プロローグ 新魔王の眠れない夜
普段では真面目に考えないようなことを、やけに熱心に考え込んでしまう夜がある。
自分はなんのために生きているのだろうとか、宇宙はどのようにして始まったのだろうとか、死後の世界はどうなっているのだろうとか……そういう類の思考に入ってしまう時間帯のことを、新魔王は大賢者タイムと呼んでいた。
そして新魔王は今、異世界に転生してきて初めて大賢者タイムを迎えている。
窓辺のカーテンが揺れ、魔界の冷たい空気が頰を撫でると、赤い月の光がベッドのシーツを染めた。どれだけ寝返りを打っても思考は巡ることをやめず、安眠は訪れてくれない。体は疲れているのに、頭の中はむやみやたらと、解けるはずのない問題提起を繰り返してくる。
(そもそも異世界転生って何なんだ。俺はどんな理由でチート能力を与えられ、この世界に存在しているんだ)
煩わしい心音が、眠りへ落ちることを妨げている。
実際に死んでみるまでは、本当にこのような死後の世界があるだなんて思ってもいなかった。やってきたこの異世界は、剣や魔法が登場する、慣れ親しんだファンタジーゲームのような世界だった。
それにしたって、と新魔王は布団を抱きかかえる。
無敵のチート能力はお約束とはいえ、元いた世界からなんでも取り寄せられる能力だとか、インターネットを接続できる能力は、どう考えてもやりすぎではないだろうか。
その気になれば異世界ポケットを使って、元の世界から人間を取り寄せることだって出来る。さらに乱用をすれば、元の世界を滅茶苦茶にしてしまうことだって可能だ。なにせ異世界ポケットは、廃校を丸ごと異世界に持ってくることさえ出来るのだ。
インターネットを使えば、家族や友人に連絡を取ることだって出来る。自分が異世界で生きていることを伝えたら、大きなニュースになった世界がひっくり返ることだろう。
新魔王は生前、たくさんの異世界転生ライトノベルを読んできた。しかし、同じような境遇の主人公を見たことはなかった。
いったいどこまでが許容範囲なのか。この異世界と元の世界は、どのように関係しているのか。これだけ優遇されるようなこと、例えば誰もが感心するような善行などを積み上げた覚えもなかった。
ただ死後、不思議な光に包まれたあの空間で、問われるがままに自分の願望を突きつけて見せただけだった。今となっては、あの時にどのような会話をしたかも、おぼろげな記憶になっている。
新魔王はベッドから降りて、机に置いてあったコーラのペットボトルに口をつけた。
生ぬるい中途半端な炭酸が、現実と非現実の間をさまようような、気味の悪い喉越しを感じさせる。
どこまでも静かな魔界の夜が、心底にあるほんの僅かな不安さえも見逃すまいと、じっとこちらを見つめているような気がした。
気を紛らわせようと、パソコンを起動させた。モニターの日付を見れば、この異世界にやってきてから一ヶ月になることがわかった。
ニュースサイトでは、もうすぐオリンピックだとか、元号が変わったというニュースが取り上げられている。
そこにあるのは、生前に自分が目にしていた日常そのものだ。しかし、そんなものがどうして、異世界にいる自分の目の前にあるのか。
筆舌にしがたい感情が込み上げてきて、新魔王の額には脂汗が浮いた。お気に入りのエロ画像フォルダを開いてみても、まったく興味を惹かれない。性欲そのものを失ってしまったかのような虚無感に、強い吐き気を覚える。
気晴らしのつもりパソコンに触れたのは、逆効果だったようだ。
パソコンを閉じようとマウスを動かしたところで、新魔王の手が止まる。デスクトップに置かれたアイコンに目が留まったのだ。
『だあきるのふおるだ』
大賢者タイムの新魔王の心境など、まったく意に介さないように置かれた間抜けなフォルダ名に、新魔王は不思議な安堵を覚えた。同時に、ダーキルがここにいてくれれば、このようなつまらない不安に襲われることはないだろうとも思った。
ダーキルの顔を見たい。しかし、こんな夜中に呼び出すわけにもいかない。
(眠くなるまで、散歩でもしていよう)
そう思ってクローゼットに手を伸ばすと、隙間から見覚えのあるメイド服の裾がはみ出していることに気がついた。
ゆっくりとクローゼットを開くと、すました顔のダーキルと目があった。
「おはおーございます、新魔王様」
「……朝にはまだ早いが」
「本日はいよいよ、新魔王様とお出かけの日です。ダーキル、楽しみで眠れそうにありませんでしたので、新魔王様のお近くで待機をすることにしたのです」
ダーキルは悪びれもせずクローゼットから出てくると、乱れたメイド服のリボンを丁寧に直した。
こんなところで何をしているのだと、いつもなら叱責の言葉を投げつけるところだが、大賢者タイム中の新魔王はダーキルを見つめたまま動けずにいた。
「新魔王様、お身体の具合でも悪いのですか。先ほどから眠れずにいらっしゃったようですし、顔色も優れないようです」
ダーキルの白く細い手が伸びて、新魔王の額に当てられた。冷たい感触の手のひら越しに、治癒魔法が流れ込んでくる。そんなささやかな気遣いが、今の新魔王にはありがたく感じられた。
「心配ない、ちょっと考え事をしていただけだ」
「ダーキル、わかります。聖女タイムというやつですよね。ひとりエッチもほどほどにしないといけませんよ」
「……お前と一緒にするな」
新魔王が苦笑をすると、ダーキルもにこりと笑みを返した。ダーキルは手際よくベッドの乱れを直すと、ぽんぽんと布団を叩く。
「どうぞ、新魔王様」
「ああ、すまない」
新魔王は布団をかけられ、目を閉じた。
さっきまでの不安と心細さが、静かに凪いでいくのを感じる。
「ダーキルはこちらに控えておりますので、安心してお休みくださいね」
やがて眠りを誘うかのように、心地の良いメロディが聞こえてきた。ダーキルが歌っているようだ。
柔らかくも物悲しい旋律に、新魔王の意識はゆっくりと沈み込んでいった。




