赤い糸
ある日、目が覚めたら身体にどこか違和感があって、どうしたんだろう、なんて思いながら違和感の元を探すと、それはどうやら右手にあるらしい、ということに気がついた。なにか引っかかっているような、引っ張られているような、とにかく、右手になにかくっついている。
おかしいな、怪我でもしたかな、なんて思いながら右手を顔の前に持ってくると、なんと小指に糸がくくりつけられていた。それは真っ赤な糸で、私の小指からどこかへと伸びている。
「なんですかこれは」
手繰り寄せてみると、壁を突き抜けて外に出ているではないか。
なんとかしなければ……と思いつつ時計を見ると、ちょっとヤバい時間だった。あと十分ほどで家を出なければ学校に遅刻してしまう。
「……やっべぇ」
その瞬間、頭から糸のことなんか吹っ飛んで、私は大急ぎで着替え始めた。
本気で頑張れば、きっと結果はついてくる。たとえ遅刻が濃厚でも、全速力でダッシュすれば間に合う。努力って大切だ。
間に合ってしまえば、あとは学校なんてとりあえずそこにいれば良い。なんとなく授業を受けていれば、いつのまにか数時間たっている。そういうものだ。
いつものように気がついたら放課後で、今日の授業のことなんて全然覚えていないまま、私はだらだらと帰路についた。
その時になって、ようやく思い出す。
「……これ、なんなんだろ」
右手の小指にくくりつけられた糸は、朝と変わらずそこにある。授業中などは全く気にならなかった。どこかへ引っ張られているようにぴんと張り詰めているけれど、その先は壁を突き抜けているので分からない。小指にくくりつけられた感覚はあるけれど、どうやら触れないみたいだ。
意味が分からないけれど、実害はなさそうだから放っておいた。
小指に糸がくくりつけられてから、三日が経過した。慣れたもので、完全に無視して普通の生活が送れている。害はないし、そもそも私以外の人には見えないらしい。
誰も私の小指にくくりつけられた糸について、なんだそれ、と尋ねてこない。
「見つけたぞ、運命の相手!」
目の前で大喜びをしている、この不審な男を除けば。
「……あなた、なんなんですか?」
隣街の高校の制服を着ているので、年齢は私と同じか、ひとつ上かひとつ下だ。目元がきりっとしていて顔は悪くないけれど、頭は悪そう。でも、たしかあの高校は私の高校よりもずっと偏差値が上だったはず。
「はじめまして、俺は君の将来の夫だ」
「はぁ?」
馬鹿か、こいつは。
思えば、私にとって彼の第一印象はあまりにも酷いものだった。
家の近くにある公園のベンチで、急に現れた変な男子高校生と並んで座った。
どうやら、私の小指にくくりつけられた糸は、運命の赤い糸らしい。この糸で繋がれたふたりは、死ぬまで添い遂げるような運命なんだそうだ。
「……ウソくさい」
「本物を見てもそんなこと言うかな、普通」
確かに私の小指には糸がついていて、それは彼の小指に繋がっている。けれど、こんな意味が分からないもので運命がどうこうなんて、信じられるわけがない。
「まあ、とりあえず結婚しよう。よかった、君みたいに可愛い子に繋がってて」
「え、しませんよ」
「なっ……」
こんな意味不明なものを根拠にしての求婚なんて断って当たり前だけど、彼は信じられないみたいな顔をして驚いた。やっぱり馬鹿だったみたいだ。
「私まだ高校生だし、大学でもやりたいことあるし、そもそもあなた誰ですか?」
「君の旦那だ」
あまりにも自信満々な顔に、ちょっとイラッとくる。そこそこ整っているだけに、自信に満ちた顔をされると癪にさわるのだ。
「ハサミ持ってません?」
「何に使う気だい」
「糸を切るんですよ」
「良かった。ハサミは持っていない」
「使えねー旦那さんですね」
それから、なんでかは分からないけれど名前を聞いて、連絡先を交換する羽目になった。本当はこんな意味の分からない男の連絡先なんて知りたくないし教えたくもなかったけれど、なんだか必死だったから、かわいそうになったので仕方なく教えてやった。
「教えてあげましたけど、結婚する気もないし、付き合う気もないので、あまり馴れ馴れしいとネットに晒しますからね」
「リアルな脅しだね」
「脅しじゃないです、確認です。ウザかったらネット行きです。はい、分かりましたっていう、ね?分かるでしょ?」
「え、分かんない」
「だから、つぎ私の旦那を自称したら晒します」
この調子でなし崩し的に付き合ってる感を出されたら、はっきり言って迷惑だ。まだ会ったばかりだし、第一印象だってそんなに良い方ではない。
「……仕方ないな、友達からはじめよう」
「友達でいましょうね」
新しい友達ができてから、半年ほど過ぎた。
彼はなにかあるとすぐに私に連絡を寄越して、なにかと会う約束を取り付けたがる。
「明日はごめんなさい、予定があるんです」
「そうなのか……」
明日は日曜だから、一日中家でゴロゴロしているという、どうしても外せない予定がある。
けれど、ちょっとウザったいとはいえ、それなりにまともな距離感で会話できるくらいになった彼は、なかなか諦めようとしない。
「じゃあ、来週はどうかな」
「来週、は……」
親戚の法事は先週使ってしまったし、家族の病気も全員分使った。ペットもたしかこの前使った気がするし、かといって私自身になにかあったことにすると後が面倒だ。
「……良いですよ、来週」
仕方ない。
たまには、彼の誘いに乗ってやろう。
運命の相手がどうこうという話をしたらすぐにおさらばだ、と言っておいたのが功を奏したのか、普通に遊ぶだけなら彼は驚くほどまともだった。買い物なり、映画なり、何をしても普通に友達。
ちょっとお金を持っているらしいというのがちらりと垣間見えたりするけれど、あまり深く探りを入れるのも気が引ける。気が引けるというか、結婚的なものに向けて品定めしていると思われそうでムカつくのだ。もちろん、全くその気はない。
「今日は楽しかったよ」
「そうですか。良かったですね」
彼の誘いに乗って出かけてやるようになってから、今回でたしか五回めくらい。彼は毎回こんな風に「楽しかった、ありがとう」と笑う。
「私もそれなりに楽しかったですよ。百点満点で七十くらいですけど」
本当はもう少し加点してやっても良いけれど、そうすると彼との距離が縮んでしまいそうなので、これくらいにしておく。
それでも、彼は無駄に嬉しそうだ。
「ちょっと優しくなったよね」
「そうですか?」
私としては、優しくしているつもりはない。ただ、あまりにも突き放すと可哀想なので、友達としてありがちな距離感を探りながら接しているだけだ。
「うん。一日に三回くらいは笑ってくれるようになった」
「うわ、数えてるんですか。ていうか、一日三回笑うだけで優しくされてるって、言ってて悲しくなりません?」
「前より優しいからね、良いんだ」
すると、にこにこしていた彼が、ちょっとだけ真面目ぶった顔をする。
「運命の相手が笑ってくれると幸せなんだよ」
馬鹿馬鹿しい。
運命の糸で繋がっていれば、相手は誰でもいいみたいじゃないか。なんてことを一瞬だけ思ってから、すぐに打ち消す。これでは、私も運命の糸なんて信じてしまってる痛い子みたいだ。
「まだ運命の糸なんて信じてるんですか」
「信じてるよ。君みたいに素敵な子に会えたんだから」
そういう話をしたらネットに連絡先を晒す、と言っているのに、彼はいま、真顔で私を口説いている。半年以上接してきて分かったことだけれど、彼は人と話したことを忘れるような人間ではない。それに、口にしたことには責任を持つタイプだ。
そんな男が、真顔で私を口説いている。
「……やっぱり馬鹿な人ですね」
こういう空気は嫌いだ。
「それじゃあ、また今度」
まだ何か言いたそうだったけれど、私はさっさと彼から離れることにした。あのままだと、次は何を言われるか分かったものじゃない。
彼と出会ってから一年。
頻繁に連絡がきて、たまに出かけて、たまに真面目くさい顔をして口説かれる。
気温が下がってきた十月。そろそろ受験を気にしなければならないので、少し連絡を控えて欲しいと言ってみたら、彼はすんなりとそれを受け入れた。意図的に言い忘れていたけれど、私はもう夏休みに推薦で進学を決めている。
「受験、頑張ってね」
心の底からそう思っているとみて間違いなさそうな顔をして、彼は微笑んだ。私のことを応援してくれている、という事実は、ありがたく頂戴しよう。
「ありがとうございます」
彼が連絡を控えてくれるようになってから、二週間がすぎた。
平和そのものだった。
さすがに鬱陶しいとは思わなくなってきたけれど、ないならないで寂しくもない。やはり、ちょうどいい友達といった感じがしっくりくる。
なにが運命の赤い糸かと、ふと右手に目をやると、小指の糸がなくなっていた。
「あれ……」
いつからなくなっていたんだろう。あまりにも当たり前にあったから、なくなっても気付かなかった。
なくなった、ということは、運命の相手ではなくなったということだろうか。そもそも、運命の相手って変わったり消えたりするんだろうか。
とはいえ、もう糸はない。
私と彼を繋ぐものはなくなった。
彼もなくなったことに気づいているはずだ。
もう、連絡はこないかもしれない。
「……清々する、かな」
これからはもう、頻繁にやってくるメールや電話、日曜に早起きして服に悩むようなこともなくなる。
平和な日々が帰ってきたのだ。
「珍しいね、君から誘ってくれるなんて」
糸がなくなったことに気づいてから二週間。ある寒い日の放課後、私と彼は日が暮れた公園のベンチに座っていた。
「べつに、たまには私から誘ってもいいじゃないですか」
「初めてじゃない?」
「そうですね」
ずいぶん久しぶりに会ったような彼は、相変わらずだ。
手を見ると、やはりふたりの間に糸はない。
彼の指にも糸はなかった。新しい運命の相手もいないらしい。まあ、そんなの極めてどうでもいいけれど。
「最近どうですか」
「どうもこうも、いつも通りだよ」
彼だって受験があるんじゃないかと思ったけれど、あまりにも普通なのでなんだか聞きにくい。そもそも、わざわざ聞くようなことじゃないし。
「君の方こそ、受験勉強頑張ってる?」
「ものすごく勉強してますよ」
受験はもう終わっている。けれど、入学までにこなさなければならない課題が山とあるので、勉強を頑張っているのは事実だ。
そのまま、ふたりでどうでもいい話をした。
私の通う大学と、彼の狙う大学が電車で二駅くらいの近い距離にあるということを知ったり、高校を卒業したら実家を出るつもりでいることなんかを教えてもらったりした。
「一人暮らしですか。すごいですね」
「君もくるかい」
「はぁ?」
つい、鼻で笑ってしまった。
「まだそんなこと言ってるんですか」
もう糸もないのに、と続けようとしたら、彼がまたちょっと真面目ぶった顔をして私を見た。
「本気で言ってるんだよ。大学に入って、ちょっと落ち着いたら、一緒に暮らさないか」
「だから、もうそういうのいいじゃないですか。運命の相手じゃなくなったんですよ?」
「運命の相手だよ、君は」
「やめてください。糸だって消えたんだし、私にこだわらなくてもいいんですよ」
すると、彼がきょとんとした顔をする。
不思議そうな顔で、首を傾げながら私を見た。
「……あれ、分かってない?」
彼はそう言いながら、私の右手を握る。少し前なら振り払ってビンタしてやるところだけれど、今回は特別に見逃してやる。
「糸が見えなくなったでしょ?」
「そうですよ。だからもう運命の相手じゃなくなったんですよ」
「違うよ。なんだ、分かってなかったのか」
「なんなんですか」
話が見えない。ちょっとイラついてきたところで、彼が微笑む。
「糸が見えなくなったからって、繋がりが消えたわけじゃないんだよ。むしろ……」
そう言いながら、彼は堪えきれなくなったみたいに吹き出した。
「なに笑ってんですか」
「ごめんごめん」
私が膨れてみせると、彼が軽く咳払いをして、まだ少し笑いの余韻が残る顔で口を開く。
「運命の赤い糸はね、運命の相手を探すために見えるようになるんだよ。だから、ふたりの気持ちが通じ合ったら見えなくなるんだ」
「えっ」
「糸が見えなくなった時、俺はすっごい嬉しかった」
「ちょっと、ちょっと待って下さい、あの、えっと……え?」
運命の相手を探すために、赤い糸が見えるようになる。そこまでは分かる。そして、気持ちが通じ合ったら、赤い糸は見えなくなる。たしかに、運命の相手と気持ちが通じ合ったんなら、もう目印をつけなくても、一緒にいるんだから見失ったりしない。なるほど、理屈としては正しい。
が、しかし……。
「ちょっと待って下さいね、てことは、えっとえっと、糸が見えなくなったんだから、つまり……」
彼の話が本当だとすれば、事実はひとつしかない。
「私が、あなたに惚れたってことですか?」
「違うの?」
「全然、そんな、こと……」
ありえない、と言い返そうとして、彼と目が合った。どんどん顔が熱くなってきて、言葉が出なくなる。けれど、視線だけは彼から外せない。
「俺はもうずっと前から君のこと好きだよ」
彼が微笑みながら言う。
「……運命の相手だからですか」
「最初はそうかもしれないけど、今の気持ちも全部そうってわけじゃないと思うんだ」
それから、彼は恥ずかしげもなく私の好きなところを話はじめた。それはもう、聞いてて発狂しそうになるほど、彼は私のことをよく見ている。細かい口癖とか、表情とか、仕草とか。私の視線、彼にかけた言葉まで、私のなにが彼を惹きつけたのか、事細かに教えてくれた。
「もう分かりました、やめて……」
顔が熱すぎる。彼を見ていられない。
「知れば知るほど君のことが好きになった。君みたいな子に出会えて、俺は本当に幸せなんだ」
「もう分かりましたから……」
彼は信じられないくらい恥ずかしいことを平気で言う。一緒に出かけた時も、綺麗なものを見たら綺麗だと言い、可愛いものを見たら可愛いと言う。感動したら涙を流すし、楽しかったらすぐに笑う。私にはとても真似できないくらい、素直でまっすぐだ。
たぶん、糸が見えなくなったのは、彼のそういうところが、素敵だと思えたからだろう。
「……ダメですね。こんな変な人、絶対に好きにならないと思ってたのに。自信あったんですよ」
「あれ、てことは……」
「言いませんからね」
「そうか……」
彼が少しがっかりしたような顔をする。そんな顔を見ると、なぜか私までがっかりした気分になってきた。
「口にするのって必要ですか?」
正直に白状すると、恥ずかしいのだ。すっごい恥ずかしいから、できれば言いたくない。状況証拠で納得してくれればそれでいい。
「俺はそういう分かりやすいのが嬉しいけど、君がそういうの苦手ならいいんだよ」
彼はまた微笑んでそう言った。
これは卑怯だ。
「ああ、分かりました。分かりましたよ、はいはい、負けました」
もう、ダメだ。彼には勝てない。
最初の頃は、絶対にこんなやつお断りだと思っていたのに。今はもう、彼がいないと生きていける気がしない。自分から連絡して誘うときだって、糸がなくなって寂しくなったことくらい、自覚していた。つまらない意地を張る、面倒なやつなのだ、私は。
だからきっと、私の運命は彼に惹かれたんだろう。素直で誠実で、気持ちをそのまままっすぐに伝えられるような、そんな彼だから、私みたいなへそ曲がりにはぴったりだ。
「いいですか、一回だけ言いますよ……」
私は大きく息を吸って、生まれて初めての死ぬほど恥ずかしいセリフを、自分でも驚くくらい小さな声で呟いた。
おしまい