」
ケイさんが叫ぶように言った。
「おれも」「私も飲みたい!」「えっと、僕も」
あとに続いて僕らも口々に言い出す。
「まとめて頼めばいいじゃないか。マスター、コーヒーを五つ、お願いするよ」
ウィスプがまとめて注文した。ちゃっかり自分の分まで頼んでるし。
それから一時間くらいは五人で談笑していた。ついでにスイーツを頼んだりして。色んな話を聞いた。ケイさんはパチンコに負けて幽霊なのに借金があるとか、マスターが喋るのはオリンピックが開催される頻度くらいだとか。
蒼佑さんはドッペルゲンガーなので、『七海ちゃんのハダカが見たければいつでも言ってくれ』と悪魔の囁きをしてくれやがった。七海に足を踏まれなかったら僕はその誘惑に乗っていただろう。
なんでも、日頃から美女の恰好をして男を引っ掛け絶望させるのが趣味らしい。とんでもないやつだ。僕も危うく騙されるところだった。
そういえば、いちばん重要なことを忘れていた。
「あのぅ、幽霊って普通の人には視えないんですか?」
「そうだな。俺はそこら辺で歩いてても無視されるぞ。蒼佑なんかは他人の姿になってるときは視えちまうらしい。ま、そこら辺はウィスプに聞けば夢にまで出てくるぐらい教えてもらえるだろ」
ケイさんは顎を持ち上げて示した。質問に答えたはいいが途中から説明が面倒になってきたんだろう。めんどくさそうな雰囲気が伝わってくる。
「視えないよ」
ウィスプの答えはたったの一言だけだった。もっと難解な単語がズラズラ出てくると思っていたのに。
僕が戸惑っていると、ウィスプがさらに付け加えた。
「ぼくが定義する〝幽霊〟は人間の目には映らない。蒼佑のように何らかの能力を行使すれば変わってくるけれど。……もし憶えておいてほしいことがあるとすれば、幽霊は死者ではない、それだけだ」
「どういうこと?」
「きみは自分の死体が何処にあるのか知っているかい?」
「実際に確認してはないけど……」
「きっと墓の中だと推測できるね? それが正しいんだ。ぼくが定義する幽霊っていうのは――」
「スワンプマンみたいなもの?」
僕が言うと、ウィスプの頬が凍りつき、やがて笑顔へと溶けた。
「分かっているじゃないか。愚者の代表のような顔をしているきみがどうして辿り着くことができたのか謎だが、認めよう、その通りだ。馴染みのある言い方をすれば転生の一種にあたる」
偶然にもウィスプの解答と一致したようだ。それにしても僕の評価が低すぎる。
「生まれ変わったってこと?」
七海が口を挟む。ウィスプは軽く頷いた。
「そう、だから何も問題はないんだ。科学的ではないけれど、起こってしまったものは仕方ないだろう? ぼくらはそれを受け入れて新しい理論を導くしかないからね」
「幽霊になるのはいいことなの?」
またしても七海。ウィスプはため息で返した。
「きみは話の腰を折るのが上手いようだ。一概にそうとは言えない。きみの言う『いいこと』が人間に対してなのか、当人に対してなのか、それとも現象に対してなのか……」
「幽霊になっても大丈夫なのかなーってこと」
「なるほど。幽霊になることは大問題だ。今の幽希は〝幽希〟という人格を持った不完全なコピー人間に過ぎないし、その体を構成する物理的な情報はどこからやってきたのか、という存在に対するパラドックスを解決しなければならない……きみの質問への答えになってなかったね。安心したまえ、幽希の体調について憂うことはないよ」
「よかったぁ」
七海は安堵したようで、小さな笑みを浮かべていた。
コトッ。ウィスプが空になったコーヒーカップを置く。そして僕のほうを向き、言い聞かせるような口調で話を続けた。
「幽霊になることは全く問題ではない。存在に矛盾がないからね。しかし問題なのは死体が動いているという矛盾。厄介なことにソイツは人間の目に視えてしまう」
それを聞いたとき、一瞬、七海を見てしまった。そんなはずはない。七海は生きている。
僕は反射的に七海の手を握っていた。こんなにも体温を感じられるじゃないか。死んでいるはずがない。七海は不思議そうな顔で僕を見ている。だいぶ落ち着いてきた。
ウィスプはそんな僕を一瞥し、話を切り上げた。
「他に何か聞きたいことはあるかい?」
「えと、ウィスプはほんとうに幽霊なの?」
さっきの話を聞くかぎりでは、やはり幽霊は普通の人には視えないらしい。でも、未来予知の幽霊だと名乗ったウィスプの声はマスターに届いている。
マスターは僕の姿を視ることができなかったので〝普通の人〟だろう。ウィスプがおかしいってことだ。
「どちらでもないよ」
淡々とした口調だった。それにぞっとするくらい冷たい。
「その……ごめん」
無意識に謝罪していた。
ウィスプはそのまま席を立ち上がると、カウンターに置きっぱなしだった本やら資料やらといったものを片付け始める。聞いてはいけないことだったのだろうか。
声を掛ける間もなく、さっさと準備を整え、僕らに向かって振り返った。
「来たまえ」




