第2話 『空っぽの厨房』
東京。
《Lumière》の厨房。
朝なのに、音が足りない。
いつもなら小春の「おはようございます」が最初に響く。
オーブンの予熱を確認する背中。
味見して首をかしげる癖。
全部、ない。
◇
スタッフの一人が恐る恐る言う。
「……奥様は?」
ルイは一瞬だけ止まる。
「休みだ」
短い。
それ以上は言わない。
でも空気は、重い。
◇
試作。
いつもなら小春が隣で味を見る。
「ちょっと苦いです」
「蜂蜜、あと0.5グラム」
そんな声が脳内で再生される。
ルイは苛立つ。
(集中しろ)
ガナッシュを仕上げる。
完璧なテンパリング。
完璧な温度。
完璧な見た目。
一口。
……無味。
いや、味はある。
だが、何も響かない。
◇
夜。
自宅。
テーブルの上の指輪。
離婚届。
サイン済み。
彼女の字は、震えていなかった。
それが余計に刺さる。
「一度だけだ」
自分で言った言葉が、頭を殴る。
一度。
酔っていた。
弱っていた。
甘えた。
言い訳はいくらでもある。
でも事実は一つ。
裏切った。
◇
ルイはスマホを握る。
電話。
コール音。
出ない。
もう一度。
出ない。
メッセージを打つ。
『話したい』
既読はつかない。
◇
翌日。
週刊誌の件は拡散。
SNSは炎上。
《理想の夫婦崩壊》
《世界一パティシエの裏の顔》
取材依頼が殺到。
ルイはすべて断る。
厨房に立つ。
だが集中できない。
皿を落とす。
スタッフが凍る。
「……すみません」
謝ったのは、ルイだった。
全員が驚く。
◇
海辺のカフェ。
小春はマドレーヌを焼く。
バターの香り。
優ちゃんがコーヒーを置く。
「連絡は?」
小春は首を振る。
「見てない」
嘘ではない。
本当に、見ていない。
見ると、揺らぐから。
◇
夜。
小春は一人、海を見る。
波の音。
心は静か。
怒りより、悲しみより、
空虚。
(終わったんだ)
五年の約束。
世界一の瞬間。
プロポーズ。
全部、夢みたいに遠い。
◇
東京。
ルイは一人、店の厨房で徹夜する。
原点を思い出せ。
なぜ作る。
なぜ、ここまで来た。
浮かぶのは、五年前の少女。
「愛は逃げない」
――逃げたのは、自分だ。
◇
翌朝。
ルイは決める。
店を副シェフに任せる。
「どこへ?」
スタッフが聞く。
「海だ」
それだけ言って、コートを羽織る。
◇
海辺。
カフェのドアベルが鳴る。
優ちゃんが顔を上げる。
目が細くなる。
「……来たね」
奥で小春が、凍る。
足音。
聞き慣れた、でも遠くなった足音。
ルイが立っている。
疲れた顔。
完璧じゃない。
初めて見る、弱い顔。
視線がぶつかる。
沈黙。
言葉が重い。
そして、ルイが言う。
「逃げた」
小春の胸が、わずかに動く。
「全部、俺が悪い」
言い訳は、しない。
「でも」
一歩近づく。
「終わらせたくない」
カフェの空気が張り詰める。
小春は、まっすぐ見る。
「終わったんです」
声は静か。
でも冷たい。
「温度が、消えました」
ルイは言葉を失う。
初めて。
完全に。
◇
ラスト。
優ちゃんが静かにカウンターを拭く。
その横顔は、少しだけ複雑。
小春の味方。
でも――
長年隣にいたのは、自分。
第三章は、まだ始まったばかり。




