-2-
「ここが、トマト村よ」
目の前に広がった集落――。
とはいってもすでに日は落ち、街灯などもまったくないため、近くにある建物の影がちらほらと見える程度だったのだけど。
周囲には霧が立ち込めているようで、さらに視界を遮る形になっていた。
「見ての通り、ここは森の中にひっそりと作られた村なの。村人の数もあまり多くはないわ。もうこの時間だとみんな寝静まっているんだけどね。……私の家はこっちよ、ついてきて」
小声でそう言って歩き出すキヌサヤ。
僕はそのあとを追って歩いていく。
辺りは、本当に真っ暗だ。
夜道を歩いてきて目が慣れていたため、歩くのにはそれほど問題はなかったのだけど。
その他に気になったのは、村全体からなのだろうか、ちょっと甘い感じの匂いが漂っていることだ。
周りの様子もよく見えない僕には、とにかくキヌサヤのあとについて歩いていくしかなかった。
村に入ってからは、そよ風が吹き抜けるからか、少々肌寒さも感じるようになっていた。
「ここよ」
指差した建物のドアを開け、キヌサヤは中に入ていった。
当然、僕も続く。
キヌサヤがランプに火を灯すと、それほど強い明かりというわけでもないのに、暗闇に慣れた目には眩しすぎて、僕は思わず顔をしかめてしまう。
家の中には、他に人のいる気配は感じられなかった。
「えっと、ご家族は?」
「え? いないわよ。ひとりで暮らしているの。……お茶でも淹れるわね。そこに座って待っていて」
簡素な木の四角いテーブルに、簡素な作りの椅子が四脚。
見回すと、無駄な物などなにもないという感じの、質素な雰囲気漂う部屋だった。
ドアから入ったすぐのこの部屋には、このテーブルの他には、少々の荷物が隅に並べられているくらいだ。
ここからは、ふたつの部屋へと通じているようだった。
ひとつは先ほどキヌサヤが向かっていったほう。おそらく台所があるのだろう。
もう一方は、奥まではよくわからないけど、見える範囲にはなにも置かれていない。空き部屋なのだろうか。
家は全体的に木で作られていて、あまり広くはなさそうだ。
複雑な造りにはできないだろうし、正方形を縦横ふたつずつに区切り、合計四つの部屋に分けてあるといった感じだと考えられた。
僕は先ほどのキヌサヤの言葉に従い、椅子に座った。
ひとり暮らしなのに、四脚の椅子があるテーブル。部屋の広さからすると少々不自然な大きさではあった。
接客用にと考えてのことかもしれないし、たまたまこのサイズのテーブルしかなかっただけかもしれない。
それにしても、女性のひと暮らしの部屋にこんな夜遅くにお邪魔しているなんて。
そう思うと少々気恥ずかしさを感じる。
助けてもらったのに、なにを考えているんだか……。
もしかしたら、村に足を踏み入れてからずっと感じているこの甘い匂いのせいなのかもしれない。
……そういえば、家の中に入ってからもこの匂いはしている、というよりも、さらに強くなっているような気も……。
「お待たせ。冷めないうちにどうぞ」
キヌサヤが戻ってきた。
木で作られたふたつのコップをテーブルに置いて、僕の正面の椅子に腰を下ろす。
僕はそのコップを受け取り、お茶をのどに流し込んだ。
はぁ……温まる。
寒いというほどではないにしても、夜中ともなると、それなりに涼しい気温になっていた。
全身に熱が波のように広がっていくのを感じる。
お茶は、熱すぎず、ぬるすぎず、という絶妙な温かさで一気に飲み干すことができた。
その辺りもキヌサヤの心配りの一端なのだろうか。
「あっ、そうだ。匂い、気になるかな?」
「えっと……ちょっとだけ。甘い匂いがするなって、村に入ったときから思ってたんですけど」
「さっき、森は危険だって言ったでしょ? 植物とかもそうなんだけど、今、森の中でなぜかヒルが大量発生しているみたいなのよ」
「え? ヒル?」
ヒルというと、あの、ヌメヌメした体の、血を吸うアレだろうか。
「うん、そのヒル。森に入るとすぐに血を吸われてしまうくらい、大量に増えているみたいなの。だから森に入るときには、この匂いの素を体中に吹きつけてから出かけるし、どの家でもこのお香を焚くようにしているの。今も隣の部屋で焚いているのよ」
そうか、森の中で会ったときに感じたほのかな甘い香りは、このお香と同じものだったんだ。
「そういえば、体のほうは大丈夫?」
「あ……ええ。平気みたいです。ちょっと頭がぼやけているような感じは残ってますけど……。こんな時間だし、眠いだけかも」
「それもそうね。もう遅いし、今日は休んだほうがいいわ。ちょっと待っててね」
素早く立ち上がるキヌサヤ。
台所とは別の方向――奥まで見えなかったほうの部屋に歩いていった。
「こっちが寝室になっているの。ここを使ってね。……え? 私? 大丈夫よ。私は台所の奥の部屋を使ってるの。この部屋は来客用って感じかしら。ほとんど使ったことはないのだけど……。ちょっとした物置みたいにしていたから、少し片づけるわね」
そう言って、彼女はいくつかの袋などをせっせと台所のほうへと運び出していた。
「部屋もベッドもあまり綺麗ではないけど、虫とかは出ないと思うわ。……たぶん」
この家もそうだけど、僕の住んでいた地域でも床は地面がむき出しになっているため、ベッドで寝るのが一般的だ。
この村でもやはりそうらしい。
僕は家族や知り合いの記憶なんかはないのに、そういった一般常識のような事象は不思議と覚えているようだった。
キヌサヤが準備してくれたベッドは、やはり簡素な造りで、地味な色の布団がかけられていた。
「もし、どうしてもひどくて眠れないようなら……私の部屋をお貸ししてもいいけど……」
そこまで言ってくれるキヌサヤ。
さすがにそれは悪いし、だいたい部屋やベッドを貸してもらえるだけでもありがたい。
「たとえお香の効果が効かないほどにひどくてヒルまみれになったとしても、キヌサヤの安眠を妨害なんてしませんよ」
「ふふ。お香は長持ちするようにできているし、匂いの素になる草も足しておいたから、朝まで効果がなくなったりはしないと思うわ。たとえ火が消えても何時間かは匂いがこもったままになるしね」
「ありがとうございます」
僕は素直にお礼を述べる。
それにしても、本当に助かった。
キヌサヤがいなかったら僕はあの森の中で、今頃どうなっていただろう。
大量に発生したヒルに次々と血を吸われ、もがき苦しむなんて状況になっていたかもしれない。
「どういたしまして。……そうだわ、明日になったら念のため、村の医師に診てもらったほうがいいわね。記憶もまだ戻っていないのでしょう? ケガはなくても、なにか悪い毒にやられていたら困るものね」
それじゃあ、おやすみなさい。
キヌサヤはそう言って部屋を出ていった。
僕は眠気も強くなっていたため、すぐベッドに身を横たえる。
キヌサヤがテーブルの上のコップを片づけ、台所で洗っている音を聞きながら、ぼんやりとした頭で考えてみた。
さて……いったい僕は誰なのだろう。
考え始めて、すぐに壁にぶち当たる。ダメだ。なにも思い出せない。
自分のことは諦め、今度はキヌサヤのことを考えてみる。
森に倒れていたからとはいえ、見ず知らずの僕を泊めてくれるなんて、キヌサヤは優しい女性だな。
育つ環境によって人は変わるものだと思うし、村自体がそういう雰囲気の人ばかりなのかもしれないけど。
すぐに洗い物の音は聞こえなくなり、キヌサヤも寝室のほうで休んだのだろう……と思う。
僕の意識は、洗い物の音が消えるか消えないかわからないうちに、すでに眠気に負けて深い闇の中へと落ちてしまっていたのだけど。
部屋に充満する、甘いお香の匂いに包まれながら――。




