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記憶にも残らない夢のかけらに埋もれた朝、窓から僕の頬に向けて降り注ぐ温かさによって、心地よい目覚めがプレゼントされた。
起きたばかりのため、まだちょっと寝ぼけた感じも残ってはいたけど、清々しい暖かさが僕を包み込んでいた。
昨夜のぼやけたような記憶から考えると、すごくすっきりした目覚めだったと思う。
ふと、今もまだ、あの甘いお香の匂いがほのかに残っているのを感じた。
昨日寝たときに比べるとかなり薄れているようだから、朝になる前に火は消え、残った匂いが部屋の中に漂っている状態なのだろう。
僕はゆっくりと体を起こし、周りを見渡してみる。
その瞬間、軽いめまいを覚えた。
目を覚ましたときの清々しさからは想像もできなかったため少々驚いたけど、体を素早く起こしたことで頭まですぐには血が行き渡らなかっただけだろうと結論づける。
僕の身を温めていた日差しは、窓に取りつけられた板の隙間から漏れていた。
「あら、起きたのね。おはよう」
不意に、すぐ近くからキヌサヤの声がした。
朝から爽やかな笑顔を見せてくれる。
あれ、でもどうしてこの部屋に……?
「朝食もできているわ。冷めないうちにどうぞ。……あ、でも、起きてすぐだし、食べられないかしら?」
「いえ、いただきます」
そうか、朝食ができたから起こそうとしてくれたのか。
僕はすぐにベッドから出て、テーブルへと向かった。
テーブルの上には、温かいお茶とパンがすでに用意されていて、美味しそうに湯気を立ち昇らせていた。
僕は遠慮せずそれらに手を伸ばし、素早く口に運んだ。
「アスパラ、具合のほうはいかが?」
キヌサヤは心配そうに尋ねてきた。
僕は、まだ呼ばれ慣れていない名前に少々戸惑いを感じながらも、素直に答えを返す。
「うん、平気みたいです」
それを聞いてキヌサヤの笑顔の明るさが三割増しくらいになったように見えた。
昨日はぼんやりしていたため、よく考えもしなかったけど。
キヌサヤからは、とても表情のわかりやすい、素直で嘘のつけない人、といった印象を受ける。
そばにいてくれるだけで温かい、こんな人がずっと一緒にいてくれたら幸せだろうな……。
そんなことまで考えてしまうほどだった。
「でも昨日も言ったけど、一応診察してもらったほうがいいわ。食べ終わったら村のお医者様のところへ行きましょうね」
そう言って、やはり笑顔を送ってくれるキヌサヤ。
僕よりちょっと年上だろうとは思うけど、キヌサヤの澄んだ瞳に、温かい微笑みに、僕は惹かれ始めていた。
思わず顔が熱くなってしまう。
気恥ずかしくて、それをキヌサヤに悟られないよう、僕は急いでパンを口に含み、お茶でのどに流し込んだ。
☆☆☆☆☆
朝食後、洗い物を済ませたキヌサヤとともに、僕は医師の家に向かうことになった。
僕自身はとくに用意する物もなかったけど、女性の支度には時間がかかるようで、先に家の外に出てしばらく待っている状態だった。
キヌサヤの準備ができるまでのあいだ、家のそばからだけど村の様子を軽く観察してみた。
まだ朝の早い時間だからか、人通りは全然ない。
そして、昨日も気になったことではあったけど、霧は辺りを深く包み込んだままだ。
霧を越えた上空はどうやら晴れているようで、明るい日差しはなんとなく感じられる。
その光で僕は目を覚ましたわけだけど、まぶしい、というほどの強い光ではない。
青空はまったく見えず、すぐそばまで迫っているはずの森の木々ですら、視界の中でぼやけているほどだ。
「お待たせ~。ごめんなさいね、時間がかかってしまって」
しばらくして、キヌサヤがそそくさと玄関から出てきた。
村の医者につき添いで行くだけなのだから、とくに着飾る必要はないだろうに。
キヌサヤが言うには、身だしなみにはそれなりに気を遣っていて、数日のうちに同じ服を着たりしないようにはしているのだそうだ。
あまりシャレた服などを持っているわけではないらしいけど、それでも色合いを気にしたりなど、いろいろと考慮する部分はあるみたいだった。
「いえ、平気です。霧が濃くてよく見えないのが残念だけど、いい村ですね」
「あら、ありがとう。この村で生まれ育ってずっと住んでいるのだけど、私もやっぱりそう思うわ。昨日も言ったように、森の外にほとんど出たことがないくらいだもの。外の世界にも少しは興味があるのだけど、でも私はこの村が好きだから離れようとは思わないのよね」
特別な理由がなければ、自分の故郷が褒められて悪い気はしないだろう。
キヌサヤは自然と笑顔になっていろいろと話してくれた。
もちろんさっきの僕の言葉は、キヌサヤの気をよくするための社交辞令なんかではなく、素直に口からこぼれ落ちた素直な思いだったのだけど。
「おや、キヌちゃん。おはよう」
不意に、並んで歩く僕たちの前方から声がかかった。
そちらに目を移すと、品のいい笑顔を浮かべる白髪まじりの女性と、その横に寄り添う、やはり笑顔が似合いすぎるほどの雰囲気を漂わせる、こちらも白髪まじりのすらっとした細身の男性が立っていた。
「あら、モロヘイヤじーじに、キュウリ夫人。おはようございます。今日もお揃いなんですね。いつも仲がよろしくて、うらやましいです」
対するキヌサヤも、他意のない真っ直ぐな笑顔で挨拶の言葉を返す。
村全体を覆う霧や、うっそうと生い茂る森に囲まれた薄暗い雰囲気なんて吹き消してしまうほど、明るくほのぼのとした空気が辺りを包み込んでいた。
「今日はそちらも、お連れさんがいるんだねぇ。彼氏さんかい?」
キュウリ夫人が微笑みを絶やさぬまま、やんわりとした軽い口調で尋ねてくる。
モロヘイヤじーじと呼ばれたおじいさんのほうも、夫人の斜め後ろ辺りで優しげな微笑みをたたえ続けている。
とても仲のよい夫婦、といった雰囲気を漂わせていた。
「やだ、そんなのじゃないわ。昨日、森で倒れているのを見つけて、記憶も失くしているようだったので、私の家で休ませてあげただけです」
「あらあらまあまあ。いきなりひとつ屋根の下でともに夜を明かしたの? 最近の若い子は、進んでるわねぇ」
不意打ち攻撃に、おっとりして落ち着いた雰囲気のキヌサヤもちょっと慌てた様子だった。
「えっ、いえ、そういうのじゃなくって……。部屋は別々ですし、アスパラは疲れてすぐに眠ってしまったし。ねぇ?」
僕に同意を求めてくる。
ふたりだけでいるときと比べて、また新鮮な感じだった。
少し年上っぽいけど、普通の女の子なんだな。改めてそんなふうに考えながら、思わず微笑んでしまっていたらしい。
「ちょっと、なにも言わずに笑ってたら、余計に誤解されちゃうじゃないの」
キヌサヤはさらに慌てて、僕につかみかからんばかりの勢い。
「あらあら、仲がよろしいことで」
相変わらずの微笑みに包まれた夫人&じーじコンビ。
キュウリ夫人は、若い子をからかって楽しんでいるだけのようだった。
もっとも、焦り続けているキヌサヤのほうは、からかわれてるとは気づきもしない様子だったけど。
「ああ、もう、なんでそうなるの?」
キヌサヤは困惑しながら、そんなことをぼやいていた。
そういえばさっき言っていたっけ、この村からほとんど出たことがないって。
まだ僕が見ているのはほんの一部だけでしかないけど、キヌサヤがこの村から離れたいと思わない、この村が好きな理由の一端を感じることができた気がした。
「それじゃあ、私たちはまだ散歩の途中なので、これで。おふたりとも、これからも仲よくね」
そう言って夫人はウィンクすると、じーじを従えてゆったりとした足取りで去っていった。
☆☆☆☆☆
「あれ、キヌサヤだぁ~!」
気を取り直したキヌサヤが、それじゃあ行きましょう、と僕を促して歩き出した途端、朝もやを吹き飛ばすかのような勢いで元気いっぱいな声が響いた。
「おっはよ~~~!」
ものすごいテンションで駆け寄ってきたのは、歩きにくそうなほどに色とりどりな生地を何枚も重ねたような、キヌサヤやさっきのご老人たちと比べると豪華そうな服を着た少女だった。
長い裾を踏みつけて今にも転びそうな走り方だったけど、慣れているのかバランスは上手く保っている。
「あら、姫。おはよう」
ニコッと微笑みかけるキヌサヤ。
……え? 姫?
怪訝な表情を浮かべているのがわかったのだろう、キヌサヤが解説を入れてくれた。
「この子は村長さんの娘で、ワサビちゃん。これでも十五歳なんだけどね」
僕のひとつ下なだけなのか……。全然そうは見えないのだけど。
というか、村長の娘って、姫になるのだろうか……?
まぁ、村の中で考えたら、そういう扱いになるのかな。
「ねぇ、これ誰~?」
僕がいることに、たった今気づいたと言わんばかりの表情で、少女はキヌサヤに尋ねる。
というか、「これ」扱いですか……。
「昨日、森で倒れていたのを助けて連れてきたのよ」
「へぇ~」
僕のことを上から下まで全身くまなく、じろじろと見るワサビ姫。
「いいもの拾ったね!」
とりあえず僕は苦笑を浮かべるしかなかった。
やっぱり物扱いなんだ。身分の高い家系で育つと、そうなってしまうものなのかな。
「べつに自分の持ち物にするわけじゃないんだから……」
キヌサヤも苦笑を浮かべている。
きっといつもこんな感じなのだろう、この姫は。
「結構元気そうではあるけど、念のため、お医者様に診てもらいに行くところなのよ」
「クレソン先生のとこに行くの? ふぅ~ん。……気をつけてね」
え……?
不意のことだったのでよくわからなかったけど、最後の言葉は僕に向けて言ったように思えた。
声のトーンも微妙に変わっていたような……。
「あっ、時間ないんだった。早く畑に行かないと。それじゃあ、またね!」
けろっと明るい声に戻ったワサビ姫は、あんなに動きにくい服装だというのに、器用にも颯爽と走り去っていった。
「……畑?」
「ええ。村長さん、数ヶ月前に亡くなられてね……。お母様も幼い頃に病気で亡くしているから、あの子はひとりでずっと頑張っているのよ。ヒルの件とかで大幅に収穫は減っているけど、村長の持ち物だった畑がこの村の主な食料源になっているわ。本来なら、村の人たちだけで農作業をするんだけどね。今はちょっと人手も足りなくて、ワサビちゃんは自ら進んで農作業に従事しているの」
そんな事情があったなんて。
あの明るい笑顔からは想像もできなかった。
「だけど、あんな性格だし、明るく生きているわよ。だからあまり気にしないこと。普通に接してあげないと、ね?」
「そうですね」
小さな村とはいえ、いろいろあるんだな。そう思った。
でも……あの服装は、農作業には向いてないぞ!
心の中でツッコミを入れずにはいられなかった。……今度会ったら絶対そう言ってやろう。




