一つ70円
そこに立ち寄ったのは、本当になんとなくだった。気分だ。頭の中には別のものがあった。
「いらっしゃいませ」
いつもならそう聞こえるはずの声は俺の耳には届かない。単に言っていないだけなのか、それともイヤホンで音楽を聴き続けているせいなのか。
だが、その答えは俺にとってどうでもよかった。別に挨拶されないくらいで不愉快になるような性格ではないからだ。それに態度に関してはどう考えても俺の方が悪い。
駅前にあるコンビニエンスストア。時刻は既に十時を回っているのに、店内には二、三人の客がいた。けして賑わっているとは言えないが、それでもこの時間では多い方な気もする。
そんなコンビニの状況をどうでもいい感じで眺める。前と来た時とそこまで大きな変化なんて……。
ん?
大きな変化こそなかったが、レジの前でおっさんが手に持っているものが気になった。俺はそれをチラ見してみた。黄色いような、それがちょっと薄くなったような色をした容器をおっさんは持っていた。よく見ればそれはレジのすぐ傍で多量積んである。どこかで見たことあるんだが、そこまで考えておっさんの容器の入っているものを見た。
出汁を吸い取ったであろう大根、それに出汁の色に染まった卵。そこでようやく俺はそれがなんなのか気づいた。
おでんだ。様々な食材を鍋? の中で煮、その濃厚なスープを染み込ませた日本を代表する食の一つ、おでん。特にその中でも大根は、その具材の中でもトップクラスに味を浸透させる具材と言えるだろう。
お腹はすいていた。俺は今、アルバイト帰りであり、何かを食べたいという欲があった。だからこそ、何かを食べたいという漠然とした感覚でこのコンビニに来たのだ。
頭の中はおでんでいっぱいになっていた。そして、体もまたその感情に背きはしない。おっさんと同じ、おでんの容器を手に取ってみる。
トングのようなものを使ってまずは大根を容器の中に入れた。おでんと言えば大根だ。それはいかなる定義をもってしても覆ることはないだろう。しかし、問題は次だ。
おでんはおでんでもこれは「コンビニおでん」。故にそこには普通のおでんには入れないであろうものまでも入っている。俺が次に取ったのは卵だ。が、それはただの卵ではない。出汁巻き卵である。少なくとも俺はある意味冒険したかった。自分の知らないものを食べてみたいという感覚があった。と、言っても出汁巻き卵くらい普通だろうか。
最後に取ったのはソーセージだ。人によってはウインナーとも言うらしいが、俺は基本的にソーセージと呼んでいる。こいつを選んだ理由は単純だ。肉が食いたかったのだ。本来なら、友人が「美味しいよ」とおすすめしてくれた”ロールキャベツ”を選んでおきたかった。しかし、時間が時間らしい。他にあるのはこんにゃくに卵。それに焼き鳥? くらいだった。
それからお玉を手に取り、その出汁を容器の中に注ぐ。なみなみと入れるつもりはない。あくまで一杯だけだ。味など十二分についているだろうからな。
俺はそれをレジに運ぶ。店員はそれを見て、値段をレジの画面に表示させた。
「210円」
安い。しかし、それは当然の結果だった。俺はおでんを選びながらもそこに貼られていた文字をしっかりと見ていたのだ。「今ならどれでも一つ70円」という文字を。
ポケットからレシートが溜めこまれた黒い財布を取り出す。小銭用のポケットから百円玉二枚と十円玉一枚を掌に転がし、値段とあっているか確認だけしてから店員に渡した。お釣りはない。おれは袋の中に入った、おでんと箸を確認してからコンビニの外に出た。
* *
よくテレビかなんかではこれを「白い妖精」とか「氷の花」なんかで例えていたことを思い出す。俺が目にしているのは雪だ。しかし、これをロマンチックだと今は思えないだろう。なんせ今は風が雪と激しくダンスをしていたから。
俺はすぐに袋の中に入ったおでんの容器を取り出した。そこには蓋がしてある。なるほど、出汁が零れないようにするのか。コンビニの発想にはいつも助けられているような気がする。コーヒーの容器とか。チルド弁当とか。
そしてその蓋に手を乗せて捻ってみる。少し硬かったが、なんとか開けることは出来た。
蓋を開けると、そこから一斉に湯気が飛び出した。コンビニの店内にいたときはまるで気づきもしなかったが、どうやら結構熱いらしい。それでも軽く吹雪いている今には丁度いいだろう。
箸を口で割り、人の少ない駅前を俺は歩きながら、おでんの具材に手を伸ばす。
まずは大根だ。
箸で円い大根を二つに分ける。そして、その半分を口の中に入れた。熱い。噛もうとする前にその一身に溜め込んでいたであろう出汁を口いっぱいに広がらせる。時間が時間で味が濃かったが、それでも確かに美味い。
初めてコンビニのおでんを食べる俺にとって、この味は期待以上だ。何より体が温まった。
「はふっはふぃ!」
口から漏れる湯気。その中で身を震わせ、一身にしまい込んだ出汁を振る舞う大根は、やはりおでんの中でもナンバーワンだ。すぐに飲み込んでしまうのはもったいないが、まだほかにも具材は残っている。
俺は大根を飲み込み、次に出汁巻き卵に箸を運んだ。
今度は豪快にパクリと食らいつく。柔らかい。この出汁巻き卵、かなり柔らかいぞ。出汁の味は大根と比べれば天と地との差がある。だが、この柔らかさは驚きだ。柔らかすぎる大根と比べると、その噛み応えは素晴らしい。なにより、普通の出汁巻き卵と比べてもこいつはかなり大きい。触感には通りで納得してしまう訳だ。
手元に残った具材を見る。残っているのは大根、そして、ソーセージだ。
ソーセージといえば触感だと俺なら答える。「皮なし」なんていう商品もあるが、俺はやはり「皮あり」であのぷりぷりとした触感を楽しみたいのだ。そして、俺は口にソーセージを運んでみる。皮はあるようだが……。
そこにはプリッとした感覚が確かにあった。だが、肝心の味はそのまんま出汁の味だった。味に特に出汁と変化がないソーセージに少し残念に感じてしまう。
帰路を歩きながら俺はおでんを食べる。雪の降る中おでんを食べ続ける。顔だけじゃなく、手まで寒い。しかし、体はポッカポカだった。おでんのおかげだろう。
「ごちそうさまでした」
ゴミを持ち帰ることは忘れない。容器を袋の中に入れ、その口を縛る。次はロールキャベツを食べたいなと思いながら。