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温かく明るいベールに包まれた不思議な場所に、僕はいた。
あれ、ここはどこだっけ……?
目の前では、その温かさの中心となっている存在が、ただただ笑顔で僕を見つめている。
婆ちゃん。
僕は、小さい頃から、お婆ちゃん子だった。
そうだ、いつも優しく見守ってくれた婆ちゃん。
しわくちゃな顔だけど、しわくちゃな手だけど、そこに存在してくれているだけで安心できる。そんな婆ちゃん。
いつも近くで僕を見守ってくれていた。
「どうしたんだい、そんな顔をして? いつも笑顔でいないとダメだよ? 幸せは笑顔が運んでくれるんだからね」
婆ちゃんはそう言って、僕の頭を撫でてくれた。
「うん、僕、怖くないよ! 笑顔笑顔! だよね?」
目の端に残ったままの涙を振り払うように、僕は笑顔を作った。
婆ちゃんも満足そうに微笑む。
「うんうん。それでいいんだよ」
婆ちゃんそっと僕を抱きしめてくれた。
そうだ、このときのことは、なんとなく覚えている。
今はもう居なくなってしまった婆ちゃん……。
その優しさに包まれて、なんとか自分の意識を保つことができたんだっけ。
僕はすごく怖かったんだ。
……でも、なにに怯えていたんだろう?
……思い出せない……。
とにかく怖かった。
未来への道が完全にそこで途絶えてしまうかと思うくらいの恐怖、だったと思うのだけど……。
とにかく僕は、婆ちゃんのおかげで、生き続けていく気力を持ち続けられたのだ。
もうあれからかなりの時間が経ったのに、今でもまだこのときの記憶を夢に見てしまう。
それだけ僕の心に深く刻まれた出来事だったのだ。
「さあ、そろそろ行こうかね」
婆ちゃんが僕を促す。
腰も曲がり背は低かったはずだけど、まだ小さな僕にとってはとても大きな存在だった。
婆ちゃんの顔を見上げて、うん! と元気よく返事をする。
だけど――。
あれ……?
そんな婆ちゃんの顔が、歪んでいく……?
「ん? どうしたんだい?」
優しい笑顔のまま、婆ちゃんの顔の歪みはさらに大きくなっていった。
あれ? あれれ? どうして?
僕は不思議で不思議で、でもどうすることもできなくて、ただただ変わっていく婆ちゃんの顔に目を凝らすしかなかった。
「ほら、笑顔笑顔、だよ?」
そう諭すように語りかける声は、いつもの婆ちゃんのままだったけど。
顔はみるみるうちに若返って、そしてまったく別人の顔になってしまった。
「どうしたの? 大丈夫?」
婆ちゃんの手が僕の肩をつかんで軽く揺さぶった。
そこで僕は、目を覚ました。
☆☆☆☆☆
目の前に女性がいた。
夢の中で最後に見た顔――。
「大丈夫?」
その女性の問いかけに、ぼやけた頭の僕は思わずこう言っていた。
「婆ちゃん……?」
一瞬絶句する女性。
その沈黙の時間で、僕の頭もちょっとずつ、はっきりとしてきた。
あ……寝ぼけていたからとはいえ、僕はなんてことを……。
ともあれ、まだ微妙にぼやけたままの頭なので、弁解の言葉も出てこなかった。
見たところ、年の頃は僕よりは少し上、十七~八歳くらいだろうか。
長い髪と少々たれ目気味の穏やかな表情のせいか、落ち着いた雰囲気は受けるけど、まだ若いはずだ。
そんな女性に向かって、婆ちゃんだなんて……。
内心焦りを浮かべつつ、なにも言えずに女性の顔を見つめている僕。
そんな僕に向かって、彼女はどうにか笑顔を作って話し出した。
「あ……あら、まぁ。寝ぼけているのね。でも気がついてよかったわ」
優しい口調でそう言いながらも、こめかみの辺りがちょっとピクピクしているように見えたのは、はたして気のせいだっただろうか。
どうにか僕の頭も少しは回ってきた。
ここは、どこかの森のようだ。僕はこの森の中で倒れていたらしい。
細いし舗装されてなどいないけど、けもの道と呼べるくらいの状態にはなっているだろうか。
むき出しの地面の湿り気と冷たさが、手のひらを通じて伝わってくる。
「こんなところで倒れてるなんて、いったいどうしたの?」
そう問われても、僕には返す言葉がなかった。自分でも、まったく覚えがないのだから――。
なぜこんな場所にいるのだろう。
なぜ倒れていたのだろう。
そして、なぜなにも覚えていないのだろう。
「あなた、お名前は?」
口をつぐんで呆然としているだけの僕に、彼女はさらに質問を浴びせてくる。
そうだ、僕は……いったい誰なんだ?
無言で首を横に振る。
そう、僕は自分の名前すらも覚えていなかった。
どこに住んでいて、どこからこの森に来たのか。家族や友人や、その他の人たちのこともなにもかも。
婆ちゃんの顔だけは夢の記憶で覚えていたけど、それも曖昧なイメージだけで、やはり名前すら思い出せなかった。
「そう……。この森にはいろいろと危険があるわ。記憶を失くしてしまうような毒を持った植物があるとも聞いたことがあるし、それが原因かもしれないわね」
女性はそう言って、僕の体を軽く支えて起こそうとする。
ほのかに甘い香りがした。
「大丈夫? 起き上がれる?」
気遣ってくれる優しい雰囲気は、本当に夢の中で見た婆ちゃんとそっくりだ、なんて思ってしまう。
僕は腕に力を込めて体を起こした。
こんなところで倒れていたというのに、これといった傷なども見当たらず、とくに痛みもない。
「うん。大丈夫そうね。……歩けるかしら?」
僕は彼女に肩を借りる形で身を起こした。
若干めまいを覚えつつも、どうにか立ち上がることはできた。
「無理はしなくていいのよ? 大丈夫?」
僕は素直に頷く。
まだ頭にぼやけた感じが残ってはいたものの、普通に歩くことはできそうだ。
「この森は、さっきも言ったけど、ちょっと危険なの。時間も遅くなってきたし、とりあえず私の村へ行きましょう。ここからそんなに遠くないし。今日は私の家で休んでいくといいわ」
彼女は僕に肩を貸したまま、ゆっくりと歩き出した。
僕は、支えてもらわなくても大丈夫だろうと思い、また、見ず知らずの女性に支えられながら歩くことに恥じらいも感じ、ひとりで歩けますよ、と断って自らの足で歩いた。
足もとはまだ少々覚束ず、僕がふらつき気味になるたびに、強がらなくてもいいのに、という小さなつぶやきを耳にしながら、僕は彼女のすぐ後ろを歩いていく。
女性は僕に無理をさせないよう、ゆっくりとした足取りで歩いてくれていた。
暗い森の中を進んでいくあいだも、僕を気遣って女性はいろいろと話しかけてくれた。
「私はキヌサヤといいます。この森の奥にあるトマト村で生まれ育って、森の外にもほとんど出たことはないの。最近は霧がなかなか晴れなくて少し薄暗いけど、とってもいい村よ」
僕は相づちを打ちながら話を聞く。
歩いていくあいだに周囲に視線を巡らせてはみたけど、とても薄暗く、ほとんどなにも見えやしなかった。
見えるのは木の枝や幹や葉のみ。
うっそうと生い茂る木々が森の深さを物語っていた。
キヌサヤと名乗った女性は、そんな森の中を迷う素振りもなく進んでいく。
僕には違いがわからないような場所でも、この辺りで生活している彼女にとっては、見慣れた日常の光景なのだろう。
「あなた……。う~ん、名前がわからないと呼びにくいわね……。もしよかったら、思い出すまでのあいだだけでも呼びやすいように、私が名前をつけましょうか?」
そんな申し出をしてくるキヌサヤさん。
僕が自分で適当な名前を名乗るのではダメなのだろうか、とも思ったけど、せっかくそう言ってくれているので、お任せすることにした。
「そうね、それじゃあ……」
あごに人差し指を置いて考え込む仕草が、妙に可愛らしい。
「アスパラ! ……で、どうかしら?」
キヌサヤさんは目をきらきら輝かせながら提案する。
トマト村にキヌサヤさんだし、なんとなく思考の方向性は予想していたのだけど。
「……わかりました、アスパラですね。名づけてくれて、ありがとうございます」
「気に入ってもらえて嬉しいわ。それと、さん、はつけなくていいわよ。私もアスパラって呼ぶことにするから」
気を遣って名づけてくれたのだから、と思って出たお礼の言葉だったのだけど、彼女は僕が名前を気に入ったと思ったらしい。
まぁ、べつに構わないけど。
一応年上っぽい感じではあるけど、こう言ってくれているのだし、僕のほうも素直に彼女をキヌサヤと呼ぶことに決めた。
「そろそろ村に着くわよ」
僕には景色の違いなんて全然わからなかったけど。
どうやら村までもうすぐのようだ。
心なしか、キヌサヤの足取りも軽くなっているように感じた。
やがて、視界は突然開けた。




